162 麦刈り 6
「大丈夫か、どこも怪我しなかったか!?」
掛けられた言葉にマリコは目を瞬かせた。ようやくマリコのスカートの中から這い出したバルトがあわてた様子で発したセリフがこれだったのである。そう言うバルト本人はというと、頭にはたんこぶが膨らみ始め、額と右の目尻と唇の端からは血が流れていた。もちろん、マリコのパンチを無防備に喰らいまくったせいである。
「私は大丈夫です、が……」
「そうか、なら良かった」
自分の顔の惨状など気にもせず、心底安心したように屈託の無い――ただし血まみれの――笑顔を向けてくるバルトに、マリコは胸をキュンとさせた……りはしなかったが、さすがに少々申し訳なく思った。
(あせって思い切りどつきまわしたからなあ)
今の件は普通に考えればまず間違いなく事故である。マリコ自身、かつて真理子やら姪たちやらを相手に似たようなことをやらかした覚えはあるのだ。狙ってやったわけではないのは分かる。
自分からわざわざ見せてやる気は毛頭無いが、何かの弾みで少しくらい見られたからといって大騒ぎするほどのことか。そんな風に思っていたにもかかわらず、マリコはつい手を出してしまった。おそらく普段ならこんなことにはならなかっただろうが、今のマリコは普通の状態ではないのだ。
――特殊装備を着けているところなんぞ見られてたまるか
反射的に手を出した時、マリコの脳裏はその思いに埋め尽くされていたのだった。とは言え、今のバルトの顔を見るとこれは明らかにやりすぎである。マリコはせめて治癒を掛けてやろうと右手を上げた。
「ま、待て! 俺は何も見ていない!」
また殴られるとでも思ったのか、ギョッとしたバルトが両手を上げてブルブルと顔を振る。自分も昔口にしたことがあるようなセリフを耳にして、マリコはなんとも言えない微妙な気分になった。
(言われる立場になってみて初めて分かった。どう聞いても何かを見たと言っているようにしか聞こえない……)
一瞬、本当にもう一発入れてやろうかとも思ったマリコだったが、バルトが一応気を遣ってそう言っているのだということも分かるのである。対応に困ったマリコは手を下ろすとはあとため息をついた。
(少なくとも悪い奴ではない、というのが厄介なんだろうな、これ)
マリコは片方の眉を上げてバルトを見た。両手を上げたまま、バルトはその視線を受け止める。どんな顔をすればいいのか分からない、という表情が浮かんでいた。
「そろそろ俺たちのことも思い出してくれるとありがたいな」
「「うわあ」」
洗濯物が散らばった渡り廊下に座り込んで、図らずも見つめ合う形になっていた二人は、横合いから掛けられたトルステンの声に飛び上がった。
◇
マリコとバルトたち一行は洗濯場にいた。あの後、カリーネたちが洗濯物を拾い集めてくれたので、マリコはそれらを入れた洗濯籠をアイテムボックスに仕舞い、元々の予定通りここに来た。バルトの傷もなんとかしなければならなかったので、ここなら傷や血を洗う水にも困らないと彼らも一緒について来ているのである。
桶と水の準備をしながらマリコは思った。そもそも、昨日エリーにも言われていたのにわざわざ籠を抱えて歩いていたのもさっきの事故の原因のひとつであるように思える。気を抜いていたとはいえ、籠を抱えたまま扉を開けようとしたせいでバランスを崩した時に踏み止まれなかったのだ。
疑問もないではない。この数日で人や獣の気配などがある程度分かるようになっていたはずなのに、あの時は扉の向こう側に特に何かを感じることがなかったのである。もちろんそこまで注意していなかったせいなのかも知れないが、マリコには何となく不思議だった。
(スキルについても、まだ全部分かったわけじゃないからなあ)
そう思ったところで、マリコは考え事を打ち切った。今はまずバルトの治療が先である。
「治癒」
皆が見守る中、マリコの魔法が発動し、腫れ上がりかけていたバルトの顔はあっという間に元に戻った。出血こそ派手だったものの、怪我としては大したことはなかったので一発である。
「おお、さすがにすごいな」
「さすがに?」
痛みも無くなったのだろう。感心するバルトの言葉にマリコは引っ掛かった。考えてみると、マリコは今のところ自分自身にしか治癒を使ったことがないし、その事を誰かに話した覚えもない。なのに、どうしてバルトたちは当然のようにマリコが治癒を使うのを黙って見ていたのだろうか。その疑問をマリコが口にすると、バルトたちはえっという顔をして互いに顔を見合わせた。
「だってマリコさん、黒いお守り着けてたじゃない」
代表するようにカリーネが言った。
「お守り?」
「そうよ。お風呂で見せてもらったでしょう?」
そう言われてマリコは自分の首に手をやった。襟元に指を入れると確かにそこには例の黒いチョーカーがある。わざわざ見せたわけではないが、女性陣三人は一緒に風呂に入った時に見ているので、着けているのを知っていること自体は別に不思議でもなんでもない。
「そうそれ。他の色と比べると人数は少ないんだけどね。これまでに会ったその色のお守りを着けてる人って、皆結構強力な治癒を使える人だったから。マリコさんもそうなんだろうと思ってたのよ」
「……ああ、そういうことですか」
カリーネの話に内心驚きながら、マリコはなんとか話を合わせた。さすがにそんな信仰絡みの話まで忘れていると言ってしまうのは不自然すぎる気がしたからである。
「うちの組でも一応バルトとトーさんと私は使えるんだけどね。今マリコさんが使ったやつほど力強くはないわ。それでもさっきのバルトの怪我くらいなら特に問題ないんだけど」
マリコの魔法も見てみたかったから、とカリーネは続けた。それを聞いたマリコの頭に別の疑問が浮かんだ。
「じゃあ、バルトさんやトルステンさんも着けてるんですか、これ?」
「ああ、俺たちは首じゃないよ。ここ」
バルトがシャツの袖を捲くって手首を見せる。そこにはチョーカーと同じような作りの革製らしいブレスレットが巻かれていた。バルトの物もやはり髪と同じ金色に仕上げられている。さすがに男はチョーカーではないらしい。
(一応こないだ風呂場で見たはずなんだけど思い出せないな)
別のところの金色に気を取られて気が付かなかったのだとは思いたくないマリコだった。
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