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第8話_骨肉

第8話 骨肉



永禄元年(1558年)尾張の国、清洲城城下。



慎介と与平は、信長との謁見を終え、城下町を歩いていた。


斎藤道三との会見から5年。信長は、尾張下四郡をほぼ手中にしていた。


残る、尾張上四郡についても、侵略を進めており、今では、尾張の誰もが『うつけ』とは言わない。



「慎介よ。信長様は大きくなられたな。

 『うつけ』と言われていたのが、信じられんな。」


「はい。もはや、父である信秀様にも負けていないでしょう。

 しかし、戦国の世の、負の縮図とも言える、凄惨な戦いをしてきました。

 与平親方。この先も信長公は、茨の道を進むのでしょうね。」


「・・うむ、そうだな。戦国を生きる武将の、宿命だな。」



ここ数年、信長は親族との戦いに明け暮れている。


天文23年(1554年)、信長は清洲攻略を開始する。


清洲城主の織田信友は、尾張守護である斯波義統(シバヨシムネ)を保護し、利用していた。


ある日、その斯波義統が、権力を奪還するため、織田信長と組み清洲を攻撃する、と言う噂が流れ始める。

もちろん、信長の流言だ。


しかし、戦国時代の武将は疑り深い。流言だと馬鹿にして、対応を怠たりはしない。

信友は噂を根拠に、斯波義統を殺したのである。


その後、信長は斯波義統の子、斯波義銀(シバヨシカネ)を保護し、清洲城攻めの大義名分を得る。



年が明けた天文24年(1555年)、信長の謀略が動き出す。


叔父の織田信光が、清洲城へ入城したのである。


表向きは、信長を倒すため信友と同盟を結んだ、と言われていた。

が、裏では、信長と共謀し、清洲城をのっとる為に、偽りの同盟を結んだのである。


謀略は成功。信友を討ち取り、清洲城は信光のものになった。


これで、信光は尾張下四郡のうち、二郡を手に入れ信長と拮抗する勢力になる。

が、半年後、側近に殺害されていた。


世間では、『七枚起請文で同盟を誓いながら破った。その為、天罰が下ったのだ。』、と言われている。

しかし実際は、信長の謀略と思われるふしがあった。


自分と同等の勢力になった叔父を恐れ、暗殺したのであろう。

その為か、信光が死んだ後の対応が、恐ろしく早い。


信光が殺害された後、すばやく清洲城を支配下に置き、居城としている事。

また、密約のはずの起請文の事が、直ぐに噂になっている事。


他にもあるが、怪しすぎである。


何にせよ、これで信長は、労せず清洲城を自分のものにし、尾張下四郡の主となった。


己の兵は一兵も失わず、敵を葬り去り、城を奪取する。

冷酷ではあるが、見事な策略である。



そして、信長にとって、大きな痛手となる大事件が起こった。


弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が、子供である斎藤義龍に殺害されたのである。

しかも、美濃の国主となった義龍は、信長との同盟を破棄し、信長を倒そうと計画する。


手始めに、尾張上四郡の守護代、織田信安を扇動して、信長と敵対させていた。


さらに、義龍の策略は続く。


信長の弟、信行が謀反。信長を排除するため、兵を出陣させたのである。

それに賛同したのは、織田信安、猛将柴田勝家、信長の家老、林秀貞と美作守の兄弟など。


兵力は少なく見積もっても、2000は超えていた。

これに対して、信長も直ちに出陣したが、兵は700程であった。


圧倒的に不利な戦いが始まり、しばらくは、兵力の差もあり、信行側が優勢だった。


信長側の将が、何人も討たれ、敗戦濃厚となる。

さらに、柴田勝家は、千の兵を率いて、信長本陣にまで迫っていた。


しかし、ここから流れが変わる。


織田信房、森可成の両名が奮戦。柴田勝家の攻撃を防いでいると、信長が前に出て来たのである。


信長は、大声で怒鳴ると、全軍一丸となり、突撃を開始する。

その姿を見た信長勢は奮い立ち、信行勢は怖気づき、押され始める。


信長の攻勢の激しさに、不利と判断した柴田勝家は撤退を開始。

信長は勢いのまま、林美作守の軍を襲い、大将を討ち取る。


もちろん、勢いを掴んだ信長は手を緩めず、信行の軍を強襲し続け、勝利したのである。


この戦いで、倍以上の兵を相手にしながらも、信長勢は、450人以上を討ち取っていた。

名の知れた将も数多く討ち取っており、勝利の勢いそのままに、信行の居城、末盛城を包囲したのである。



「弟である信行様を、一度は許されたが、二度目は無理だったな。」


「はい。そもそも、一度裏切ったものを許したこと事態、奇跡的でしょう。」


「確かに。利用価値があれば別かもしんれが、

 食うか食われるかの世で、裏切り者を許すなど考えられんからな。」


身も蓋もない事言う二人だが、慎介も与平も、信長の寛大な処置に驚いていた。


信長は甘い男ではない。むしろ、非情に徹する事が出来る人間だ。


血の繋がりのある親族を殺し、それでも生き抜いている。


母親の仲介だったとは言え、弟を許したのは、信じられなかった。


「しかし、その温情も無駄になったな。」


「ええ。再び謀反を計画するとは。」


呆れた様子の慎介だが、その言葉に偽りはなく、弘治3年(1557年)、信行は、再び謀反を計画したのである。


この時、家老の柴田勝家は反対していた。

信長と敵対してはならない、と信行へ忠告したのである。


しかし信行は、この忠告を無視。

再び、斎藤義龍や信安と組んで、信長を攻撃しようと画策していた。


忠告を無視された柴田勝家は、信行謀反の計画を信長へ通報。

尾張の兵が、内輪もめでこれ以上失われるのを嫌い、信長は、信行の暗殺を決意する。


暫くして、信長は、病を理由に表に出なくなり、信長重篤の噂が流れる。

そして11月2日、重病のため家督を譲る、と信行を清洲城へおびき寄せ、殺したのである。



「信行様も、柴田勝家殿に裏切られるとは、思ってなかっただろうな。」


「それは仕方ないでしょう。戦国の世では、生き抜く事こそ大事。

 無能な主を捨て、より良い主を選ぶのは当然の事。

 誰からも、非難される事ではないでしょう。」


「そうだな。しかも形式上、柴田殿は信長様の命令で、信行様の家老となっていた。

 柴田殿にとっては、織田の棟梁である信長様も、主だからな。

 信長様の器量を認めた以上、忠義を尽くすのは当たり前か。」


「はい。しかも、信行様の命令で、一度は信長公と戦っています。

 家老としての義理は果たした、と判断したのでしょう。」


慎介の考えに、頷き同意する与平。

だが、話す内容は、この時代では、当然の事であった。


戦国時代は、生き残る事が第一である。


さすがに不義理な裏切りや、暗殺ばかりだと非難される。

が、それでもこの戦国の世では、ある程度容認されるのだ。


少なくとも、主を選ぶことは、何も問題ない。当然の権利である。


一番重要なのは、家を、血筋を残すことだ。



「さて、慎介。血なまぐさい話は辞めよう。

 それより、酒でも飲んで行こうか?」


「相変わらず、与平親方は酒が好きですね。」


「何を言う。俺は酒を飲むために、生きているのだ。

 酒がない生活など、考えられん!

 さあ、行くぞ慎介。」


与平は居酒屋に入っていき、慎介が笑いながら続くのであった。



この後、今川が尾張攻略を開始する。


誰もが諦める中、信長は決死の戦いを、行うことになるのである。



蛇足だが、慎介は、与平の事を義父と呼ぶよりも、与平親方のほうが親しみがあると、今でも呼んでいた。

まあ、顔が顔なので、と家族みんな納得したが、与平は密かに泣いていたそうだ。

もう一つ。

妻のお風殿には、いままで通り名前で呼んでねと、とても怖い笑顔で言われた。

お風殿曰く、「『お義母様』は、年寄りみたいで嫌だ」、との事。

『お祖母様(オバアサマ)』とか言ったら、どうなるのだろう・・・


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