153 裏方のお仕事 9
「ああ、お義母さん、こっちはもうじき……って、なんだマリコさんだったのか」
吸い寄せられるように大鎌の方へと足を踏み出しかけたマリコは、カミルの声にふと我に返った。そちらに目を向けると、乾いた地面に敷かれた布の上に店を広げて自分もそこに座り込んで手持ち鎌を研いでいたカミルが、振り返ってマリコを見上げていた。
「マリコさんが畑の方に出てきてるのは初めて見る気がするんだが、どうした。何かあったのか?」
言いながらカミルの視線が上下する。地面に座ったカミルのちょうど顔の高さに、目の前に立つマリコの腰があるのだ。顔、胸、絶対領域――スカートの裾と膝上ストッキングの間である――と移動していく視線を感じながら、しゃあねえなあと思いつつマリコはそれをスルーした。
「いえ、そのタリアさんが今ちょっと手が離せないので、代わりに様子を見てきて欲しいと頼まれまして。明日の準備だそうですね」
「ああ、もう大体終わった。後はこの鎌を研いで強化を掛けたらお仕舞いだ」
カミルはそう言って持っていた鎌の刃先に軽く触って確かめると、それを左側に置いた。カミルの前、右側には適当に積み上げられた鎌の山がある。マリコがぱっと見た限り、二十本近くありそうだ。左側は研ぎ終わった分だろう、重ねずに順に並べてある。こちらは今置かれたのが四本目だった。
「随分一杯あるんですね」
「皆が一斉に使うからな。予備も入れてこんなもんだ」
「これを全部研いで強化ですか。夕方までに間に合いそうですか?」
強化はゲームにもあった魔法で、付与系の基本の一つである。武器に一時的に魔力を帯びさせることで威力を上げ、通常武器無効の特性を持つモンスターにもダメージが通るようになるというものだった。
対して、こちらでの強化は物や簡単な道具の強度や耐久性を上げるのに使われる。刃物に使えば切れ味が少し良くなり、何かを切って刃が鈍っていくのを防ぐことができるのだ。ただし、永続性はないので使っていればそのうちに効果が切れてしまう。マリコがこれを知っているのは、厨房で包丁などに使うと聞いたからだった。
「間に合うさ! と言いたいところなんだが……強化がな。先にこっちに掛かっとけばよかったんだよ。そしたら他の事をしてる間に回復したのに」
全部の鎌に一気に使うには魔力が足りないということらしい。順番をミスっちまったと、カミルは頭を掻いた。
「それなら私でもお手伝いできると思います。一応使えますから」
強化は付与系の基本であると同時に、いくつかの支援系魔法の取得条件にも入っていた。そのため、最高レベルとまではいかないもののマリコも持っている。
「本当か!? そりゃ助かる」
「一回やってみますね」
マリコは敷物の上に膝をつくと、研ぎ終わった鎌を一本取って強化を使う。例によって魔力が流れるのを感じ、鎌が魔力をまとったのが分かった。
「こんな感じですが」
「十分……いや、俺のより強力じゃないか。すごいなマリコさん、ありがとう。やれやれ、これでお義母さんに泣きつかずに済む」
マリコから受け取った鎌の刃を確かめたカミルが言う。後半は小声だったが、マリコにはしっかり聞こえていた。しかし、そんなことよりマリコには、カミルとの話を始める前から気になっていることがあるのだ。
「ところでカミルさん、あれなんですが」
「あれ? ああ、あれがどうかしたのか?」
マリコが指差す先には、壁に立て掛けられた大鎌があった。
「あれも麦刈りに使うんですか?」
「え? いや、あれは使わないぞ。あれで麦なんか刈ったら、飛び散って穂を拾い集めるのにえらい手間が掛かるからな。あの大鎌は牧草とか雑草とかを刈るのに使うんだ。ついでに研いどこうと思って出してあるだけ……って、なに? マリコさん、もしかして使ってみたいのか?」
カミルの言葉に、マリコはブンブンと首を縦に振った。
「いやでも、先に手持ち鎌を終わらせないと……」
「終わらせましょう。今すぐ。砥石の余分はありますか? 出してください、ほら早く」
「え、あ、はい」
膝をついて座ったまま手を突き出すマリコの勢いに気圧されて、カミルは自分が使っていた砥石をそのまま手渡した。それを受け取ったマリコは、まだ研がれていない鎌を取ると猛然と研ぎ始める。カミルはその様子に呆れながらも、脇に置かれた道具箱から別の砥石を取り出すと自分も作業を再開した。
マリコはカミルの正面に正座している。つまり、カミルからは自分が持った鎌越しに、スカートの裾の先にわずかにのぞく白い太股が見えるのだ。わずかに視線を上げる。砥石を動かす腕の動きに合わせてふるふると揺れる、自分の妻には求め得ないたわわなものが目に入る。カミルはきっちりと妻を愛していたが、それはそれ、これはこれ、なのだった。
カミルがさらに視線を上げると、美しいと評判のマリコの顔が目に入る。無言のままシャリシャリと鎌に砥石を当てるその顔を見ていると、元々わずかに上がった口角がさらに少し上がって薄い微笑みとなった。その口からかすかに、くくっと声が漏れる。その目は既に手元の鎌ではない物を見ているように見えた。
カミルは見てはいけないものを見てしまったような気がして、ぶるりと背中を震わせると急いで自分の手元に視線を戻した。
◇
やがて、カミルの元々の予定より若干早く作業は終わった。片付けをしながらカミルが目をやると、マリコはこちらも研ぎ終わった大鎌を興味津々でいじっている。
(立ったまま地面の草を刈るんだから当たり前か)
大鎌の刃は、その柄に対して真っ直ぐについていない。三十度ほどのひねりが付けられていた。柄の中ほどにある取っ手を右手で、端にある取っ手を左手で持って構えると、刃が地面とほぼ平行になる。その姿勢で足腰のひねりを使って上半身を回転させながら腕を引くことで、刃を地面スレスレに走らせるのだ。
剣の時と同様、大鎌を持つとマリコにはその使い方が分かった。これも武器の一つとして認識されているのだろう。実際に持ってみた大鎌は、思っていたよりずっと軽かった。剣と比べて刃が薄く、剃刀のように鋭いのだ。これに速度を乗せて振ることで一気に草を斬るのである。
(普通に振り回したんじゃ切先が刺さるだけか。これで相手を斬るとすると狙いは足元……)
「試すんなら、その辺の草を刈ってみていいぞ」
カミルの声がマリコの不穏な思考を中断させた。マリコは返事をすると、カミルが指した畦道に立って大鎌を構えた。
先ほどとは違って楽しそうに大鎌を振るうマリコを、カミルは目を細めて眺めた。慣性の法則に従い上半身の回転に一瞬遅れて揺れ動く胸の膨らみと、腰の回転に追随するフリル。それはそれ、これはこれ、である。
(しかし、もうちょっとなんだがなあ)
カミルは心の中でぼやいた。見えそうに思えて見えない。マリコのスカートの裾慣性制御は今日も万全であるようだった。
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