「唇」
私の理想の唇を持っている人はもういないと諦めかけたとき、その人は突然わたしの目の前に現れた。それはデパートの中で買い物をしているときだった。私は喜びに身を震わせ、その人の唇に見入ってしまった。やっと、理想の唇を持った女性に会えたと思ったのだ。
その人に、ばれないように私は尾行を始めた。少なくとも住んでいる場所を知りたいと思ったのだ。その人は、デパートを出ると、真っ直ぐに駅に向かった。券売機で切符を買っている。私も適当に目星をつけ、切符を買ってその人の後を追った。電車に乗り込んでも、車輌の端の方でこっそりとその唇を眺め続けた。思いのほか早くその人は、電車を降りた。切符代は少し無駄になったけど、大した事ではないと思い直し、再び尾行を開始した。
住宅街の中を歩いているとき、その人は公園に入っていった。私は、その人を追いかけていった。そして、その人は公衆トイレの中に入った。
追いかけようとして、私は気がついてしまった。
その人は、男子トイレの中に入っていたことに。
私は、本当にがっかりした。結局、私は唇しか見ていなかったのだ。
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