第九話 おばあちゃんは元気で若すぎたのでした。
春の穏やかな風が、体に当たってはほんわりと後ろへ流れていく。
果てしなく透き通る綺麗な青色を一面に纏った空には、散歩を心置きなく楽しむ柔らかな白色の雲が幾つか浮かび、その中心にはこの世界を優しく照らし出す、小さくも絶大な存在感を誇る太陽がこの場に暖かな日差しを注ぎ込んでいた。
そんな中、俺は小宅に背を向け自転車を走らせていた。
向かう先は町の中心。
この小さな町はそれこそ殆どが田んぼや畑や林で覆われているが、中心部は小さな店々や大型のスーパーマーケットなどで少しばかり賑わっていた。
そこを特に当てもなくぶらつく予定でいる。
もうすぐ死ぬなんて突然言われても、特にするべきことも思いつかないものだ。
……まぁ、町中に行けば、最後に何かしらやることがあるんじゃねぇかな。
……俺の人生の最後なんて、こんなもんだ。
そしてそんな俺の後ろには、地上活動用とやらの小さな手のりサイズの姿に戻った、白と黒の少女たちがひゅるひゅると飛びながらついてきていた。
時々疲れたり置いて行かれそうになると、俺の髪の毛をがしっと掴み、少し上下に揺られながらふわふわとついてきている。……地味に痛い。
そんな少女たちは、互いに文句を言い合ったり、俺に「あっ、あそこの男を死なない程度で良いから轢けっ!」だの「あっ、あそこの男の子の飛んでしまった風船を取ってあげなさいっ!」だのなんだの、口々に言ってくる。……悪魔の方も、全く諦める気は無いらしい。
俺は町に着いてから何かしようとしか思っていないので、軽くそれを流しながら、ただひたすらに自転車を漕いでいった。
「……しかしだなっ、貴様っ、私は先から気になっていたのだが、『止めなさいっ! それ以上罪を増やしてどうするのですっ!? 貴方は、父親のいる地獄に堕ちたいのですかっ!?』って言ったとき、貴様ちょっと今の台詞良かったって思っただろうっ! いや、絶対に思ったっ! 何故なら貴様、あの後私に向かって見せたあのしてやったりと言わんばかりの表情っ、勝ち誇ったかのような笑みっ、そしてそれに加え、あの満足感漂う表情っ、あれを私が鮮明に覚えているからだっ! あっ、あそこの明か学校さぼっていちゃついている男女を思いっ切り轢けっ!」
「ぎくっ! ……そっ、そんなことは思っていませんわっ! 確かにっ、貴方に勝って嬉しいですけど、貴方に向かって、哀れそうに笑ってあげましたけどっ、そんな良いこと言ったぁーだなんてことは、全く思っていませんことよっ! どっかの誰かさんと一緒にしないでくれますっ? 汚らわしいっ! あっ、あそこの赤ちゃんが落としたおもちゃを拾ってあげなさいっ!」
「どっかの誰かさんとは誰だっ! 私はそんなこと一つも思ってないぞっ! 罪を擦りつけるなっ!」
「あらっ? 何を動揺しているのですっ? もしかして貴方も思っていたのですか? 私は貴方のことをいったのではありませんよっ? 大したことも言ってないのに、可哀想な方ですわねっ!」
「っくっっ! 貴様っ、良くも嵌めたなっ! この恨みっ、ただじゃ済まさんぞっ! だが私は決して動揺などしていないがなっ! んっ? それより貴様っ、『貴方も』と言ったが、『も』とは誰のことだっ? ついでに大声で歌いながら歩いてる音痴のおやじも一緒に轢けなっ!」
「えぇっ!? そっ、そんなこと言ったかしらっ? きっ、聞き間違いではなくてっ?私はそんなこと一言も思ってませんからねっ!」
「ん? 何を動揺しているのだっ? 誰とは聞いたが、貴様だとは言っていないぞっ? やはり思っているではないかっ!」
「うっ、嵌めたわねっ! この恨みっ、どうしてくれましょうかっ! しかしっ、私は決して動揺などしていませんがねっ! あっ、そこのおばあさんの荷物を持ってあげなさいっ!」
相変わらず、どうでもいいようなことで争う少女達。……良いこと言ったと思おうとそんなの別にいいだろっ、どうだって。そういうことは言うべきじゃないんだよっ、黙ってれば気づかれないもんだからっ。決め顔でかっこいい台詞言って堂々としてればいいんだよっ。意外とばれてないもんだからっ。
……あとっ、確かにあそこのカップルムカついたけど轢くのは不味いだろっ!てかベンチに腰掛けてる人間をどうやって轢くんだよっ、無理だから、石投げるか野次飛ばす位にしてくれっ。最後におやじは悪くないよっ、そっとして置いてあげてっ!
そんなことを心の中で叫びながら、俺は段々と店や人の姿が増え、賑わってきた街の中を走る。
周りの人間には見えない、白と黒の少女達の存在を確認し、それでも出来るだけ平常心を保ちながら。
田んぼや畑ばかりの田舎町だが、こんな町でも駅はある。
さすがに都心ほどではないが、ほどほどに電車だって通る。駅がごった返す事は無いが、それなりに人はいる。
だから、駅周辺は店などで少しは賑わいを見せていた。
しかし平日の真っ昼間であるから、人は少ない。……人間の苦手な俺にとっては好都合だが。
俺は駅の駐輪場に向かっていた。少し駅から離れた所だが、ただで止められる場所があるのでそこを目指している。
表の通りはそれなりに人が見えたが、近道するために路地に入ると、とんと人の姿は見えなくなった。
俺はそれを確認すると、少し小さめな声で、少女達に話しかけた。
「……なぁっ、あと、俺が死ぬまで何分だ?」
すると、口論していた少女達は一度口を閉じ、懐からメモらしき小さな手帳を取り出して、その小さな指を折り、一生懸命に時間を数えてそれぞれ口にした。
「……あと四十五分だっ!」
「……あと六十分よっ!」
「……なんで二人で数字が違うんだよっ」
俺がそう苛つきながら言うと、二人はめんどくさそうにまた指折り計算を始める。
すると今度はちゃんと答えが出たようで、二人は間違えたことに恥ずかしそうに顔を赤らめながらまたそれぞれ数字を口にした。
「……あと六十分だっ!」
「……あと四十五分よっ!」
「なんでそうなるんだよっ!!」
仕方なく、俺は自分で時計を見て時間を計算する。
すると、俺が死ぬまでの時間は、あと六十分だった。……なんで四十五分になったんだよっ。
それを確認すると、俺に少し焦りの気持ちが表れる。
……早く何かしないと、何もしないうちに俺死ぬな……。
そう思いながら、俺は今し方見えた駐輪場に自転車を近づけていった。
田舎は空気が綺麗だ、なんて言うが、俺はあまりそうは思わない。
今俺がいるような路地はやはり空気が悪いし、田舎道だって、物を燃やしている人が年中いるし、ディーゼル車がまだ何台もあるから、排気ガスはすごい。畑は肥料のにおいや野菜のにおい、土手は溝のにおいや無造作に捨てられたゴミのにおい、何かのフンなどのにおいでやはり臭い。
本当のド田舎の森の中なんかなら別かもしれないが、とにかく、深呼吸なんか出来たもんじゃ無かった。
そんな異様なにおいの漂う路地裏の自転車置き場に降り立つと、俺は自転車を止めて歩き始めた。
周辺に人の姿はない。それを見て、俺は人の居そうな表通りの辺りをぶらつくことを決め、そこへ向かって歩き始めた。
そこで、俺はふと頭に過ぎった些細な疑問を少女達に口にした。
「……なぁっ、思ったんだけど、お前ら、名前は何て言うんだ?」
すると、二人はいきなりの質問にぽかんとして暫し考え込んだ。
人間に名前を問われたことが無かったからだろうか。少し難しそうな顔をして悩んでいる。
しかし少しすると考えが纏まったのか、それぞれ言葉を口にした。
「……山田花子だっ」
「……山田花子よっ」
「明か偽名じゃんかっ!」
俺がそう突っ込むと、少女達はむっとした顔になる。
「何故だっ? 偽名ではいけないのか?」
「何故ですかっ? 偽名ではいけないのですか?」
「いけなくは無いかもしれないが、偽名を名乗る必要も無いだろっ? あと偽名だったらもっと自然なものにしろっ」
俺がそう言うと、少女達はむすっとしてそっぽを向いた。
俺はそんな少女達の行動が良く分からなかったのだが、少女達はそんな俺に関係なくぶつぶつと文句を言う。
「……偽名で良いではないかっ。何がいけないというのだっ。第一きちんとした名も無いというのに……」
「……何がいけないというのですっ。半人前の私にはまだ名前がありませんのに……」
「……ん? お前ら、名前無いのか?」
少女達の文句が聞こえた俺は、少女達にそう尋ねる。
すると少女達はむすっとした表情で答えを返した。
「……まだ無いのだっ」
「……まだ無いのよっ」
「天使と悪魔は生まれた時はまだ名が無いのだっ。しかし区別をするために周りが仮の名前を付けるのだが、正式な名前は、一人前にならないと貰えんのだっ」
「まだ経験も浅く、子供の私たちは半人前で、まだ幾多数多の仕事を数百年ほどこなさないと名は貰えないのよっ」
そう言って少女達はぶすくれる。
そんな少女達を見ると、俺は少し申し訳なさそうに謝った。
「……そうなのかっ。なんか悪いなっ、すまん。でも、じゃあ仮の名前の方でいいよ。そっちを教えてくれよっ。今更だが、呼び方に困る」
俺がそう言うと、少女達は少し驚いたような表情を見せ、ほっぺたをぷくぅっと膨らませて俺から視線を反らし、頬を赤らめて言葉を発した。
「……貴様なんかに教える名など無いっ。好きに呼べっ。汚らわしいっ」
「……貴方なんかに教える名などありませんわっ。好きに呼んでくれて結構ですっ。汚らわしいっ」
そう言われた俺は、何故少女達がそのような態度なのか全く分からなかったが、「そうかっ」と一言言ってその話を終わりにした。
暫しの沈黙を挟むと、少女達が同じ偽名を名乗った事について口論し始めたのだが、俺はもうそれは一旦聞き流して何事も無いように歩いていった。
実際の路地には、俺の足音だけがこつこつと響いていた。
灰色の道の上を、様々な色の車が通りすぎていく。
そのどれもは何処か急かされているように見え、何処か落ち着かなかった。
そんな風景が、細い路地から出てきた俺の目に映る。
陰った路地とは反対に、そこは暖かな日の光で満ちていた。
そんな中、俺は深く息を吐くと、大きく伸びをする。
「……よしっ、行くぞっ」
そして小さな声で一言吐くと、人の居そうな場所に向かって歩き始めた。
「まず、何処へ行くのかしらっ?」
「……分からない」
嬉しそうに尋ねた白の少女に、俺はきっぱりと一言で答えた。
「なっ!?特に考えは無いのですか?」
すると少女は不機嫌そうに膨れ始める。
俺はそんな少女の言葉を聞いて、小さな低い声で言葉を付け足した。
「あぁ。……ただ、人の居そうなとこを歩いてれば、何かあるんじゃ無いかと思って」
「……だな。人さえいれば、何だって出来るからなっ。取りあえず、ひったくりなんかどうだ?」
「……お前に聞いてねぇよ。それに引きこもりしてた奴が、ひったくりして逃げ切れる訳ねぇーだろ」
「じゃあ通り魔にしよう。それなら捕まったって地獄行き確定だから大丈夫だっ」
「……お前っ、俺の父親のこと知ってんだよなっ?それは俺に対する嫌がらせか?」
「……いやっ?親子で殺人して地獄行きってのも乙じゃないかと思ってな」
「……悪魔のやろ……っ」
そんな悪魔の悪巫山戯に付き合いながら、俺は町の中を歩く。
そして周りをきょろきょろと見ながら、すべき事を探し始めた。
「……あっ、あの人なんてどうですっ?」
街を歩き出して少し経ったとき、白の少女がそう言って、ある方向に指を指した。
俺がその指の先を目で追うと、そこには歩道橋があり、そこに歳をとったお婆さんが、重たそうなレジ袋を両手に持っていた。
「おっ、あのレジ袋持ってあげるのは間違いなく+ポイントだよなっ?よし、良いのを見つけたっ、ありがとうなっ、行くぞっ!」
「はいっ!」
「後ろから小突いてみるかっ?年寄り相手なら貴様でも逃げられるだろう?」
「だから地獄には行かねぇっつってんだろっ!」
俺は走ってその歩道橋まで行くと、数段階段を上ったお年寄りのもとへ行った。……ちっと疲れた。運動不足は侮れない。
俺は少し息を切らせた声で、そのお年寄りに向かって声をかけた。
「あのっ、その荷物お持ちしましょうか?」
俺がそう言うと、階段を上がっていたお婆さんが足を止め、俺の方を向いた。
不思議そうな顔で、俺のことを見ている。
「あ、あのっ、その荷物、お持ちしますっ!」
そんなお婆さんに、俺は声が良く聞こえてなかったのかと思い、再度お年寄りに声をかけた。
すると、今度は聞こえたようで、その細い目を見開いて……。
「わたしゃそんな年寄りに見えますかっ!?」
もの凄い剣幕で怒鳴られた。
「えっ!?なっ、そっ、そんな訳じゃ……っ」
それに驚いた俺は、少しあたふたと戸惑う。
するとそのお婆さんは、俺を蹴飛ばそうとばかりに言葉を続けた。
「わたしゃまだ八十一歳なんだよっ!まだ若いんだっ!なのに年寄りに見られるなんて心外だねっ!」
……いや、若くないだろっ。
「わたしゃこんな失礼極まりない若者は初めて見たねっ、この前の『席譲りましょうか?』の子以来だっ!」
……いや、初めてじゃないじゃんっ。
「まぁこの前はなんだかんだで席譲ってもらったけれどもねっ!」
……譲ってもらったのかよっ。
「とにかくっ、わたしゃ若いんだっ、元気有り余ってんだっ!声なんかかけないでおくれっ!」
そう言うと、お婆さんは俺の親切を見事に踏みにじってすたすたと階段を上っていった。……いやぁ、なんとスムーズに楽々と階段を上っていくこと。俺なんかより運動神経いいんじゃないか?成る程元気で若いわけだ。
「何せ袋全部パンしか入って無いんだからねっ!」
……全部パンかよっ。
階段を上り終わったお婆さんが去り際に独り言のように言っていった。
お婆さんが去り終わった後、俺は何だか泣きそうな気分になった。
……気分が半端なく沈んでいく……。
そんな俺の背中を、二人の少女が気の毒そうにぽんっと叩いた。