111 風呂場にて 2
後半の話を押し込んだら、ちょっと長めになりました。
「僕は男なんだから、バルト兄ちゃん達と男湯に入る!」
元通り下ろされた暖簾と半分閉められた引き戸越しに、そこから出てきなさいと呼びかけたアリアに対してハザールが返した答えがこれだった。カミルが居ない時――あるいはいても役に立たない時――に母や祖母に連れられて女湯に入るのが恥ずかしくなってきていたらしい。
「あんた、まだ自分できちんと洗えないじゃない。こないだも頭に泡が残ったまま出ようとしたし、耳の後ろも洗えてなかったし。どうすんのよ」
「き、気をつけていればできるよ!」
「できてないから言ってるんじゃない。いいからさっさと出てきな」
「ううっ」
アリアも含めた三人は、まだ脱衣所前の板の間に立っていた。無人であるならともかく、裸のバルト達がいる男湯の脱衣所に突入してハザールを引っ張り出すわけにもいかず、先ほどからアリアの説得、というか追い込みが続いている。
(さすがは孫だな。アリアさんの物言い、タリアさんにそっくりだ)
妙なところに感心しながら、マリコは隣に立つミランダを振り返った。
「どうなると思います?」
「残念ながら、ハザール殿がアリア殿を論破するのはまだ難しいであろうな」
男が女の子に口で勝つのは大人でも難しい。ましてやアリアの方が二つ上である。二人がヒソヒソと言い合っていると、戦況に変化があった。
「ハザール君なら俺達が見ておくから構わないよ」
「トー兄ちゃん!」
「トルステンさん」
「子供と風呂入るのは経験もあるしね。構わんよな、バルト」
「ああ」
男湯組から援護射撃があったのだ。ハザールは喜色満面である。
「やった! じゃあ、ねえちゃん、僕はこのままこっちに入るから」
「うー、仕方ないわね。トルステンさん達の言う事聞いて、ちゃんと洗うのよ」
トルステンの申し出にさすがのアリアも折れた。
「分かってるよ!」
「じゃあ、トルステンさんお願いします。言う事聞かなかったら、引っ叩いちゃって構いませんから」
「ああ。ではハザール君、そこを閉めておいで。準備してさっさと入ろう。僕らもさすがに寒くなってきたよ」
「うん!」
ピシャリと引き戸を閉めると、ハザールはバルト達の方へ駆け寄って行った。
「本当に女湯でなくていいのかい?」
「だって、僕、男だもん!」
「そっかあ。それなら確かに、美人のお姉ちゃんに全部見られちゃうのはイヤだよねえ。男として耐えられないよね。そうだろう、バルト?」
「お、おまえなあ!」
バルトをからかうトルステンの声が聞こえてきて、ミランダは思わずマリコの顔を見た。ハザールが暖簾を斜めにめくったため、立っていたミランダは脱衣所を覗かずに済んでいたのである。
「マリコ殿、貴殿は大丈……」
「さて、どうしましょう?」
言いかけたミランダを遮るようにマリコが言った。
「ん? どうしましょう、とは?」
「いえ、ハザールさんをお風呂に入れる、という理由がなくなってしまいましたので、私達が今お風呂に入る必要もなくなったように思うんですが」
「ああ、言われてみれば確かにそういうことになるな」
「アリアさんが一人で入れるのなら、私達は一度手伝いに戻っても……」
「それはダメー!」
今度はマリコがアリアに言葉を遮られた。
「おねえちゃんは今日は私と一緒に入るの! もう決まってるから戻るのはダメ!」
「ええと、でも今日は風の日だから厨房の手は足りないはずで、ってあれ?」
自分で口に出してから、マリコはそれがおかしいことに気が付いた。平日の夕方は自分の家のことがあるからパートの人が減る、と今朝ミランダに聞いたはずである。にもかかわらず、先ほどサニアに今日は人数がいるからとハザールの風呂を頼まれたのだ。
「ああ、そのことか」
マリコが疑問を口にすると、ミランダが答えをくれた。確かに普段の平日なら夕方は人数が少なめになる。しかし、今日は探検者達が戻ったことと灰色オオカミの件で食堂に来る人が増えた。増えること自体はバルト達が戻った時点で読めることだったので、先にサニアが応援の要請を出していたのだという。
さらに、パートをやっている人の中には「家族の誰か――大抵はお父さん――が食堂へ行く」という状況から「いっそ、今日のうちの夕食は皆食堂で食べましょう」と家族を送り出し、自分自身は手伝いに出てくる者もいるのだそうだ。
「なら本当に無理してるわけじゃないんですね」
「ああ、でなければマリコ殿の腕があてにされぬわけがなかろう」
「だから、おねえちゃんは私とお風呂に入っても大丈夫なんだよ!」
アリアが鼻を膨らませて言う。その様子にマリコはちょっと笑ってしまった。
「では、入りましょうか」
「うん」
アリアに手を引かれて、マリコは女湯の暖簾をくぐった。番台には水色の髪をポニーテールにしたマリーンが座っている。マリコは彼女と挨拶を交わし、何か顔が赤いような気がするな、と思いながら脱衣所に目を向ける。するとそこには、おそらく服を脱ぎかけたところで止まっていたのだろう、半裸で何故か息をひそめているように見えるバルト組の女性陣三人の姿があった。
◇
風呂の番台は試練の場である。
その日、風呂当番であったマリーンは洗濯を終えた後、探検者が戻る予定があったことからやや早めの時間に風呂を沸かした。特にバルトの組は女の人が多いためか、戻るとまず風呂へ直行して汗を流し、寝る前にもまた入浴するのがいつものパターンである。
予想どおり、午後になって戻った二組の探検者が風呂に入り、その後は里のご年配の者などポツポツと利用者がやってくる。マリーンは時折パートさんに交代を頼んだりしながら、いつも通りの午後を過ごした。
そして、夜。夕食――とちょっとした宴――を終えたバルト達が、再び風呂場に姿を見せた。いつもと違ったのはここからである。
――俺、ちゃんと強くなってるよな
しばらく衣擦れの音が聞こえた後、バルトの声がした。もちろん、マリーンに向かって放たれた言葉ではない。相手はトルステンである。その後、二、三言葉を交わした二人は、互いの成長を確かめ合う、とかいうマリーンには意味不明な理由をつけて掛け声を掛け合いながらポージングを始めたようだった。
風呂の番台は男女の脱衣所の間に作られており、目の高さ位の位置に座る作りになったその席は入り口の方を向いている。もちろん、二つの脱衣所は壁で隔てられているが番台の部分だけは抜けており、ここから振り返れば両方を見渡すことができた。これは事故防止のための構造である。
何か作業の折に目に入ってしまうことは避けられないにせよ、番台に座る者が特に何もない時にわざわざ振り返って脱衣所――しかも異性の――を凝視するなど、あってはならないことである。
しかし、今、マリーンの背後で事件は起きていた。里最強を謳われる――注目度ナンバーワンの――組の男二人が――おそらく肌も露に――ポージングしている。
(……見たいです。いや、でも)
マリーンは己の好奇心と全力で戦わねばならなかった。
その戦いの最中、ハザールの一件が起きる。扉の前にマリコがしゃがんでいたのがマリーンの位置からは確認できた。マリコからは全てが見えたはずである。
(顔色一つ変えないなんて、マリコさん、すごいです……。あ、顔を伏せてちょっと赤くなりましたね)
その後、引き戸を閉めたハザールに無造作に数歩近づいたトルステンの姿が視界の端に入って赤面するとともに、マリコが何を見てしまったのかを、マリーンは理解した。
(マリコさん、なんてうらやま……、いえ、お気の毒に)
風呂の番台は試練の場である。
後に成長したハザールは、この日の選択を後悔したとかしなかったとか。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。