160 麦刈り 4
「それで俺は藁束抱えたあいつに言ってやったんだよ」
「今年の小麦はいい出来で良かったよなあ」
「あんた、その辛いの食べて平気なの? ああ言わんこっちゃない、ほらお水」
「明日からの刈入れの順番なんだが……」
「ミランダ姫様が……」
あちこちから賑やかな話し声が切れ切れにマリコの耳に入ってくる。
その夜、食堂はマリコがこれまでに見た中で一番の喧騒に包まれていた。数十はあるはずのテーブルが多くの老若男女でほとんど埋まっている。外に設けられた臨時席に灯りを点して飲んでいる者もいるので、里の住人の大半がやってきているようだった。
マリコが初めて厨房に立った日の夜も結構な混み様ではあったが、あの時は目的が料理だったので皆の口は主に食べる事に使われ、ここまで騒がしくはなかった。刈入れを始める前の穂の具合から分かっていたことではあるが、今年は豊作だと実感できたことと、宿の分を刈り終えて最初の一区切りが付いたということで皆の表情は明るく口数も多くなっている。
バルトたち三組の探検者もいるので彼らと話をしている者もいないではないが、それでも今日の話題の中心はやはり麦刈りである。明日から同じ組で刈入れをする家族や近所、仲のいい者同志などが固まって席を取っていった結果、バルトやアドレー、サルマンたちは食堂の一角でほとんど相席状態になっていた。
「はい、お待たせ。ええと、煮込みは誰?」
「お待たせいたした。貴殿ら、酒ばかり頼んでいるがちゃんと食べているか?」
「お待たせいたしました」
その三組の席に、注文の品を載せたトレイを持った三人がやってきた。もちろん、サニア、ミランダ、マリコである。マリコは少し前まで厨房で調理スキルを炸裂させていたのだが、麦刈りで腹を空かせた集団による食事オーダーの嵐がやや収まり、酒とアテの注文が主体になってきた辺りでサニアに他の者との交代と休憩を命じられたのだった。
実際、子供連れの家族などは食事を終えたところで風呂場に向かったり帰宅したりとぼちぼち減り始めていた。そうして一休みした後戦線に復帰しようとしたマリコはちょうど探検者組の注文分が出るところに行き当たり、サニアたちと共にフロアに出てきたのである。ついでにちょっと話してくるわと、サニアはカウンターの中にいるタリアに断りを入れていた。
「この小さい串、初めて食べたたけど美味いよね。そう言えば、帰ってくる途中で珍しくはぐれ野豚を何度か見かけたよ。もちろん、すぐ逃げられちゃったから獲物にはできなかったけど」
届けられた豚バラもどきの串を手に、ビールのジョッキを傾けながらサルマンが言う。彼の属する組のメンバーはこの里で生まれた男ばかりで、担当は里の南側だった。その野豚が住む森のさらに向こう側を巡り歩いて、今日戻ってきたのである。
「ああ、群れでボスの入れ替わりがあったらしい。元ボスらしき大きな野豚が徘徊していた故、その影響であろうな」
野豚狩りの時に話していた事をミランダがさらりと口にする。
「ミランダさん遭ったのかい!? とすると、野豚狩りだろ? 誰も怪我しなかった? よく無事に逃げられたね」
「誰が逃げるものか。今貴殿が食べておられるそれが、その元ボスかも知れんぞ」
「えっ! じゃあ、倒したのか。すごいな」
サルマンは思わず手にした串に目をやった。これにはサルマンの仲間だけでなく、初耳だったらしいバルトやアドレーたちも驚いた顔をする。
「確かに倒した。だが、それを成したのは私ではない。ここにいるマリコ殿だ」
「ええっ!?」
「え、ええと」
サルマンとその仲間たちに一斉に目を向けられ、マリコは何と言えばいいか困って口ごもった。それに構わず、ミランダは話を続ける。
「私とエリー、ジュリアの三人が野豚と戦っている最中、林の奥から突如表れた通常の三倍はあろうかという巨大な野豚。浮き足立つ我らを、あれは私が倒す故、目の前の戦いに集中せよと一喝したマリコ殿は」
「あの、ミランダさん?」
「タリア様より借り受けられた短剣一振りだけを手に、一陣の風となって林を駆け抜け、敵の眼前に立ち塞がられた。襲い来る丸太の如き腕をひらりひらりと蝶の様にかわすと」
「い、いやミランダさん?」
「蜂もかくやという速度でその首を一閃。血煙を噴いて倒れる野豚に、その身体確かに貰い受けた、と一言」
「言ってませんから!」
確かに状況は概ねその通りだったし、マリコもそういう説明をミランダにしたのだが、もっと地味な出来事だったはずである。それがどうしてそんな剣豪小説みたいな話になるのか。身振り手振りを加えて滔々と語るミランダを揺さ振って止めたマリコが恐る恐る振り返ると、探検者たちと周りにいた人たちから拍手喝采が巻き起こった。
「マリコさん、明朝、是非ともお手合せを願いたいと思うのだが構わないだろうか」
騒ぎが収まった後、案の定サルマンはそんなことを言い出した。普段ならともかく今はいろいろとまずい。
「すみません。今ちょっと体調を崩していまして」
「そんな……、いたっ! いたたた」
なおも食い下がろうとする気配を見せたサルマンは、横から伸びてきた手にその耳を摘まれた。そのまま、その手の主であるサニアに廊下の奥へと引っ張っていかれる。
「あんたね、……の子が……は、……のよ! ちゃんと……さい、そんなんだから……のよ」
しばらく説教の声がかすかに聞こえた後、青い顔をして戻って来たサルマンは非礼を詫びて願いを取り下げた。
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