161 麦刈り 5
(やばっ!)
翌朝、窓の外が白み始めた頃、眠っていたマリコは危機を感じてくわっと目を開いた。
バッと上掛けをめくると転がり落ちるようにベッドから降りる。床にあったサンダルに足を入れようともせず急いでベッドの上に目を向けると、そこには寝ていたことで少し皺の寄った白いシーツの海が広がっているだけだった、
「よし、セーフ」
ふうと息をついて額に浮かんだ汗を拭った後、下腹に手をやってみるとそこには水分を吸って膨らんだ物がある。その水分が皮膚を伝う感触にマリコは飛び起きたのだった。幸いな事にどうやらまだ貫通するところまでは至っていないようである。
一応安堵したマリコは、そこでやっと自分の体調に気が付いた。昨日の朝ほどではないが、腰の痛みとだるさが少し戻ってきている。
(やっぱり、根本的な解決にはならないってことかな)
状態回復によってホルモンバランスが正常化されたとしてもそれは一時的なものであり、元々そのホルモンを分泌するのが自分の身体である以上、時間が経てば元の状態に近づいていくのだろうとマリコは考えた。状態回復で体質が改善されるわけではないのである。
(っと、今はそれどころじゃないんだった)
また浄化を掛けまくらねばならない事態になっては敵わない。マリコは改めて自分に状態回復を使うと、アイテムボックスに例の紙袋がちゃんとあることを確かめた後、手洗いへと向かった。
◇
「そろそろ、皆戻って来る頃かな」
洗濯籠を抱えたマリコは廊下を歩きながらそう呟いた。籠の中には回収したシーツ類が入っている。朝の鍛錬に向かうミランダを送り出した後、各部屋を回っているのだった。
今日から里中で本格的に麦刈りということで、昨夜食堂を閉めた後、宿のメンバーを中心に簡単な打合せや説明が行われた。その中の一つに、普段は朝食後に回っているシーツ類の交換を、麦刈りの間は早めにやるというのがあった。食堂を開く時間が長くなる分、他のところで前倒しできる部分は先にやってしまって時間の余裕を作ろうということである。
もちろん個々の都合もあるので全室というわけにもいかないだろうが、現在宿に泊まっている者の大半は探検者である。彼らは大抵朝練に顔を出すのでその時間帯に交換に行っても特に問題ないはずだったし、実際、その場にいたバルトやアドレーたちも了承した。
そんなわけで、とりあえず今朝は朝練に出ないマリコが交換に回っていたのである。
バルトたちの部屋は三階で、彼らは隣り合った二人部屋を三つ借りて使っている。バルトだけが二人用の部屋に一人で住んでいることになるが部屋の並びの関係上、これは仕方あるまい。実際にバルトの部屋に交換に入ったマリコが見た物は、意外と整頓されたバルトが使っているらしい半分と、ベッドの上こそ空けてあるもののそれ以外の場所に組共有と思しき道具類や四脚のイスが置かれたもう半分だった。
(共用スペースとして使われてるのか。そう言えば、宿屋とはいうけど探検者の立場だと実質下宿というか、やっぱり家なんだよな、これ)
もう一方のアドレーたちは四階でそれぞれ一人部屋を使っていた。アドレーとイゴールの部屋はきれいなものだったが、後の三人の部屋は若い男の部屋らしく、服がイスの背に引っ掛けられていたりと適度に散らかっている。アドレーの部屋の壁に誇らしげに掲げられた、赤地に白い猫を配したデザインの旗がマリコの印象に残った。
サルマンたちの部屋はない。ここの組は全員この里の者なので、探検から戻るとそれぞれ自分の家に帰っていくので、宿に部屋を取る必要がないのである。
他に泊まっていた行商の人も幸いもう起きていたのでそこのシーツも交換し終わったマリコは階段を降りて洗濯場に繋がる裏口へと向かった。朝練ももう終わっていていい時間である。手順は分かっているので、洗濯籠を洗濯場に持っていって、風呂を使う人がもういないようなら洗濯の準備をしてもいいなと思いながら、マリコは洗濯籠を抱えたまま扉の取っ手を握った。
握った途端、その扉が外からひょいと引き開けられた。
「えっ!?」
それは、扉を押し開けようとしたその手を思い切り引っ張られたのと同じことである。マリコの身体はつんのめるように扉から外に飛び出した。
次の瞬間、誰かの身体がマリコの視界一杯に広がった。扉が引き開けられたということは、当然その向こうには引き開けた者が存在する。洗濯籠を抱えたマリコは、その誰かに勢いよく体当たりする形になった。ぶつかる直前、顔を上げたマリコの目に飛び込んできたのは金色の髪と見開かれた髪と同じ色の瞳だった。
(バルト!)
マリコがそう思うと同時に視界が反転した。手を離れた洗濯籠が宙を飛び、そこからこぼれ出たシーツがバサリと広がる。受身をとる余裕もなく、床に頭を打ち付ける覚悟をしたマリコの頭にもう少し柔らかい物に当る衝撃が響き、げふっという声が聞こえた。もつれ合った二人は、そのまま渡り廊下の床をゴロゴロと転がった。
「ちょ、暗い! なんだこれは!?」
足元から聞こえる声に我に返ったマリコの視野は白に覆われていた。目をやられたかと一瞬あせったマリコだったが、すぐに白の正体に気が付いた。ぶちまけたシーツが被さっているのである。あわてて顔にかかったシーツをかき分けてはがすとすぐに視界が開けた。
渡り廊下の天井が目に入る。マリコは仰向けで大の字になっていたようだ。上体を起こすと、左右に開いた自分の足の間で白いシーツを被った塊りがもぞもぞと動いている。
「何がどうなってるんだ!」
その塊りが声を上げる。マリコは急いでその塊りに被さったシーツもつかんで引きはがした。すると、白い塊りは黒い塊りになった。向こう側に自分のものとは別に、もう二本の足が伸びている。
「何も見えん。ん? これなんだ?」
黒い塊りがまた声を上げて動いた。
「わあっ!」
太股の内側を何かに撫でられる感触に、マリコは悲鳴のような声を上げて反射的に足を引こうとした。しかし、スカートが突っ張って動かせない。どうやら敷きこまれているらしかった。マリコは代わりに手を出した。ガスッと音がして、マリコの拳がスカートの中で蠢く塊りに叩き込まれる。
「痛っ!」
「ひ、うわあ!」
「ちょっ、まっ、痛っ、やめっ、ぐはっ」
身動きする度に身体のどこかがマリコの足に触れ、それでまた拳を打ち込まれる。
「バルト、あなた何やってるの!」
風呂場から出てきたカリーネがその様子に気付いて駆け寄りながら声を上げる。
「またやってる」
「いつものこと」
ミカエラとサンドラの呆れたような声が続く。トルステンは一人無言のまま、額に手の平を当てて天を仰いだ。
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