164 怪我と生命と 1
サブタイトルは「けがといのちと」とお読みください。
三日後、天候にも恵まれて麦刈りは順調に進んでいた。刈入れに要する期間は毎年一週間前後。今はちょうど折り返しといったところで、ナザールの宿を取り囲んでいた黄金色の穂波も半ばほどが姿を消している。
折り返しということは真っ只中ということでもあり、宿屋は食堂を中心に大忙しである。サニアはもちろんのこと、タリアもさすがに書類に埋もれっぱなしになってばかりもいられない。人がまとまって一気に動くとどうしてもちょっとした揉め事や事故は普段より増える。それらの相談や裁定なども長であるタリアに持ち込まれるのである。
「この騒ぎが終わったらまた手伝いを頼めるかい?」
昨夜、マリコはタリアにそう告げられた。状況は明らかなのでマリコとしても否やはない。
その長の孫であるアリアやハザールも大人に混じって動き回っていた。さすがに力仕事や料理は任されないものの、給仕や洗い物の手伝いや各所への連絡係などできることは少なくない。今日は二人して父のいる放牧場へ昼食を届け、そのままそちらの手伝いをしているはずである。
当然ながら、麦刈りだからといって全員が掛かり切りというわけではない。宿屋と同様、店を持っている者はそちらの仕事があるし、家畜の世話も普段通りである。カミルは放牧場の仕事と並行して時折刈入れにも顔を出しているのである。
「カミルの手伝いって言ったって、あの子たちにできることはそんなにないでしょう? こないだの命の日も頑張ってくれたから、夕方まで犬たちと遊んで帰ってくればいいわ」
アリアたち二人を送り出した後、サニアはマリコを振り返って悪戯っぽく言った。命の日は本来なら休みの日であるが、今のような時はその限りではなくなる。今日の二人の仕事はその代わりということのようである。
「ああ、そういうことですか。わざわざ二人で行かせてたから何があるのかと思ってましたよ」
そう答えるマリコ自身はどうかというと、これまた当然ながら食堂を中心にあちらこちらと忙しい。幸いなことに体調は既に元に戻っていた。初日に治癒を使ったおかげだろうと思われるが、マリコの予想より終わるのが早かったのである。そのせいで次が早く来るのではないかというのがマリコの目下の心配事だった。
その上、マリコには仕事というか役割が一つ増えていた。それは治癒要員である。
三日前、バルトの組が出掛けていった日の昼過ぎ、たまたま野外席に給仕に出ていたマリコの前に足を怪我した男が担ぎこまれた。
――タリア様を呼んで治癒を
男を運んできた者の一人がそう言った。傷は結構深いらしく、足に巻かれた布にはどんどん血の染みが広がっていく。聞けば誤って手持ち鎌で切ったと言う。よく研がれたその刃の切れ味が鋭いことは知っている。マリコはその場で即座に治癒を使った。そして、一発で完治させたマリコを待っていたのは喜びと驚きの声だったのである。
その夜、タリアに聞いた詳しい話に今度はマリコが驚いた。現役の探検者を除いて、現在里に住む者で治癒を使えるのはタリアを含めて二人しかいないという。しかも二人とも元探検者である。現役でも使える者は多くない。サルマンの組には一人だけ、アドレーのところに至っては誰も使えないそうである。ミランダでさえ使えないのだった。五人中三人が使えるバルトたちが特別なのだとタリアは言った。
それで大丈夫なのかと聞いたマリコに、少々の怪我なら普通に治療するし、探検者はポーションを使うことが多いとタリアは答えた。ポーションはゲームにもあったが、ここの物は概ねそれに近い。使う――ここでは飲むか傷に振り掛ける――とHPが回復する――ここでは傷が治る――のだが、治癒ほど即座に効かない。怪我の度合いにもよるが数秒から数分掛かる。
「マリコ」もソロで動く時などはポーションも使ったが、やはり主となるのは費用や使い勝手の関係で治癒である。そのため、スキルレベルをどこまで上げるかはともかく、治癒はほとんど全てのプレイヤーキャラクターが習得していたはずだった。では、どうしてこの世界ではそんなに治癒を使える人が少ないのかとマリコは考えた。
(普通の人に持っている人が少ないのは置いておくとして、そんなに取りにくい魔法だったかな。いや待てよ、条件の中に「死に戻り」があったか)
プレイヤーはよく「死ぬ」と表現していたが、ゲームのプレイヤーキャラクターは事実上の不死者である。HPがゼロになっても本当に死ぬわけではなく、行動不能になるのだ。その状態のまま、一定時間誰にも治療してもらえないと登録した場所、いわゆるセーブポイントに戻される。それが「死に戻り」である。ゲームでの治癒の習得条件の中の一つに、この死に戻りを経験するという項目があったのだ。
ゲームの中では死に戻りは日常茶飯事である。経験値や所持金などが減るデスペナルティがあるのでわざわざやる者は少ないが、ある程度は戦闘をしないと話にならないので完全に無縁ではいられない。故に治癒を習得するために死に戻ることにもさほど抵抗はなかった。むしろ、デスペナルティがまだ大した損害にならない初心者のうちに取っておけというのが常識だったのである。
(もしここでも同じような条件なんだとしたら、死ぬほどの怪我をして生き残らないといけないってことになるのか。それはさすがに……)
誰にでも取れるものではないのだと、その時マリコは納得した。
そういったわけで、怪我をした者がマリコの元へとやってくるようになったのである。これが割りと忙しい。もちろん、魔法には魔力が必要でそれが無尽蔵ではないことは皆知っているので、誰でも彼でも来るわけではなかったが、普段より怪我人が増える時期でもあり、ある程度は仕方ないことではあった。
その上、本人は気付いていないことだが、怪我人が訪れる先はマリコに集中していた。マリコ、タリアともう一人の治癒の遣い手はタリアと同年代の男性である。怪我をするのが若者に多いことを考えれば、ある意味当然の帰結であった。
「今日辺り、そろそろバルトさんたちが戻ってくるはずですよね?」
洗い物の途中、稲架のための杭を足の上に落とされた男が連れてこられ、マリコは治癒を使った。男が自分の足で歩いて帰った後、彼ら三人も死にかけるような経験をしたのだろうかと考えていたマリコは、なんとなくそう口にした。
「あら、バルト君のことが気になるの?」
「いや、そうではなくてですね……」
何やら違う方向に受け取ったらしいサニアに言い返そうとしたマリコの言葉を、カンカンカンと鳴り響く音が遮った。
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