螺子
何処にでもある景色だ、ただ今は夕刻なので学校帰りの学生が多い。
彼も又その中の一人で、いつもの道をいつものように歩いていた。通常の、有り触れた風景の中で、彼だけが、『通常』から抜けていくのも知らないで。
「あの、すいません。落としましたよ」
「え? あ、どうも」
平和な道端で、唐突に渡されたものは、ハンカチでも財布でもなく、一本の。
「は? 俺、ネジなんか落としてませんけ……ど? あれ?」
当然のように其処に人はいない、残ったのは彼と螺子。
「何なんだよ、ネジなんか知らねぇよ……」
螺子は呆気無く宙に投げ出され、重力にならって落下する。
後に――彼は捜す事になる、この螺子を。
帰路を歩く彼は、また一本の螺子に出会った。
「あ、そこの君! 落としたよ?」
「へ?」
そう言って中年男性が彼に差し出したのは、やはり螺子。
又か、と思いながら今度の彼は否定してみた。
「いや、あの……。ネジなんて落としてませんよ、俺」
「いやいや、そんな事は無いよ。君から落ちたんだよ、これは」
彼の否定に対して、男性の口調はしっかりと肯定的である。
「そんな事言われても、ネジなんか持ってないんですけど……」
「いいから。君の落とし物なんだから、君が持ってなさい」
そう言われて、やや強引に、螺子は彼の手の中に握られた。
うんざりするように、彼は又、その螺子を投げ捨てた。
駅から電車に乗って一時間、彼はようやく地元に帰った。
駅から家までは、やや距離があって歩いて三十分程だ。商店街を通り、暗い夜道を行く事となる。
商店街はいつものように賑わって、買い物をする主婦や彼と同じ学校帰りの学生などが食品や文房具、本などを買っているようだ。彼は特に何も買うものが無かったので、真っ直ぐと家路を歩く。
商店街を抜けた頃には住宅地が見える。
そこから彼の家まで二十分少々――。割と在る距離を又、彼はいつものように歩いた。十分程、歩いた頃には長かった影はその姿を薄めていた。
夕刻は過ぎ、辺りは夜へと変化しているのだ。
商店街を離れてしまうと、辺りは静かで自身の足音がよく聞こえてくるようになる。コツコツと、革靴の小気味の良い音が響いた。
その足音と共に金属音が響いた。
ヵキンッ!
いや、コキン、と言ったのかもしれない。その金属音の方向――背後を彼は見た。しかし、そこに金属はおろか何も無い。鞄や制服、金属がついていそうなもの、全て調べたが、やはり何処にも無い。
気のせいか、と思い、彼は再び帰路を歩いた。
しかし――、
キンッ、キコンッ、ヵキン、チキン、キン、……。
連続してその音は流れ、聞こえた。
再び振り返り、確かめても何も無い。
無論、鞄も制服も携帯電話のストラップも見た。
(幻聴? いやそうじゃない、何処かの音が響いてるんだろう。)と彼は納得した。
納得してからも彼の耳には金属音が届いた。
さらに再び振り返り、確認しても何も無い。歩くのを止めると止まるその音に、彼は疑念を抱いた。
(誰かが嫌がらせしているのか?)と。立ち止まって、確認する。
彼は声高に言った。
「誰だよ!」
……しかし、何事も返って来ない。
仕方無く歩き出した彼に、又もあの音は語り掛ける。
ついに走り出した彼を、音はまだ追って来る。
走りに自信の有った彼は、全速力で走れば撒けると思ったのだ。
しかし――いや、やはりと言うべきか、音はまだ追って来る。
そして止まれば、また音は止み……。
彼の疑念と不安、ストレスは最高潮に高まった。
「何なんだよ!ネジ落としたとか言われたり、追われたり!何なんだよ今日は!」
彼は、そう自分で言って気がついた。
ネジ?
そうだ、ネジだ!と確信に辿り着いた満足感と、新たな疑念を心に廻らせる。
そう思って振り返れば、無数の螺子が歩いて来た方向に目印のように落ちている。
彼は蒼ざめた。顔面蒼白で、驚いていた。本当にネジなんか、落としてたのか?と。
確かにこの螺子は、彼から落ちたものであり、落ちる度に音は彼を追って来ていた。
そう、まるで影のように。
無数の螺子に対する疑心と共に、彼はやっと或る事に気が付いていた。
「ここ、……何処だ?」
通い慣れたはずの道、いつも通っていた道、走っていたとはいえ、迷うなんて事は絶対に無い。おかしい、家を捜さなきゃ。家……、家?
そう思い始めると、まるで待っていたように謎は頭を駆け巡り出す。
「家って、何処にある?誰がいる?家って、家って?家って、何だ?家から何処に行った、学校、学校って何だ?誰がいて、何をする?家では何をするんだ?俺には誰がいる?家族、家族って何だ?どんなやつの事を言うんだ?俺、俺?俺って何だ……?」
彼がブツブツと呟く最中も、螺子はジャラジャラと音をたてて落ちていく。
彼は膝をついて、倒れた。前のめりに倒れても、やはり彼は呟き続けた。
「どう、やって……、歩けば……いいんだ?どうやって……喋……んだ?、言、葉?……うあ、ああ……あ?」
そして、彼はついに、
うあああああああああああああ!!!
叫んだ。
そのまま彼の中の何かがブツンッと音をたてて、彼の意識は途切れた。
彼が次に目覚めた時、其処には二つの物体があった。
彼が目を開けると、それらは、
「あ! お母さーん!お兄ちゃん起きたよー!」
「ちょっと判る?あんた大丈夫?」
小さい方の物体――妹は消えて(母を呼びにいったのだ)、大きい方の物体――姉は彼に語り掛けて来た。
彼が答えられず無言でいると、妹と別の大きな物体――母が現れた。
母は言う。
「いったいどうしたの、こんな突然……。いきなり倒れたんだって?××さん家の奥さんがね、電話くれたのよー?今度お礼持って行かなきゃぁね」
妹も何か言った。
「お母さんとお姉ちゃんとあたしでねー、お兄ちゃんを運んで来たんだよー。カンシャしてよねー?」
彼女たちは平和にも、彼の表情に気付かずに一方的に情報を浴びせる。しかし、姉だけは気付いたようで、口を開き続ける母と妹を制した。
「ねぇ、おかしくない?様子が」
「え?」
言われるまで気付かなかっただろう。
彼は黙って聞いているように見えただろう。
だが、彼の眼は一点を見ながら固まっていたのだ。
「ねえ、ちょっと、ねえ」
身体を揺さ振って、話しかけても、全く反応が無い。
異変に気付いた家族はまるでシーンを区切った映画のように早急に、彼を病院に連れて行く事を決めた。呼ばれて、やって来た救急車は彼を乗せ、彼の螺子に気付かないまま、同じ道を通り過ぎて行った。
医者には、原因不明だと言われた。
過度のストレスによるものかもしれないと言っていた。
生きてはいるが脳死に近い状態だ、とも言った。他は健康なんだ、と。
家族、救急車、彼自身のこと。
そんな事はどうでも良かった。彼にとっては。
何せ彼の頭に残された螺子は、たったの十三本。
五臓六腑を動かす事と、まぶたを開けている事。
そして、もう一つ。
彼の頭の中の螺子は、家族に、そして彼自身にこう言っていた。
【螺子を、捜さなきゃ】
後に彼の友人は、こう言っていたと言う。
「あの日にアイツ、頭ぶつけてたんです、学校で。ふざけてて……、すごい音したから、病院行けって言ったんですけど、平気だって……、だから……」
これが原因だった、とか、そういう事を言うつもりは無い。だけれど、これだけは言える。彼の螺子は、彼の頭の中の【記憶】だったという事。
名前も、頭をぶつけた事も、身体の動かし方も、それまで生きてきた思い出も、何もかも、忘れてしまった。
物忘れの激しい人、最近頭をぶつけた人、気をつけて。
貴方の螺子は、ちゃんと、頭に付いていますか?




