163 麦刈り 7
バルトが桶に汲んだ水で乾きかけた血の筋が付いた顔をバシャバシャと洗い流している。マリコの治癒で傷自体は治ったものの出血がなかったことになるわけではないからである。それを横目に洗濯の準備を始めようとしていたマリコは横から腕を軽く叩かれた。振り向くとカリーネが立っていて、ちょっとこっちへと袖を引かれて皆から少し離れる。
「後でもいいから、マリコさんも確かめておいた方がいいわよ。スカートの中」
「スカートの中?」
「そう、多分血が付いてると思うから」
「ええ!?」
スカートの中の血という言葉に、もしや見て分かるような粗相をしてしまったかと、マリコはギョッとして自分の身体を見下ろした。腰をひねって前後ろと目を向けてみたが、幸いそれらしい汚れは見えない。
「ああ、違う違う、そっちじゃないわよ。ごめんなさい、言い方が悪かったわね」
「そっちじゃない?」
「そう、あなたのじゃなくて、バルトの血。あれだけ出てるんだから、多分服や足にも付いてると思うわよ」
カリーネは後ろで顔を洗っているバルトをこっそり示しながら言った。
「ああ、そういう」
確かに先ほどの件はスカートで頭を包んで殴りつけたようなものである。元より頭部は小さな傷でも割りと派手に血が出るので、それは当然包んでいる物にも付いてしまうだろう。やはりそれなりに動揺していたのか、カリーネに言われるまでマリコはそんなところまで考えていなかった。
「それでね、マリコさん。その長さだからそうそうないとは思うんだけど、もしまたさっきみたいなことがあったら、ちょっと気まずい事になりそうだなって」
「うっ、それは……」
もしスカートの中や足に赤い何かをくっつけているのを発見されたら何と思われるか。マリコとしては冤罪だ! と言いたいところだが、今はタイミングが悪すぎる。カリーネは昨夜のマリコとサルマンのやり取りの際にバルトたちと一緒にいたので、今のマリコの事情を察していたのだった。マリコの脳裏には昨日の朝の焦りが甦る。背筋に嫌な汗が浮かぶが、同時に解決策も思い出した。
「それならもう後でと言わず今すぐ。浄化!」
マリコは自分の下半身に向け、問題を解決してくれる便利な魔法を気合を込めて放った。その途端、どこかでプツリと小さな音がして、腰に巻きついていた何かが緩む感覚がマリコを襲う。
「え!?」
腰回りが頼りなくなる感触に、マリコは反射的に太股を絞めると音がしたと思われる腰骨辺りを手で押さえた。
(こ、これはもしやパンツの……)
「マリコさん? どうかしたの?」
急に様子がおかしくなったマリコに、カリーネは心配して声を掛けた。硬直したマリコはギギギと音がしそうな動きで顔だけをカリーネに向けた。手を放すと落ちそうなのである。
「ええと……、多分、パ、パンツの紐が、切れたんだと……」
マリコは何と言おうか一瞬躊躇したが、結局正直に答えた。もし目の前にいるのがミカエラかサンドラであったら、マリコはなんとか誤魔化すことを考えていただろう。しかし何故か、カリーネなら言っても大丈夫だと思えたのである。年はかなり違うはずなのだが、何となくタリアに通じる安心感がカリーネにはあった。
「え!? あ」
さすがに驚いたカリーネはあわてて自分の口を押さえた。そっと皆の方をうかがうと、三人ともバルトに向かって何だかんだと言っていてこちらを見てはいない。カリーネはふうと息をつくとマリコに向き直った。
「それ大丈夫なの? 何とかなりそう? 歩ける?」
替えの下着自体はアイテムボックスにも入っている。しかし、この場で取り替えるわけにもいかないので、どこか着替えられる場所へ移動しなければならない。一番近いのは風呂場の脱衣所だが、目の前にある通路から入るにしても正面に回るにしても靴を脱がねばならないのが難点だった。かがんで靴紐を解くのは難しそうである。となると次に近いのはもう自分の部屋だった。
「一度部屋に戻らないと。歩くのはまあ何とか」
太股同士をくっつけたままというのが面倒ではあるが、歩けないことはない。
「じゃあ、こっちは何とかしておくから戻って着替えてきた方がいいわ」
「いいんですか?」
「いいのよ。元はと言えばバルトのせいなんだから」
そう言うと、カリーネはマリコの肩に手を回してそのまま扉へと向かった。あれっという目を向けてきたトルステンに目配せを返すと二人して外へ出る。
「それじゃあ、着替えたら戻ってきますので」
「戻らなくてもいいわよ。洗濯の準備でしょう? お風呂はもう誰もいなかったからお湯を汲むところまでやっておくわよ。後で食堂でね」
手伝ったり洗濯機を個人的に使わせてもらったりした経験があるので、カリーネたちにもその辺の手順は分かっているのだった。
「構わないんですか?」
「ええ」
「じゃあ、すみません。お願いします」
カリーネの言葉に甘えることにしたマリコは、腰に片手を当てて膝から下だけを動かすという不思議な歩き方で宿の方へと向かって行った。それを見送ったカリーネは洗濯場へと戻る。中に入ると手拭いで顔を拭いていたバルトがこちらを向いた。
「マリコさん、どうしたんだ?」
「大したことじゃないわ。部屋に忘れ物ですって」
「そうか」
「そんなことよりバルト」
「え?」
「さっきのことで、あなたにはお話があります」
「ええっ!?」
カリーネは目の笑っていない笑顔をバルトに向けた。
一方、部屋に戻ったマリコは、脱いだ下着を見て何が起こったのかを悟った。布地に縫い付けられていた紐が、一箇所はずれてしまっている。
「浄化に気合、というか魔力を込め過ぎたんだ……」
◇
朝食の時間、カリーネにお礼を言いにバルトたちの席に行ったマリコが見たものは、少し虚ろな目をした疲れた様子のバルトだった。機械のような動きで食べていたバルトはそれでも最後には少し復活しており、三日ほどで戻るからと言い置いて見回りへと出掛けて行った。
今度は何を言い聞かされたんでしょうかね。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。