154 月からの使者 1
翌朝、何故かマリコはミランダに起こされることなく目を開けた。珍しく大人しく寝ていたようで仰向けになった身体にはちゃんと上掛けが被さっているが、そのせいで汗をかいたらしくあちこちがしっとりしているような気がする。横たわったまま頭の方にある窓に目を向けると、障子の外はほんのりと明るかった。どうやらミランダがやってくる時間にはまだ少しだけ早いようだ。
横になったまま、ぼんやりした頭でマリコは考える。もう少し寝ていたい気もするが、今二度寝したところでじきにミランダがやってくるだろう。折角目が覚めたことだし、たまにはこちらから起こしに行ってミランダを驚かすのもいいかもしれない、などとのん気なことを思いながら起き上がろうとした。
「痛っ。こ、腰っ」
途端に鈍痛を覚えて、起こしかけた上体を再びベッドに沈めた。
「くっ」
その衝撃が腰に響いて、思わずうめき声を上げる。
(何これ、筋肉痛?)
動くと痛みがひどくなるような気がして、マリコはじっと寝転がったまま心当たりを探った。思い返してみれば、昨夜お風呂から上がったあたりから腰回りが重いような感じだったのだ。
昨日は大鎌を振るうのが楽しくて、ついそこら中の雑草を刈って回ってカミルに呆れられたりしたので、そのせいだろうかとも思える。何せ腰をひねる動作を一時間以上繰り返したのだ。筋肉痛を起こしても無理はない、と考えたところで疑問が浮かんだ。
(今のこのマリコの身体が、あの程度で筋肉痛なんか起こすだろうか?)
半日厨房に立ち続けようが、朝っぱらから手合せの連戦をした後に野豚狩りに出掛けようが、ちょっと疲れたなあくらいで、翌日にはまるで平気だったのである。草刈りくらいでどうこうなるとも思えない。それとも溜まっていた疲れが出たのだろうか。
と、そこまで考えたところでマリコは腰以外にも異常があることに気が付いた。横になってじっとしていたことで、腰の痛みは少しではあるがマシになったような気がする。だがそうなったことで、その痛みの影に隠れるように紛れていたものを自覚したのである。
まず、身体がだるく頭も少し重い。寝起きはいい方だったはずなのに何かぼんやりするのは早めに目が覚めたせいだと思っていたがそうではなかったようだ。次に、腰だけでなく下腹も重い。腰ほどではないが少々の痛みも伴っている。風邪の類の症状とも違うし、かといって特に変な物を食べたような覚えもない。
その時、マリコの脳裏にかつての真理子の姿が浮かんだ。腰痛、倦怠感、頭痛、腹痛。それは時折真理子に表れる症状ではなかったか。薬を飲んで、それでもなお時に寝込むことのあった真理子。その真理子が「月からの使者」と呼んで苦笑いしていたモノ。
自分を襲ったものの正体に思い至ったマリコは、額に冷や汗が浮かぶのを感じた。それが正解であるのなら、現れる症状は今挙げたものだけに留まらない。寝汗だとばかりと思っていた身体の各所に感じる湿気の一部は、おそらく汗などではないのだ。マリコはそっと上掛けをめくると鈍い痛みをこらえて身体を浮かせ、腰をひねってその下を覗いた。
「げっ」
さほど大きなものではない、だが薄暗い中でもはっきりと分かる染みができていた。白いシーツの真ん中にできた染みはよく目立つ。一瞬、漫画なんかに出てくる乙女の証みたいだ、などと思ったがそれどころではなかった。どうしようという焦りで心が埋め尽くされそうになっていく。自らの経験と比べて言えば、小さい頃おねしょをした後の「やっちまった感」が最も近い。
「いっ、いたたた」
しかし皮肉にも、痛みがマリコを焦りの渦から引き戻してくれた。無理をすれば動けないわけではないだろうが、半端に動くとかえって被害を広げそうだと気が付いたマリコは一旦元の姿勢に戻った。横たわってため息をつく。身体を動かすこと自体、ひどく億劫に感じる。これはできれば症状の方を先になんとかすべきなのだろう。
(こっちにその手の痛み止めがあるのかどうか分からないし、今ない物のことを考えても仕方ない。このまま待っていればそのうちミランダさんが起こしに来てくれるだろうけど……)
さすがにそれで発見されるのは恥ずかしい、というより情けないのでできれば避けたいと思った。いずれにせよ、薄暗いままではいくら暗視が効くとは言ってもやり辛い。マリコは肘から先だけを動かし、部屋のランプに向かって灯りを使った。幸いなことに魔法は無事発動し、部屋が明るく照らし出される。
(ん? 魔法? あ、それでなんとかなるんじゃないだろうか)
ゲームに痛み止めなどは無かった。そもそもキャラクターの怪我や病気でユーザーが痛みを感じるようなことはないので当然の話である。だが、怪我や病気を治す魔法はあった。そして「マリコ」は回復系魔法に限って言えば完全習得していたはずなのである。こちらで使ったことはまだないが、今までの状況から考えても全く使えないとは思えなかった。
(これは病気というわけじゃないし、ええと、確か内側の膜がはがれて出血するんだから傷ではあるのか)
マリコは記憶を手繰って、今の症状を引き起こしている原因を考えていく。傷なのであれば対処できる魔法がある。マリコは自分のお腹に手を当てた。接触する必要はないはずだが、その方がちゃんと効きそうな気がしたのである。
「治癒」
ゲームでの治癒は減ったHPを回復するための魔法である。HPが減るというのは基本的には怪我をするということであり、治癒は傷の自然治癒を促進させる魔法であると解説されていた。
そのため、治癒を掛けられた側は怪我が治る代わりに体力が減ってしまう。少々ならさほど問題ないが体力が大幅に減ると行動に支障をきたすので、ある程度以上の怪我の時はその体力を回復する魔法である体力回復を併せて使うのが普通だった。
(治って……ないな。でも少しはマシになったかな)
魔力の流れなどから治癒がきちんと発動したことはマリコにも分かった。実際、下腹部の痛みは少し引いたように感じるので「傷」であった部分は治ったのだろう。しかし、腰痛や倦怠感はそのままなのだった。
(ああ、そうか。こういう症状は傷から直接来るものじゃないんだ。確か、女性ホルモンや何とかいうホルモンのバランスが崩れて起こる……んだったはず。これをなんとかできればいいのか)
真理子が飲んでいた薬にそういう状態に対処するための物があったことは覚えている。それに魔法で対処するための方策がないかマリコは考えた。
(ホルモンバランスが崩れる……ホルモンバランスが異常……ホルモンの状態が異常。病気とまで行かないなら、これは一種の状態異常ということになるのか? それなら……)
「状態回復」
自分の身体に手を当てたまま、目を閉じたマリコが小さく唱えると、先ほどの治癒より多めの魔力が流れていく。
ゲームの状態回復はその名の通り、状態異常から回復するための魔法である。もっとも、ゲームにおける状態異常とは普通、麻痺などによってステータス異常や行動ペナルティを負った状態を指す。
状態回復が無事発動したことを感じたマリコはそっと目を開けた。そのまま上体を起こし、首を傾けてゆっくりと回した後、ほっと息をついた。
「効いた、みたいだ」
腰の痛みも身体のだるさも消えていた。
次回に続きます(笑)。
でも、本当に回復系の魔法があったら絶対こんな風に使う気がするんですよね。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。