名前を忘れる王子さま
むかしむかし、山と森に囲まれた、小さくて豊かな国がありました。
その国には、とても美しい王子さまがおりました。
金色の髪に、青い目。剣を持てば誰より強く、本を読めば学者たちとも難しい話ができました。おまけに身分の低い者にも優しかったので、国の人々はみんな、王子さまが立派な王さまになる日を楽しみにしていました。
けれども、王子さまには一つだけ、誰にもどうすることのできない困ったところがありました。
王子さまは毎朝、ひとりだけ、人の名前を忘れてしまうのです。
誰の名前を忘れるのかは、王子さま自身にも分かりませんでした。
昨日いっしょに食事をした大臣の名前を忘れた朝もありました。幼いころから剣を教えてくれた先生の名前を忘れた日もありましたし、とてもかわいがっていた白い犬の名前を思い出せなくなったことさえありました。
けれど、不思議なことに、それ以外のことは何一つ忘れません。
大臣と何を話したのかも、剣の先生にどんなことを教わったのかも、白い犬がどれほど走るのが好きだったのかも、きちんと覚えているのです。
ただ、名前だけが、朝の光といっしょに消えてしまうのでした。
王さまは国中から医者を呼びました。魔法使いにも見せましたし、遠い国から占い師まで招きました。
けれど、誰にも治すことはできませんでした。
ただ一人、森の奥に住む年老いた魔女だけが、王子さまを見てこう言いました。
「これは病ではありませんよ」
王さまはたずねました。
「では、いったい何なのだ」
「昔、かけられた魔法です」
魔女はそう言うと、眠っている幼い王子さまの額を、細い指でそっとなぞりました。
「この子は毎朝、自分にとって大切な者の名前を一つ忘れます。そして、誰かを心から愛したときには――」
魔女はそこで口を閉じました。
「どうなるのだ」
王さまが聞いても、魔女は首を振っただけでした。
「それは、そのときになれば分かります」
それから十六年が過ぎました。
王子さまは二十二歳になり、そろそろ結婚相手を決める年ごろになっていました。
舞踏会が開かれるたび、国中の美しい令嬢たちが城へやってきました。
けれども王子さまは、なかなか誰かを好きにはなりませんでした。
美しい人にも会いました。歌の上手な人もいました。外国の言葉を三つも話せる令嬢も、馬に乗るのが王子さまより上手な娘もいました。
それでも王子さまは、結婚したいとは思いませんでした。
そんなある春の日のことです。
城の庭で開かれたお茶会に、一人の娘がやってきました。
名前をエリーゼといいました。
エリーゼは伯爵の娘でしたが、とくべつ美しいわけでも、とくべつ歌が上手なわけでもありませんでした。
舞踏会ではよく壁際にいましたし、人前で話すと少し早口になりました。ダンスをすれば、ときどき相手の靴を踏みました。
ですが、本を読むことが大好きでした。
そして、人の話をよく聞く娘でした。
その日、庭の隅で一人で本を読んでいたエリーゼを、王子さまが見つけました。
「みんながお茶を飲んでいるのに、君は何をしているんだい」
王子さまがたずねると、エリーゼは慌てて立ち上がりました。
「申し訳ありません。少し、人が多すぎまして」
「人が嫌いなのか」
「いいえ。一度にたくさんいるのが苦手なのです」
王子さまは笑いました。
「私もだ」
エリーゼは驚きました。
「王子さまなのに?」
「王子だからだよ」
それが二人の最初の会話でした。
それから王子さまは、エリーゼを見つけると話しかけるようになりました。
二人は本の話をしました。お菓子の話もしました。エリーゼはシナモンが苦手で、王子さまは干しぶどうが嫌いだという、どうでもいい話もしました。
雨の日には、窓辺に座って雨粒が競争するのを眺めました。
王子さまは、エリーゼが笑うとき、少しだけ右の眉が上がることを知りました。
エリーゼは、王子さまが困ったとき、無意識に左の耳を触ることを知りました。
夏が来ました。
秋が来ました。
やがて冬になりました。
そして、ある冬の朝のことでした。
王子さまは目を覚ますと、枕元に置かれていた一冊の本を見つけました。
昨日、エリーゼから借りた本でした。
王子さまは、その本を誰から借りたのか覚えていました。
庭のベンチに座って渡されたことも覚えていました。
「絶対に折らないでくださいね」
そう言って彼女が笑ったことも覚えていました。
右の眉が、ほんの少し上がっていました。
ところが。
王子さまは、その娘の名前だけを思い出すことができませんでした。
「……あれ?」
何度考えても出てきません。
いつもなら、名前を忘れる相手は日によって違いました。
だから王子さまも、たいして気にはしませんでした。
けれど、その日はなぜか胸がざわざわしました。
朝食のあと、王子さまは庭へ向かいました。
いつものベンチに、その娘が座っていました。
王子さまを見ると、娘は笑いました。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
王子さまは少し困った顔をしました。
そして言いました。
「申し訳ないんだけれど、君の名前を教えてくれるかい」
娘は目を丸くしました。
けれど、すぐに思い出しました。
王子さまが、毎朝ひとりだけ名前を忘れることを。
「エリーゼです」
娘は笑いました。
「エリーゼ・リンドベルグ」
「そうだった。エリーゼ」
王子さまはその名前を、大切な言葉のようにゆっくり繰り返しました。
その日は、それで終わりました。
ところが翌朝。
王子さまは、また同じ名前を忘れていました。
そして、その次の朝も。
また、その次の朝も。
十日たっても、一月たっても、王子さまが朝になると忘れるのは、エリーゼという名前でした。
けれど、不思議なことに、それ以外は忘れませんでした。
彼女がシナモンを嫌いなこと。
雨の日が好きなこと。
本の角が折れていると、とても悲しそうな顔をすること。
緊張すると手をぎゅっと握ること。
寒い日は右手から先に冷たくなること。
そして、自分が彼女と過ごす時間を何より楽しみにしていること。
それらは、一つも忘れません。
ただ、名前だけ。
名前だけが、毎朝消えてしまうのでした。
最初のうちは、エリーゼも笑っていました。
「おはようございます、殿下」
「おはよう。それで……」
「エリーゼです」
「ああ、そうだった」
二人にとって、それは毎朝の小さな挨拶になりました。
春になるころには、王子さまが言うより先に、エリーゼが名乗るようになりました。
「おはようございます。エリーゼです」
「おはよう、エリーゼ」
そして二人は笑いました。
けれど、毎朝同じことを続けているうちに、エリーゼは少しずつ笑えなくなっていきました。
王子さまのせいではないことは、分かっていました。
それでも、お城の人々の中には意地の悪いことを言う者もいました。
「あの方だけ、毎日お名前を忘れられるそうよ」
「よほど印象に残らないのでしょうね」
「王子さまのお相手になるなんて、とても無理でしょう」
エリーゼは何も言い返しませんでした。
けれど、その言葉は小さな棘になって、胸の中に少しずつ積もっていきました。
ある日、エリーゼは鏡の前で、自分の名前を口にしてみました。
「エリーゼ」
たった四文字の名前でした。
両親がくれた名前です。
友だちが呼んでくれる名前です。
王子さまも昼には何度も呼んでくれます。
それなのに朝になると、その名前だけが消えてしまいます。
まるで自分だけが、夜のあいだに世界からいなくなってしまうようでした。
その年の初夏。
王子さまはエリーゼを城の小さな庭へ呼びました。
白い薔薇がたくさん咲いていました。
「エリーゼ」
「はい」
「私は君が好きだ」
王子さまは言いました。
「だから、いつか君に私の妻になってほしい」
エリーゼは、ずっと待っていたはずの言葉を聞きました。
けれど、うれしいより先に、胸が苦しくなりました。
「……明日の朝も?」
王子さまは答えられませんでした。
「明日の朝も、私の名前を覚えていてくださいますか」
王子さまはしばらく黙っていました。
それから、正直に首を振りました。
「分からない」
「そうですか」
エリーゼは笑おうとしました。
けれど、うまく笑えませんでした。
「少しだけ、考える時間をください」
その翌朝。
王子さまはいつものように目を覚ましました。
窓の外では、小鳥が鳴いていました。
そして王子さまは、いつものように一つの名前を忘れていました。
庭へ行きました。
けれど、いつものベンチにエリーゼはいませんでした。
昼になっても来ませんでした。
夕方になっても来ませんでした。
翌日も。
その翌日も。
エリーゼは現れませんでした。
王子さまがたずねると、伯爵家の者は答えました。
娘は領地へ帰った、と。
「名前を忘れられるたび、自分が少しずつ消えていくように感じるのだそうです」
王子さまは何も言えませんでした。
その夜、王子さまは眠れませんでした。
机の引き出しを開けると、たくさんの小さな紙が入っていました。
それは、王子さまがいつのころからか書きためていたものでした。
『雨の日になると、彼女は少し機嫌がいい。』
『シナモンを入れたお菓子は出さないこと。』
『本を返す前に、角が折れていないか確認する。』
『寒い日は右手を握ってやると喜ぶ。』
『笑うと右の眉が少し上がる。』
『私が王子ではなかったら何をしたいか、と聞いた。パン屋がいいと言ったら、朝が弱いから無理だと笑われた。』
何十枚。
何百枚。
そのどこにも、名前は書いてありませんでした。
けれど、王子さまはすべてが誰のことなのか分かりました。
翌朝。
やはり王子さまは彼女の名前を思い出せませんでした。
それでも馬を用意させました。
「どちらへ?」
従者がたずねました。
王子さまは答えました。
「私が毎朝名前を忘れる人のところへ」
伯爵家の領地までは、馬で三日かかりました。
一日目の朝も、王子さまは名前を思い出せませんでした。
二日目の朝も。
三日目の朝も。
それでも道は忘れませんでした。
彼女と話したことも忘れませんでした。
彼女を好きだということも、忘れませんでした。
四日目の昼すぎ。
王子さまは、小さな町の外れにある伯爵家の屋敷へ着きました。
庭には一本の大きな木がありました。
その木の下で、一人の娘が本を読んでいました。
王子さまは馬から降りました。
娘は顔を上げました。
驚いたように目を見開きました。
「どうして……」
王子さまは娘の前まで歩いていきました。
そして言いました。
「申し訳ない」
娘の顔が曇りました。
「今朝も、君の名前を忘れた」
「……そうですか」
「でも、君が雨の日を好きなことは覚えている」
娘が顔を上げました。
「君がシナモンを嫌いなことも、本の角が折れると悲しむことも、寒い日には右手から冷たくなることも覚えている」
王子さまは続けました。
「初めて会った日に、君が庭の隅で本を読んでいたことも覚えている。私が『人が嫌いなのか』と聞いたら、君は『一度にたくさんいるのが苦手なのです』と言った」
娘の目に、涙が浮かびました。
「君が笑うと、右の眉が少し上がることも知っている」
王子さまも笑いました。
「そして私は、君がいなくなった三日間、一度も君のことを忘れられなかった」
「でも……」
娘は小さな声で言いました。
「私の名前は、忘れるのでしょう」
「ああ」
王子さまは答えました。
「たぶん明日も忘れる」
風が吹きました。
木の葉が、さらさらと鳴りました。
「だから」
王子さまは、娘の前に片膝をつきました。
「明日の朝も、君の名前を教えてほしい」
娘は泣きながら笑いました。
右の眉が、ほんの少し上がりました。
「その次の日も?」
「ああ」
「そのまた次の日も?」
「何度でも」
王子さまは言いました。
「百回でも、千回でも。私が年を取って、君の名前以外のことまで忘れるようになっても、そのたびに教えてほしい」
娘はしばらく黙っていました。
やがて涙をぬぐうと、王子さまの前に立ちました。
「エリーゼです」
王子さまは微笑みました。
「エリーゼ」
「エリーゼ・リンドベルグです」
「ああ」
王子さまは、その名前を宝物のように口にしました。
「初めまして、エリーゼ」
娘は首を振りました。
「いいえ」
そして笑いました。
「おかえりなさい、王子さま」
それから一年後、二人は結婚しました。
結婚式の日の朝も、王子さまは花嫁の名前を忘れていました。
ですから花嫁は、白いドレスを着たまま王子さまの部屋へ行きました。
「おはようございます」
「おはよう」
王子さまは少し困ったように笑いました。
すると花嫁は、いつものように名乗りました。
「エリーゼです」
「そうだった」
王子さまは笑いました。
「おはよう、エリーゼ」
「はい。おはようございます」
その後、二人には子どもが生まれました。
王子さまはやがて王さまになり、エリーゼは王妃さまになりました。
年を取って、二人の髪が白くなっても、朝の挨拶だけは変わりませんでした。
「おはよう」
「おはようございます」
「それで……今日も教えてくれるかい」
「もちろんです」
王妃さまは笑います。
「エリーゼです」
「そうだった。エリーゼ」
王さまは毎朝、その名前を初めて聞いたように大切に呼びました。
そして、不思議なことに。
王さまは生涯、エリーゼの名前を覚えたまま朝を迎えることは、一度もありませんでした。
けれども。
彼女を愛していることを忘れた朝もまた、一度としてなかったのです。
だからこの国では、今でもこんな昔話が残っています。
人を愛するということは、その人の名前を覚えていることではありません。
その人が何を好きで、何を嫌い、どんなときに笑い、どんなときに寂しくなるのか。
それを、何度でも覚えていたいと思うことなのだ、と。
そして恋人たちは、ときどき冗談のようにこう言うのです。
「たとえ明日、あなたの名前を忘れても、もう一度あなたを好きになります」と。




