143 燻製作り 2
燻製器を火に掛けた後も、そのまま放置しておけばいいわけではない。中の温度が場所によって違うからである。並べた材料をなるべく同じように乾燥させるためには、マリコが言ったように時々棚の位置を入れ替えて調整してやる必要があった。
また、今マリコたちがやっている燻製の方法では、加熱することで同時に殺菌も行う。一般的に生き物の身体を構成している蛋白質は摂氏六十度を越えると壊れ始めるので、その温度を一定時間以上保つことで大部分の細菌を殺すことができるのである。焦げるほど焼いてしまっては意図している燻製にならないので困るが、温度が下がりすぎてもいけないのだった。
マリコの記憶によれば、現代の日本で牛乳に対して行われている低温殺菌は六十数度を三十分間保つ、というものだったはずである。こうした知識がこの世界でどこまであてはまるのか疑問ではあったが、醤油を始めとした発酵食品が存在し、サニアに聞いた燻製の手順もほぼ同じである。そのまま通用すると考えて問題なさそうだった。
こうして二人が交代で朝食を摂りに行ったりしながら燻製器の番を続けていると、厨房からの扉が開いてエリーが姿を見せた。
「エリーさん、どうしたんですか?」
「ん。洗濯物。晴れたから」
問いかけたマリコに、エリーはそれだけ答えるとマリコたち二人の横を通り過ぎて行った。同じ中庭に設けられた物干し場まで行くと籠を取り出し、その中身を干し始める。
「そういえば、あれはこっちに干してるって言ってましたね」
「ん? ああ、そうだな」
思わずつぶやいたマリコの独り言にミランダが返事をした。二人の視線の先、エリーの手によって次々と吊るされていくのは、色とりどりの下着類だった。マリコのブラジャーや紐パンも混ざっているところを見ると、昨日の雨で乾ききれなかった物のようだった。ということは、今頃表の物干し場にはマリコのメイド服も干されているのだろう。
(元の服が戻ってきたら速攻で着替えてやる)
やや慣れてきたとは言え、頼りないことには変わりのないミニスカートの裾に手を触れながらマリコが密かに決意していると、一緒にいたミランダがあっと声を上げてエリーの方へ駆けて行った。
マリコが何だろうと見ていると、ミランダはエリーに何か一言二言話しかけた後、マリコのブラの隣にぶらさがっていた水色のブラをひったくるようにしてはずすと、少し離れたところに干し直した。それを構成する布地はマリコの物より二回りほど小さめだった。
「さすがに真横に並べられているのを目にするとだな。何かこう、力の差を見せつけられているようでなんとなく落ち着かぬのでな」
やがて戻って来たミランダが何とも複雑な表情を貼り付けた顔で言う。マリコはコメントを避けた。
◇
「そろそろ燻してもよさそうですね」
「さすがに一回り小さくなったな」
日がかなり高くなり、四方を壁に囲まれた中庭の日当たりが大分よくなった頃。引き出した金網に載った物を確認しながら二人は頷き合う。しっとりと赤かった肉は、白っぽい薄茶色のせんべいのようになっていた。
燻製器の下、かまどの炭火の上に木片が盛られた鉄製の皿が置かれる。熱せられた皿の上からはじきに白い煙が上がり始めた。煙は燻製器の中へと吸い込まれ、その上に載ったフタの隙間から空へと上っていく。先ほどまでとは違う、木の焼ける香ばしさが漂い始めた。
「サクラですか」
マリコはなんとなく頭に浮かんだことを口にした。
「ほう、匂いで分かるとは、さすがマリコ殿だな」
「え!?」
「ん? 煙の匂いで木の種類が分かったのであろう?」
「あ、そう、そうですね」
不審そうな目を向けてくるミランダに、マリコはあわてて返事をした。実のところ、マリコ自身には燻製を作った経験は無い。にもかかわらず、ミランダの言った通り煙を嗅いだだけで燻しているのが何の木か分かったのである。
(これもスキルのおかげなんだろうな)
おそらくは調理スキルによる知識なのだろうとは思うが、さすがにそこまでは確信が持てない。我ながら不思議な感覚だとマリコは思った。
(まあ、役に立つからいいんだけどね)
「そういえば、マリコ殿は見損ねてしまわれたな」
「何をですか?」
「花だ、サクラの花。マリコ殿が来られた時には今年の花は終わってしまっていたからな」
「ああ」
「この里には結構サクラが多い故、見応えがあった」
「そんなに多いんですか」
「ああ。里を広げる時や材木として切られたものも多いとは聞いたが、後から植えられたものもかなりあるそうだ」
どうだっただろうとマリコはここへ来てからの記憶を探った。今は葉を茂らせているのであまり印象に残っていなかったが、言われてみれば確かに桜の木だと思い出せるものはあちこちで見たように思う。宿屋の敷地内にも生えていたはずである。
「それは確かに残念ですね」
桜の花が嫌いだという日本人は少数派であろう。マリコは多数派に属していたので素直に答えた。
「まあ、マリコ殿に関して言えば、幸運であったのかも知れぬがな」
「ええ?」
「いやなに、サクラの花は確かに美しかった。それ故に、その時期は宿も忙しかったのだ」
花見と称して酒を飲む者も多かったので、その供給元である宿もいつも以上に賑わったのだとミランダは付け加えた。
「マリコ殿がおられれば、来年は安泰だな」
「それ、私にはあんまり嬉しくないんですけど……」
経営者であるならともかく、走り回る立場で繁忙期を宣言されて素直に喜べるほどマリコは聖人君子ではなかった。
◇
昼をまたいでサクラの木片を追加し続けることさらに数時間の後、オオカミ肉の燻製は一応の完成を見た。燻製器ごと火から下ろしたマリコたちは、中の金網をとりあえず一枚引き出した。
「見た目と匂いだけなら十分うまそうに見えるな」
並んだ肉は一切れ一切れがさらに縮んで小さくなり、褐色と言っていい色になって食欲をそそる香ばしい匂いを放っている。マリコはそれを一つ摘み上げると半分にちぎって片方をミランダに差し出した。さすがにまだソフトジャーキーというレベルの硬さであり、パキリと割れるところまでは乾燥していない。
二人は同時にそれを口に入れた。束の間、かすかな咀嚼音だけがその場を支配する。やがて、それを飲み下した二人は顔を見合わせて口を開いた。
「大分マシになったとは思うが……」
「大分マシにはなりましたが……」
その日、マリコのスキルを以ってしても「うまい」というレベルに至るのが難しい食材が存在する、ということを二人は知った。
それでも従来の物よりずっといいとマリコのレシピは広まったりするのですが、それはまた別のお話。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。