155 月からの使者 2
とりあえず痛みから解放されたマリコは身体に掛かった上掛けをそっとめくった。幸い上側になっていた部分にまでは被害が及んでいないらしく、染みや汚れは見えない。上掛けを適当に畳んで横にどかしたマリコは、こすって被害を広げないよう後ろに手を突いて腰を浮かそうとした。
「う……ん?」
身体にまた違和感を覚えて浮かしかけた腰をそっと下ろす。痛みこそ無くなったものの、腰回りや下腹にはまだなんとなく重い感覚が残っていたのだ。
(なるほど、全部の症状が消えて無くなるわけじゃないんだな)
成人としての身体の周期の一環である以上、こういう時期が巡ってくることそのものは異常でもなんでもなく、むしろ正常なことである。そこに体質やホルモンバランスの崩れなどを含む体調の良し悪しが加わることによって、表れる症状に差が出てくるのだ。
対して状態回復は、言ってみれば状態を正常化する魔法である。これによってホルモンバランスなどの異常が取り払われたのだとしても、現在の身体が周期のどの部分にあるかということ自体は変わらない。つまり、今の状態こそが本来の正しい――もしくは最低限の――症状なのだろう。
改めて今の身体の状態に納得したマリコは、腰を浮かすのではなく横向きに転がって身体の向きを変えると、そっとベッドから降りた。今まで自分が寝ていたところに目を向けると、さっき見た通りの染みがある。
そこにそれがあるということは、当然そこと身体の間にあったものを貫通したということで、腰の後ろに手をやってみれば案の定乾きかけて少しごわついた部分があった。眉根を寄せてため息をついたたマリコは、次にベッドに敷かれたシーツを静かにめくり上げた。どこまで貫通しているのかを確認するためである。
幸い染みはシーツまでで留まっていたようで、その下のマットは無事だった。おそらく、初日ということでまだ量が少なかったのだろう。マリコははがしたシーツを手にほっと安堵の息をついた。しかし、まだ被害状況を把握しただけなのだ。
「さて、これ、どうしよう……」
気分は正におねしょ布団を抱えた子供である。ミランダがやってくる前になんとかしないと身の破滅、は大袈裟だとしてもさぞかし居たたまれない気分を味わうことになるだろう。できれば風呂場なり洗濯場なりに持って行って何とかしたいところではあるが、いくら早朝とはいえ今の格好で染みの付いたシーツを抱えて部屋から出るのはさすがに抵抗があった。
服やシーツの他に、身体の方も服を脱いで拭くかなにかしなければと思ったマリコは、とりあえず手拭いを一枚取り出した。
(これを水で濡らして拭けば一応きれいに……ん? きれいに? あ)
「浄化!」
マリコは便利な魔法のことを思い出すと、即座にシーツに向けて放った。
◇
「やれやれ、なんとか間に合いそうだ」
昨日洗濯から返ってきたロングのメイド服に袖を通し、エプロンを手に取りながらマリコはつぶやいた。
先ほど、浄化でシーツの染みが見事に消えた後、マリコは着ていた服と自分の身体にもまとめて魔法を使った。パジャマも下着も特に細かい飾りや柄があるものではなく、旅先では風呂の代わりに身体にも使うことは聞き知っている。何の問題もなく、服からも身体からも汚れは拭い去られた。
シーツも服も後でいつも通り洗濯に出せばいいし、ミランダに情けないところを見せずに済みそうだと、マリコは安堵の息をつく。
エプロンも身に着け、最後にその腰のリボンをキュッと引き結んだ時、異変は起こった。
「え? ひっ」
降りてくる。
腸の中で内容物が動くのとも違う、下腹の中を何かがゆっくりと降りてくるその何とも言えない感覚にマリコはぶるりと身体を震わせた。それは例えて言うなら、皮膚の上を汗の筋が流れ落ちる時の感触に似ていた。それが身体の内側で感じられるのだ。
「ちょ、待って待って」
止められない。そう悟ったマリコはあわてて辺りを見回し、先ほど出したままになっていた手拭いをつかむと、スカートの裾を捲り上げてその奥へと突っ込んだ。
「ふ、ふう、間に合った。でも、これは一体……」
辛うじて瀬戸際で流出を食い止めたマリコは、何が起きたのかに考えを巡らせた。そして思い至る。治癒は傷を癒す魔法である。が、失われたものを元に戻す魔法ではないのだと。
(治癒で「傷」自体が治っているのだとしても、はがれた物や既に流れ出た物が無くなるわけじゃない。まだ中に残ってるっていうことか)
腰回りに残る重さは、それを搾り出そうとする動きによるものなのだろう。つまり、それが終わるまでこの状態は続くことになる。理屈としてはマリコにも概ね理解できた。しかし、対処法が分からない。否、こちらでの対処法を知らないのだった。
(これはさすがにミランダさんに聞くしかないかな)
タリアやサニアに聞きに行くことも考えたマリコだったが、まだ時間が時間であるし、後でとなるとそれまで手拭いを挟みっぱなしということにになってしまうのだ。また貫通されては敵わない。粗相を発見されるのではなく相談に行くのなら問題ないだろう。マリコはそっと廊下に出ると、隣の部屋の扉を叩いた。
◇
「いやマリコ殿、申し訳なかった」
まだパジャマ姿ではあったが幸いミランダはもう起きていてマリコの来訪に驚いた様子だったが、マリコが事情を話すとまず一番に謝られてしまった。一緒に買物に行ったにも関わらず、サニア共々そこが抜けていることに気付けなかったことに対する謝罪だという。
「で、これだ」
ミランダは小さめの紙袋を取り出してマリコに手渡した。中を覗くと、現代日本の物のように個包装こそされていないものの、見覚えのある形のやや厚みを持った短冊状のシートが何枚か入っている。一枚取り出してみると、サラサラした感じの柔らかい紙にフェルトか何かのような物が包まれていて片面には固めの紙が貼りついているものだった。
「こちら側の固い紙をはがすと糊のようになっているから、これごと下着に貼り付ければいい。吸ったものは出て来ないのだから便利なものだ」
正に「お座布団」であった。ミランダの話によると、昔は手拭いの半分か三分の一くらいの布を畳んで当てていたそうで、今でもそうしている人もいるのだそうだ。マリコはその話もともかく、今目の前にある物が気になった。
「これ、何でできてるんでしょう?」
「私も詳しくは知らぬが、中身はスライムを使うのだそうだ」
「ス、スライム!?」
マリコはこちらに来て初めて聞く、動物ではなくモンスターの名前に驚いた。
「ご存知ないか? ドロッとした粘液状の身体を持つ魔物だ。これの身体を干して加工するといろいろと使い道があるのだそうだ。これもその一つで、粉にしたものがこれの中身に使われていると聞いた。スライム自体はそう珍しくはないぞ。そこそこの深さの洞窟には大抵巣食っている。ここの里の周囲でも何カ所か見つかっているくらいだ」
さすがに薄ら笑いを貼り付けた青い涙滴型ではないらしい。
「それ、危なくないんですか」
「危険がないとは言わぬが魔物の類は滅多に洞窟から出て来ない故、こちらから入り込まねばまず遭うことはないはずだ。そんなことよりマリコ殿、戻って早くそれを使われた方がよろしかろう。私も着替えたら様子を見に行く」
材料がスライムと聞いて何とも微妙な気分になったマリコだったが、このままにしておくわけには行かないのも事実である。ミランダにもらった紙袋を手に、マリコは部屋へ戻った。
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