016 世界の始まり 13
下ネタ注意です。
マリコは先ほど通った、階段脇の通路に向かった。
「あれ? マリコさん、どうした?」
「お父さんはいちいち聞かなくていいの」
後ろから二人の声が聞こえた。さすがにアリアは分かってくれているようだ。マリコはお手洗いの扉を開けて、身体を中に滑り込ませた。
中に入ると、正面は洗面台のようになっていた。小さめの流しの左右に広めの台が設けられていて、右側には柄杓が突っ込まれた、水を張った桶が置かれている。日本なら鏡が張られているのが普通の正面の壁に鏡はなく、小さめの棚段とフックがいくつか設けられている。
(ガラスがまだないか、普及してないのかな)
考えながらマリコが左に目を向けると、四メートル程の幅で作られた小用のスペース――個々に朝顔があるのではなく、壁に向かって数人並んで用を足せる、少し前の日本でも公衆トイレなどでよく見かけたスタイルだ――があり、さらに左奥に個室の物らしい扉が二つ並んでいるのが見える。小用スペースの上側も含め、壁にはいくつか窓が設けられており、今は全て外に向けて板戸が跳ね上げられている。
「うおっ!?」
小用スペースで用を足していた男の一人がなんとなく振り返り、マリコに気付くとあせった声を上げ、あわてて体ごと背中を向けた。少し離れて並んでいたもう一人も声につられて振り返り、同じように急いで背中を向けた。
(ん? 何が……あ)
マリコは自分の失敗にようやく気付いた。そう、今は「マリコ」なのだ。
「申し訳ありません。間違えました」
マリコは静かに頭を下げると、今入ってきたばかりの扉を再び開けて素早く通路に戻った。そして、一つ奥にある扉の前へ足早に移動すると、今度は「女」と書いてあることを確認してから中に入った。
◇
実のところ、アリアに手を引かれて入り口から入ってきた時から、マリコは密かに注目を集めていた。
やや高めのスラリとした身長にきれいな姿勢、大きな胸の美人である。しかもメイド服――ここでは宿屋の住み込みの女の子のお仕着せとして知られている――で、それがよく似合っている。目を引かないわけがなかった。
「あの娘、誰?」
「アリアちゃんが連れてきてたから、新しく来た娘だろうと思うけど」
「ここで働くのかな?」
「あの格好なんだから、そうなんじゃない?」
男女を問わず、あちこちの席で似たような会話がされていたが、すぐにサニアに連れられて奥へ入っていったので、辺りは一旦いつもの喧騒を取り戻した。
ところが、しばらくするとまたアリア達と一緒に戻ってきた。テーブルに着いたところを見ると食事を摂るようだ。店内の視線がまた集まり始めた。
元より、さほど大きくもない里の一つしかない食堂兼酒場である。見覚えがないということは、ほぼ間違いなく新たにやってきた者だということで、それをどんな奴だろうと思うのは当然と言えば当然である。それが若い女の子ならなおさらだろう。
じきに、マリコの元に今日の定食――要するに、今日ある材料で出せる昼食はこれだよ、ということなのだ――が届けられ、マリコが箸を取って食べ始めた。周囲の視線がさりげなくマリコを観察する。
実においしそうに、一口一口確かめるように食べている。時折箸を止めて、なにやら考えて頷いたりする。食べ始める前までは、憂いを含んだような――実際には、状況に流されて疲れた――表情も見せていたというのに、今はすごく幸せそうに見える。見ている方まで幸せな気分になれそうだ。同じ物を食べている者は、さっきまでよりおいしくなったような気にさえなる。
そのうち、マリコの視線が時々あるものを追っているのに気付いた者がいた。
「あの娘、カミルを見てるのか? あいつ、顔はいいからな」
「よく見てみろ。違うみたいだぞ」
「ああ。ありゃあ、ジョッキを見てるのか」
「いけるクチなのかなあ。誘ったら一杯付き合ってくれないかな」
「おお、いいなあそれ」
やがて、食事を終えた三人のうち、マリコだけが立ち上がって席を離れた。いくつかの視線がそれを追った。歩いていく方向で、行き先はすぐに判明した。
「真の美人は手洗いなんか行かない」
「お前、そんなこと言ってるから嫁が来ないんだよ。現実を見ろ、現実を」
「現実って、え? ああっ!?」
マリコがためらいなく「男」と書かれた扉を開けて入っていくと、店内が静かにどよめいた。
幸いマリコはすぐに出てきて、そそくさと隣の扉の奥に消えていった。今度は店中からため息が聞こえた。
「ああ、驚いた。間違えただけか」
あれが実は男だとか言われたらすごい衝撃だろう。
「しかしまあ、すごく堂々と入っていったよな」
「字が読めないのかな」
「いや、二回目はちゃんと扉の文字を確認してたぞ」
「案外そそっかしい?」
「あんなに美人なのに」
マリコは密かに注目を集めていた。
すみません、次回もこの続きです。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。