第八話 天国vs地獄っ!勝者はどちらにっ!?
それは、一つのシミだった。
床に着いた赤黒いシミ。
赤黒い、一つの大きな大きなシミ。
黒い色の付いた水溜が床に染みついたような、そしてその水溜で誰か子供が跳ね回って遊んだかのように、周りに点々とその黒を跳ねらせた、その大きなシミ。
最近のものではなく、少し前の物のようなそれは、普通の家にはあるべき筈の物ではなく、
―――まるで、殺人現場に広がっている物のようだった。
その前に、様々な感情を抱きながら俺は佇む。
そしてそこで昔の思い出を、―――いや、悪夢を、走馬灯のように思い出していた。
―――昔の自分のことを、母のことを、そして憎い彼奴―――父親のことを―――……。
「んあ゛ぁ? なんだよてめぇ、俺に文句があるっつーのかぁっ?」
「ちっ、違うわっ! たっ、ただ、最近家計が苦しいから、もう少し貴方が働いてたらと思って……っ」
「あ゛ぁ? 知るかそんなのっ。てめぇがもっと働けばいいだろうがよっ」
「そうだけど、でもっ、私だけじゃなかなか厳しくて……」
「それはてめぇの働きが悪いからだろうがっ! 俺のせいにすんじゃねぇーよ、クソがっ!」
「……で、でもっ、今月も貴方のギャンブルの借金が……っ」
「だがらしてねぇーっていってんだろうがぁーっ! 俺のじゃねぇのに払わねぇっつってんだろっ!? てめぇが体売ってでも返して来いよっ! 阿保がっ!」
「きゃぁぁあっ!!」
父さんが母さんを怒鳴りつけて、イライラが募り始めると蹴り飛ばし、殴り始める。
そんなのは、日常的な風景だった。
そして僕は、そんな父さんが恐くっていつも端の方でじっとしてる。
父さんの前に立ったって勝てっこないし、母さんも何で出てきたのって怒るから。
でも今日は、体が父さんに楯を突きたくて疼いていた。
……だって、この前母さんに教えてもらったんだ。
母さん、笑顔で言ってた。
……赤ちゃんが出来たんだよっ、今度雅人はお兄ちゃんだねって。
最近母さんの体調が悪そうなのも気にかかるけど、お腹の赤ちゃんも心配なんだ。
「きゃあぁぁっ!」
「うっせーんだよっ、静かにしやがれっ! 近所迷惑になるだろうがっ!」
「う゛ぅっ! ごっ、ごめんなさ……いっ。ああぁぁっ!!」
「あ゛ぁ? 聞こえねーよっ? いっつも大きな声でっていってんだろうがぁっ!」
「……ごっ、ごめんなさいっ!!」
「ったくアマがっ、俺に文句言うんじゃねーよっ。文句あんだったら金持ってこいってんだっ。……ったく、また餓鬼つくりやがって。もっと金が無くなるじゃねぇーかっ。早く堕ろしてこいっつってんだろっ? あ゛ぁっ?」
「う゛ぁっ! っで、でもっ、せっかく授かった命だから……っ。ああぁ!!」
その時、父さんの表情が怒濤に満ちた顔に変わったように見えた。
いつもイライラして怒ってる父さんだったが、その時の父さんは、いつもより怒っているように見えた。
……恐かった。僕の体がいつも以上に震えているのに気づいた。
刹那、父さんが床に転がっている母さんのお腹目掛けて足を振り上げる。
恐怖に震え動けない母さんが目を見開いた。
……っ危ないっ!!
僕はそう思って、思わず口を開いた。
「っだめぇっ!!」
『ドガっ!!』
次に響いた呻き声は、僕のものだった。
反射的に僕の体が動いて、母さんを庇ったのだ。
蹴られた僕は、母さんを越えて床に転がり、机の角に頭を打った。
あまりの痛さに、僕は気を失いかける。
しかし痛みに呻きながらも、何とか意識はあった。
頭に激痛を走らせながらも、鮮明というわけにはいかず、動きもとれなかったが、視界と意識は何とか保っていた。
そんな僕の耳には、母さんが僕の名前を叫ぶ声が聞こえてくる。
しかし次の瞬間からは、その母さんの声は悲鳴へと変わっていった。
「ったく、何奴も此奴もっ、俺に逆らいやがってっ!!」
僕は、母さんを―――赤ちゃんを守れなかった。寧ろ、余計傷つけてしまった。
父さんは僕が刃向かったせいで余計逆上し、母さんをもっと蹴りつけ、殴りつけた。
僕の目や耳には、段々元気を失っていく母さんの声と姿が届きつづけた。
あれから、何分経ったのだろうか。
僕は数時間過ぎたようにも感じたが、さほど時計は動きを見せていなかった。
父さんが荒く息をたて、母さんが今にも途絶えそうな、か細い呼吸をしていた。
父さんの手はガクガクと震えていた。いつもなら、『薬』とか『金』とか良く分からないことを言って暴れだす状態だ。
そんな状態の父さんは、ぐったりした母さんの襟元を掴んで問い正すように聞いた。
「……なぁっ、当然っ、その餓鬼は堕ろすよなぁっ!?」
父さんは、大声で母さんのことを睨め付けながら尋ねた。
母さんが、自分に逆らったことを言ったのが気にくわなかったのだ。
普段、母さんは父さんに弱く、逆らうことなど決してしなかった。
だから、余計に腹がたったのだろう。
しかし、そんな母さんは微笑んでいた。
僕は、そんな母さんを見るのは初めてだった。
体の至る所が腫れ、真っ赤な血を垂らした母さんは、笑っていたのだ。
いつもなら涙を流している筈の母さんだが、今日は何故か強かった。
そして、母さんはその微笑みのまま父さんに向かって答えを返す。
「……いっ、いや、よ……っ。……っだって、私の、子だもの……っ」
母さんが父さんにそう言いはなったとき、父さんの顔付きがよりいっそう厳しくなったのが見えた。まるで、何処かの血管でも切らしたように、怒りに満ちた表情で、震える手でまた母さんを殴りつけ、蹴り付けた。
「っなぁ、どうしてなんだよっ!! どうして俺に逆らうんだっ!!なぁっ!!」
怒鳴りつける父さん。
しかし、母さんは負けなかった。
最後まで、意見を変えようとはしなかった。
そんな母さんを見て、ついに父さんはブチギレてしまった。
近くに偶々あった母さんの裁縫箱の中の裁ち切り鋏を逆手に持って、父さんは母さんの体目掛けて思いっ切り刺した。
僕が危ないと思ったのも束の間、そこには、真っ赤な血が沢山飛び散った。
父さんと母さんがその血で染まる。
そしてその時から、―――母さんは動かなくなった。
動かなくなった母さんからは、赤い血が流れ出し、そこは一瞬で血の海へと変わった。
―――だらだらと血が流れ出す。そしてその動かなくなった母さんを見て、僕の体は痙攣し始めた。
「……いっ、いや……っ。いやっ、だ……っ。……いや……いや……いや……いや……っ。いやっ、い゛やだあ゛ああぁぁぁっ!!」
その光景を見て、僕は叫び声に似た悲鳴を上げる。
唯一、僕に優しく、僕の味方だった母さんが血塗れになって倒れている。
嫌だった。恐かった。見たくなかった。信じたくなかった。
母さんが、もしいなくなったら、僕は、もう―――……。
「い゛やああぁぁぁぁっ!!うあああぁぁん!!」
父さんは、驚いたような表情を浮かべていた。
ここまでやるつもりでは無かった。
そんな表情をしていた。
逆手に持った血塗れの裁ち切り鋏を持ち、返り血で真っ赤に染まった父さん。
ガクガクと手を振るわせ、母さんから離れるように飛び上がると、狂ったように叫び声を上げて家から裁ち切り鋏を持ったまま、血相を変えてそのままの格好で家から飛び出していった。
そんな父さんを横目で見ながら、僕はもうどうしたらいいのかも分からず、ただ泣いていた。
悲しかった。恐かった。
そして、こうなったのは僕のせいではないかと思った。
母さんの言いつけを守って、あの時母さんを庇わなければ、こんなことにはならなかったのではないか。
僕はただ泣いていた。
もう、どうしていいのか分からなかった。
―――どうすることも出来なかった。
「……まさ……と……っ」
しかしそんな時、母さんの声が聞こえた。
小さな弱々しい声だったが、確かに母さんの声だった。
「……母さんっ?」
僕は、泣くのを止めて母さんに駆け寄った。
すると、母さんは微かに目を開け、弱々しく呼吸をしていた。
―――母さんはまだ生きていた。
それを知った僕は、一瞬喜びに近い笑みを浮かべ、そしてその後すぐ、電話で救急車を呼んだ。
母さんは無事だった。
でも、お腹の赤ちゃんは死んだ。
お腹の赤ちゃんだけでは無い。
他にも何人か、人が死んでしまった。
僕はいろんなことを、警察の人に聞かれた。
母さんが刺された時のこと。―――そして、父さんのことを……。
そして、聞いた。
―――父さんが死んだこと。
―――父さんが、自殺してしまったこと。
―――町中で、何人もの罪のない人々を見境無く殺して、そして警察が駆けつけたときに自殺してしまったことを。
父さんは、罪人だった。
殺人に麻薬、暴行や密売。他にも僕には良く分からないいろんな罪を働いていた。
父さんは、母さんと僕に、いろんな物を残していった。
傷跡に悪夢、ローンに借金。そして、その他諸々。
―――罪人の家族だという事実。
友達なんて、大していなかった。
家の事情もあるが、性格の面もあって、なかなか出来なかった。
……だけど、事件の後は、一人もいなくなった。
影でいろんな悪い噂をたてられ、毎日のようにいじめられ。
昔は心配を掛けてくれる先生もいたが、今は目の前で僕がいじめられてても、蔑むような目で通り過ぎていって、誰も助けなくなった。
―――そして僕は、学校に行かなくなっていった。
毎日家で引きこもり、何か重要な用事がない限り部屋から出ることは無くなった。
気に掛けるのは、母さんくらいだった。
高校進学の時期になり、俺は通信制の学校に進学した。
―――人と会いたくなかった。
いろんなことを問いつめる警察。
いじめる子供たち。
周囲の蔑むような視線。
噂をたてる人たち。
微笑む血だらけの母。
見て見ぬふりの先生。
怖がってる癖に接しようとする大人。血塗れの父。
心に無いことを言う友達。笑う大人。味方だというように優しそうに接してくる警察。
偽りの笑顔。血の海で倒れる母。びくびくする子供。俺を見た子供を叱りつける親。怒鳴る父。 物を投げつけてくる子供。睨め付ける大人。どうでも良いような質問をしてくるマスコミ。泣き叫び慰謝料を請求するがめついた遺族。微笑む母。必要以上に迫る借金取り。嘲笑う子供。怒鳴る警察。殴る父。嫌がらせをする子供。見覚えのない罪を擦り付ける大人。接点の無い癖に犯罪者のことをマスコミに話す大人。怒鳴りつけてくる遺族。泣く母。冷やかす子供。暴れ狂う父。知らんぷりの大人。本当は何も知らない癖に噂を流す大人。恐れる子供。怒り狂った遺族。縋る母。笑いながら殴る子供。解せた笑い声。壊れたように笑う父。苦情を言う大人。煙たがる大人。事件を早急に解決したい警察。父を庇う母。ただの野次馬。事件をより大事に騒ぎ立てるマスコミ。嫌がらせをする大人。遠目に見る子供。知りもしない人間のことをいかにも正しそうに語る専門家。睨め付ける父。本心でない同情する大人。何でも押しつけてくる子供。押し掛ける借金取り。悲しそうな視線を向ける先生。嬉しそうに語る母。何か問題を起こすと父と並べようとする大人。意味の分からない馬鹿なコメントをするマスコミ。事件を知っているだけで勝ち誇ったような気になっている子供。酒乱の父。適当な人格分析をする専門家。しつこい借金取り。姿を見ただけで笑う子供。優しい母。仲間はずれにする子供。子供の目を覆う大人。凶器を持つ父――――――……。
「あ゛あぁぁああああっ!!」
悪夢のよみがえった俺は、大声で叫び声に近い悲鳴を上げた。
恐怖。憎悪。悲観。嫌悪―――……。
様々な記憶と感情を思い出し、俺は発狂した。
恐かった、憎かった、悔しかった、寂しかった。
あの時の様々な感情が込み上げてくる。
そしてそれと同時に、目からは涙が零れ出た。
「あ゛あぁぁあぁああああっ!!!」
俺は狂ったように大声を上げていた。
まるで、内なる魔物と戦う少年漫画の主人公のように。
―――あの時の、自分のように。
しかし、今はあの時ではなかった。
今は今だった。
俺はもう高校二年生で、怒鳴り付けてくる父親や、血塗れの母親もいない。
そして、俺の近くには、―――少女達がいた。
「おいっ!! 大丈夫かっ!?」
「ねぇっ!! 大丈夫ですかっ!?」
―――……はっ。
俺は少女達の声で気を取り戻した。
気が付き振り向くと、そこには驚き心配そうな表情で俺の服を引っ張っていた少女達が立っていた。
そんな少女達の様子を見て、俺は完全に気を取り戻し、深呼吸をして落ち着きを取り戻した。
「……すまんっ、取り乱しちまって。……もう、大丈夫だっ」
少し苦笑いを浮かべそう言った俺を見て、少女達は少し安心したように息を吐いた。
そしてその後しれっとした表情へと戻り、俺に言葉を発する。
「……全く、少し心配したではないかっ、私にそんな思いをさせるとは、貴様どう責任を取ってくれるというのだっ? そして、五月蠅かったっ。不快であったぞっ」
「……全く、少し心配したじゃないっ、私にそんな思いをさせるなんて、貴方はどう責任を取ってくれるのかしらっ? そして、五月蠅かったっ。不快でしたよっ」
「すまんっ、すまん……」
そんな少女達に苦笑いを浮かべながら、俺は弁解の意を述べる。
そして気を取り直して玄関に向かって歩き出したのだが、またもや簡単に行かせてはくれなかった。
玄関に向かう途中にある和室の一角を何となく見たことがいけなかった。
それを見た途端、俺は怒りが込み上げてきた。
歯をぎりりと噛み締め、拳を強く握りこみ、それを睨め付ける。
「……っくっそ――――っ!!」
俺はそれに向かってそう思いっ切り声を吐くと、憎しみを込めた表情でそれに近づいていった。
それは、仏壇だった。
―――憎き彼奴の仏壇だった。
昔からこれは気にくわなかった。
遺影の男が―――笑っているからだ。
本当は、俺や母さんなんかに笑顔なんか向けたことは無い癖に。
しかし、今の問題はそこではない。
問題は、―――その仏壇に、まだ生き生きとした元気な花があがっていたことだ。
きっと、母さんが今日あげていったんだ。
―――子供を殺され、様々な荷物を置いていった彼奴の所に。
それを思うと無性に腹がたった。
そして苛つく俺は、そこにあった仏壇の前の線香や蝋燭が置いてある机を上の物を投げ捨て持ち上げ、仏壇に向かって思いっ切り投げつけた。
ガシャーンという派手な破壊音とともに、写真や花、その他が倒れ壊れた。
しかし壊したりないとばかりに、俺はそれらに向かって一発、思いっ切り蹴りを入れた。
また、ガシャンと破壊音が鳴り響く。
そしてその後には、俺の荒い上がった息がその場に響き渡っていた。
怒りの収まらない俺は、もう一発仏壇に向かって蹴りを入れようとした。
しかし、その行為は一人の少女によって止められた。
「止めなさいっ! それ以上罪を増やしてどうするのですっ!? 貴方は、父親のいる地獄に堕ちたいのですかっ!?」
その、白い少女の言葉に、俺ははっとしてその足を止めた。
少女に止められて、俺はその足をゆっくりと床に下ろす。
そして深呼吸をして気持ちと息を整えると、少女に礼を述べた。
「……そうだなっ。……悪ぃ」
しかしその声を聞いた黒の少女は、驚いたように言葉を発しようとする。
「……っなっ、貴様、まさかっ……!」
「……なあっ」
しかしその声を遮るように、俺は黒の少女に質問をした。
「……なあっ、……彼奴って、まだ地獄にいんのかよ……」
真剣そうに尋ねる俺を見て、黒の少女は自分が話そうとしたことを一旦止め、俺の質問に答えようとする。
「……あぁ、彼奴って言うのは、もしかして……」
そこで初めて少女は分かったかのように言葉を発そうとする。
しかし、少し切羽詰まっている俺はその言葉を遮り、少女に言葉を発した。
「……っあぁそうだよっ! 俺の実の父親だよっ! 高野雅樹のことだよっ!!」
そんな俺の言葉に、少女は一息置いてから話を始めた。
「……あぁ、まだいるぞっ! 彼奴は大悪党だからなっ。まだ、半分も罪を償い終わってないぞっ、彼奴は。……まあ、他の輩もそうだが、反省する気は全く無いようだがなっ」
それを聞いた俺はきつく拳を握りしめる。
そして一つの決心を固めると、少女達に向かってその志を伝えた。
「……なぁ。……俺、決めたよっ。……今、思ったんだ。」
少女のほうに向き直ると、俺ははっきりと真剣な表情で決意を言い放つ。
「……俺は、ぜってー彼奴と同じ所には行きたくねぇ……っ。……だから、俺は……天国に行くよっ」
そう言いはなったとき、白の少女は手を叩いてとても喜んで跳ね回り、黒の少女は床に手を着いて落胆していた。