132 野豚狩り 5
「た、種付けって……アレのことですよね? ええと……、交尾」
何か聞き違えたのではないかと、マリコは言葉を選びつつミランダに問い返した。
「ああ、確かにソレのことだがわざわざ言わせないでいただきたい。恥ずかしいではないか」
「いやいや、恥ずかしいで済まないじゃないですか。何だってそんな危ない事を女の子がやってるんですか!」
「何でと言われてもだな……。そもそも安全な狩りなどあり得ぬし、そうせねば野豚が狩れぬからだ」
恥ずかしそうにしていたはずのミランダは、狩りの話になると表情を改めた。
「よいか、マリコ殿。彼奴らは基本的には臆病なのだ。普通の、群れに属する野豚は人の臭いを嗅ぎつけたらさっさと森の奥に逃げ込んでしまう。うっかりそれを深追いして彼奴らの縄張りの奥深くまで入り込むと、今度は排除しようとオスを中心に群れごと襲い掛かってくるのだ。一頭が相手なら私とて不覚は取らぬが、数を頼みに来られるとさすがに分が悪い。ここまでは分かっていただけるか」
マリコが頷くと、いつの間にか隣で一緒に歩きながら話を聞いていたらしいジュリアも頷いていた。エリーはと見ると、こちらは矢を番えた弓を手に、歩きながらも林の方を向いて何かを探している様子である。
「だが、群れから離れたオスは少し違う。彼奴らも臆病には違いないのだが、何と言うかその……飢えている、らしい。それ故、相手が野豚でなくともメスの臭いに釣られて寄ってくるのだと教わった。さすがに、オオカミや熊には向かって行かない故、この近辺で彼奴らが近づいてくるのは放牧場の動物か我ら人ということになる。ただし、一緒にオス、つまり男がいてその臭いがすると出て来ないのだ」
「それで女の子だけの狩りになる、と」
「そういうことだ」
要するに、狩人自身が獲物を呼び寄せる餌でもあるということである。
「理由は分かりましたけど、ええとその、種付けしようとして来るのならそっちの危険性があると思うんですが……」
「えっ!? ああ、マリコ殿はそういう心配をしておられたのか。ええとだな、そちらの方はほとんど問題ない」
「問題ない?」
「ああ、すぐそばまで近寄れば、彼奴らも自分たちの相手ではないと気付く。もし気付かなかったとしても普通に服を着ておれば、彼奴らにはそれを脱がしたりするような知恵や器用さはない故な。むしろ、力や目方だけはある故、本当にそうなりそうになった時には、蹴られるか押し潰されるかで先に命の方が無くなっておるだろうな」
平然と言うミランダにマリコは内心驚きながら考えた。女の人の一団だけでできるレベルであるとは言ってもノーリスクではないのだ。そこには野豚の命だけではなく、こちらの命も掛かっている。行動不能になっても復活できるゲームではない。
皆をそんな危ない目に遭わせたくはないなと思いながら、マリコは三人の仲間たちに視線を巡らせた。ミランダ、隣で――珍しく静かに――話を聞いているジュリアと見て、林の方を見張っているエリーに目を向けた時、エリーの唇が動いた。
「来た」
「どこだ!?」
即座にミランダが小声で反応し、皆一斉に足を止めた。一行は林に足を踏み入れたところである。木がまばらになっているのも草原と同じように伐採されたかららしく、ここにも所々切り株が見えていた。
「右手の少し奥。でも多分、こっちにはまだ気が付いてない」
「見えた、あれか。ああ、風からそれている方か。マリコ殿、あれが見えるか?」
ミランダがゆっくりと右手を上げてそちらを指差した。今の風はそよ風程度、マリコたちの右後ろから吹いており、ミランダが指す方向からはほぼ九十度左の方向、つまり林の左側へと流れている。
マリコが示された方――マリコなりに気配を感じる方――へ目を向けると、木々の間に動く茶色っぽい影が見えた。まだかなりの距離があり、マリコの見た感覚でも百メートルくらいはありそうである。影はあちこちと周囲を見回しながらこちらへ近づいて来ているようだった。
「射撃準備」
ミランダの静かな声にジュリアも矢を番える。だが、番えただけで弓は引かない。まだ遠いのだ。弓の強さや使う者の技術にもよるが、一般的な弓の有効射程はそれほど長くない。遠距離競技における的までの距離は、和弓で六十メートル、洋弓で七十メートルである。
やがて、茶色い影が近づき、マリコにもその全身が見えた。
「あれが、野豚……」
それは、マリコが考えていたイノシシのような外見とは少しばかり違っていた。思い返してみれば、生態についてはいろいろと聞いていたが、野豚という名前と肉の味で納得してしまい、姿形について聞いた覚えがない。
茶色の毛皮に太い首、そしてそこに載った、牙をはやしたやや面長な顔はほぼイノシシである。だが、その前足は長く大きく発達しており、身体のシルエットとしてはゴリラに近い。直立まではしていないものの、その背筋は斜めに起き上がっていた。大きさは人間くらい。しかし胴回りが太い分体重はありそうである。
(馬か何かから進化しかかって滅びた動物に、似たようなのがいたような気がするな)
マリコは本で見た絶滅動物「カリコテリウム」を思い出した。
目があまりよくないというのは本当らしく、キョロキョロとあちこちに顔を向けながらマリコたちの方へ向かって来る野豚は、未だに彼女たちに気付く様子がない。
「構え。狙いは足」
野豚までの距離が始めの半分以下になった時、ミランダが指示を出した。エリーとジュリアは弓を引き絞る。
「撃て」
二本の弦がビュンと鳴り、勢いよく矢が飛び出すその瞬間。
何かの気配を感じたマリコと耳を震わせたミランダが、同時に左を振り返った。
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