【1話完結】息子の部屋
空っぽの部屋
玄関に、知らない靴がある。
白いスニーカー。二十六センチくらい。
つま先に泥がついていて、左の踵がすり減っている。
よく履き込まれた靴だった。
私はしばらくそれを見つめてから、夫の靴の隣にきちんと揃え直した。
夫の仕事関係の誰かが忘れていったのだろう。
それ以上は考えなかった。
ただ、翌朝もその靴はそこにあった。
その翌日も。
* * *
息子が死んだのは、三年前の十二月だった。
佑太が事故に遭ったという電話を受けたとき、私は台所にいた。
まな板の上の人参を切る手が止まった。
電話口の声が何を言っているのか、途中から聞き取れなくなった。
音が遠のいていく。
水の底に沈んでいくように、すべてが輪郭を失っていった。
気がついたら、台所の床に座り込んでいた。
タイルが氷のように冷たかった。
コンロの上では鍋の湯がとうに蒸発して、焦げた匂いが喉の奥に張りついていた。
換気扇がごうごうと回り続けている。
まな板の上の人参の切れ端だけが、やけに鮮やかな橙色をしていた。
それからのことを、あまり覚えていない。
葬儀があったはずだ。弔問客が来たはずだ。
でも何ひとつ思い出せない。
佑太がいなくなったという事実だけが残って、それ以外の記憶は、焦げた鍋底みたいに黒く塗りつぶされてしまった。
* * *
佑太の部屋は、二階の廊下の突き当たりにある。
六畳の和室。
襖を開けると、かすかに埃っぽい空気と一緒に、息子の匂いがする。
汗と制汗剤が混ざった、男の子特有の匂い。
三年も経つのに、消えていなかった。
机の上には数学の教科書が開いたまま置かれている。
付箋が貼ってあって、佑太の丸い字で「ここテストに出る」と書いてある。
壁には海外のサッカー選手のポスター。
本棚には漫画と参考書が交互に詰め込まれていて、背表紙の高さがばらばらに波打っている。
私は毎晩、夫が寝静まった後にこの部屋に来る。
佑太のベッドに腰を下ろすと、スプリングが小さく軋む。
その音が、誰かを受け止めた音に似ていて、胸の奥がほんの少しだけ緩む。
暗闇の中で、佑太に話しかける。
「今日は寒かったね、佑太。お前の好きな肉じゃが、作ったよ。里芋も入れたの。前にお前、里芋だけ残して怒られたこと、覚えてる?」
返事はない。
当然だ。佑太は死んだのだから。
* * *
声が聞こえたのは、最初の冬が過ぎた頃だった。
いつものようにベッドに座っていた。
家の中は静まり返っている。
時計の秒針だけが、暗闇を規則正しく刻んでいた。
ひたり。
秒針の合間を縫うように、別の音が混じった。
ひたり。ひたり。
裸足で板の間を歩く音。
子供の足音ではない。もう少し重い。
けれど大人よりは軽い。
高校生くらいの――。
足音は、佑太の部屋の前で止まった。
指先が冷たくなった。
首の後ろに鳥肌が立つのがわかった。
夫はとうに寝ている。この家には私と夫しかいない。
「――お母さん」
掠れた、低い声。
声変わりした後の、あの不安定な音域。
喉の奥で少しだけ引っかかるような響き。
私は両手で口を押さえた。
指の隙間から嗚咽が漏れた。
怖くて泣いたのではない。
嬉しかったのだ。
胸の骨が軋むほど。
* * *
それから毎晩、佑太は現れた。
いつも同じだった。
私が部屋に入ってしばらくすると、廊下から足音が近づいてくる。
襖の向こうから、佑太の声が聞こえる。
「お母さん、今日何作ったの」
「部活でレギュラーになれそうなんだ」
「数学のテスト、ちょっとやばかった」
学校のこと。友達のこと。好きな女の子のこと。
他愛のない話ばかりだった。
私は相槌を打ち、笑い、ときに叱った。
暗闇の中で、ふたりだけの時間が流れた。
姿は見えなかった。
私は一度も襖を開けなかった。
開ければ、この奇跡は壊れる。
理屈はわからない。わかりたくもなかった。
息子の声が聞ける。それだけでよかった。
ただ、ひとつだけ腑に落ちないことがあった。
佑太の話す内容が変わっていくのだ。
友達の名前が増える。体育祭の話が出る。新しい先生が面白いと言う。
死んだ人間の日常が、なぜ更新されるのか。
私はその疑問に蓋をした。
考えれば考えるほど、何かが崩れそうな気がした。
* * *
夫には話さなかった。
話せるはずがない。
死んだ息子の声が聞こえるなどと言えば、何を思われるかわからない。
夫は佑太が死んでから、あまり感情を見せなくなった。
佑太の部屋に入ることもない。佑太の名前を口にすることもない。
食卓で向かい合っていても、まるでこの家に最初から二人しかいなかったかのように振る舞っている。
それが許せなかった。
だからこそ、この夜の時間は私だけのものだと思えた。
佑太が選んだのは私だ。
父親には聞こえない声が、母親の私にだけ届く。
その事実が、罪悪感に似た甘さで胸の中に広がっていた。
* * *
けれど、ある朝、私はこらえきれなくなった。
朝食の席だった。
夫が黙って新聞を読んでいる。
味噌汁を啜る音だけが食卓に響いている。
窓の外で鴉が一羽鳴いた。
その沈黙が、その朝に限って、どうしても耐えられなかった。
「あなた」
新聞の向こうから、夫が顔を上げた。
「佑太の声が聞こえるの」
心臓が跳ねた。
言ってしまった。
新聞を畳む乾いた音がして、箸が皿の縁に当たる小さな音がした。
「おかしいと思われるかもしれないけど」
俯いたまま、続けた。
味噌汁の椀を両手で包んでいた。
陶器越しに温度が伝わってくる。
その温かさにすがるように、指に力を込めた。
「毎晩、佑太の部屋にいると、聞こえるの。廊下から足音がして、襖の向こうから話しかけてくるの。学校のこととか、友達のこととか……。あの子は、まだあの部屋にいるの」
長い沈黙があった。
味噌汁の湯気が、ふたりの間でゆらゆらと揺れていた。
夫が何か言おうとして、息を吸い込んで、飲み込む気配がした。
ようやく夫が口を開いたとき、その声は思いのほか静かだった。
「ああ、そうだな。佑太はここにいるんだよな」
顔を上げた。
夫は新聞を脇に置いていた。
嘲笑はなかった。困惑もなかった。
ただ、奥歯を噛み締めるようにして、何かを堪えている顔だった。
「でもな」と夫は言った。
声が少し掠れた。
「声をかけるのは、やめないか」
一瞬、意味がわからなかった。
やめる。
佑太に話しかけるのを。
なぜ。
「なんで。やっと佑太とまた話せるようになったのに」
「お前の体が心配なんだ。毎晩眠れてないだろう。佑太のことは俺もわかってる。でも、お前まで――」
「頭がおかしいと思ってるんでしょう!」
気がつけば立ち上がっていた。
椅子が後ろに倒れて、フローリングに硬い音を立てた。
自分の声が台所に跳ね返って、耳の奥で割れた。
「佑太は生きてるの! ここにいるんだから!」
叫んだ瞬間、夫の目から涙がこぼれた。
声を上げたわけではなかった。
顔が歪んだわけでもなかった。
ただ静かに、音もなく、涙が頬を伝った。
食卓の向こうで、もう片方の手が味噌汁の椀を握りしめていた。
指の関節が白くなっていた。
「ああ……そうだな……」
掠れた声だった。
「そうだな……佑太は、いるんだよな……」
夫は私を哀れんでいるのだ、と思った。
妻が正気を失った。
死んだ息子の声が聞こえると言い出した。
その哀れみが涙になったのだ。
悔しかった。
私は正気だ。佑太の声は本物だ。
なのに夫は、壊れた人間を見る目で私を見ている。
それ以上、何も言えなかった。
* * *
その夜、いつもより早く二階に上がった。
夫に話したことを後悔していた。
佑太の声を聞けば楽になる。
ベッドに座って目を閉じた。
すると階下から、夫の声が聞こえてきた。
電話をかけている。
「……先生、すみません、夜分に」
先生。夫はどこか体が悪いのだろうか。
「今朝、家内が……ええ、佑太の声が聞こえると言い出しました」
耳を澄ませた。
夫の声は低く、壁と床板を伝って、途切れ途切れに届く。
「毎晩、二階で佑太に話しかけてるのは知ってました。でも今日、本人の口からはっきりと……声が聞こえる、佑太はここにいると」
私のことを、誰かに報告している。
胸の奥が冷たくなった。
「……ええ、もう三年です。……はい、状態は変わりません。むしろ……ええ、強くなっています」
しばらく相手の話を聞いているようだった。
沈黙の合間に、夫が鼻をすする音が聞こえた。
「薬を変えたほうがいいと思うんです。今のままでは……ええ、もう一年以上同じもので。先生、一度家に来ていただけませんか。家内は自分が病気だとは思っていませんから、病院には……」
薬。病気。病院。
息が詰まった。
夫は私を病気だと思っている。
佑太の声が聞こえると言った途端に、これだ。
やはり話すべきではなかった。
佑太を失った悲しみを、夫は「病気」と呼ぶのか。
息子の声を聞いて何が悪い。
母親が死んだ子供を想って何がおかしい。
おかしいのは、佑太のことを忘れたふりをして日常を続けている夫のほうではないのか。
私は耳を塞いだ。
もう聞きたくなかった。
しばらくすると、廊下から足音が聞こえてきた。
ひたり、ひたり。いつもの足音。
「佑太、おかえり」
暗闇の中で微笑んだ。
ほら、やはり佑太はここにいる。
夫が何と言おうと、医者が何と言おうと。
この声だけが、本物だった。
* * *
最近、部屋に入ると空気が違うことがある。
誰かがついさっきまでここにいた気配。
机の上の教科書の位置が数センチずれている。
本棚の漫画が一冊抜かれて、別の場所に差し込まれている。
ポスターの右下の角がめくれている。
夫だ。
夫が勝手にこの部屋に入っている。
佑太の場所を荒らさないでほしい。
ここは佑太が帰ってくる場所なのだ。
他の誰にも触らせたくない。
私はポスターの角を丁寧に戻し、教科書を元の位置に置き直した。
けれどその夜、ベッドに座った瞬間、シーツが微かに温かかった。
ついさっきまで、誰かがここに座っていたかのように。
* * *
今夜も佑太の部屋にいる。
十二月。
三年前と同じ季節が巡ってきた。
窓の外で風が鳴っている。
底冷えのする夜だった。
「佑太、今日はオムライス作ったよ。ケチャップで猫の顔を描くの、覚えてる? お前いつも目を横長にしろって言ったよね。私がまん丸に描くと、それ猫じゃなくてフクロウだって怒ったよね」
声はまだ聞こえない。
でも気配はある。
襖の向こうに、佑太がいる。
「お母さんは元気だよ。お父さんも、ちょっと疲れてるみたいだけど。大丈夫。だから佑太も――」
階下で、玄関の引き戸が鳴った。
冷たい外気が家の中に流れ込んでくるのが、二階にいてもわかった。
夫の低い声。
それに応える、聞き覚えのない落ち着いた声。
そして、もうひとつ。若い男の声。
三人分の靴が、玄関のたたきに置かれる音がした。
夫の客だろう。
今は佑太との時間だ。邪魔されたくない。
目を閉じた。
「佑太。佑太。お母さんはずっとここにいるよ。どこにも行かないからね」
* * *
階段の下、薄暗い廊下に三つの影が立っていた。
白髪交じりの男が、客人を居間に通した。
スリッパを出す手が、かすかに震えていた。
「先生、こんな遅くにすみません」
浩一は、三年前とは別人のように老けていた。
頬がこけ、目の周りに深い皺が刻まれている。
五十代半ばのはずが、遠目には老人に見えた。
往診鞄を抱えた初老の医師が、天井を見上げた。
二階から声が聞こえてくる。
穏やかな、優しい女の声。
途切れ途切れに何かを語りかけている。
応答はない。一方的な会話だった。
「浩一さん、奥さんは今も佑太くんに話しかけていますか」
「ええ。毎晩です。三年間、一晩も休んだことがありません」
浩一は目を伏せた。
「家内は息子が死んだと信じています。三年前の事故の電話を受けた日から、ずっと」
居間のソファに、二十歳前後の青年が座っていた。
痩せていた。顔色が悪い。
目の下の隈は、一晩や二晩の寝不足でつくものではなかった。
膝の上の両手を握りしめたまま、身じろぎもしない。
視線だけが、天井のほう――二階から漏れてくる声のほうに向いていた。
医師が青年に向き直った。
「佑太くん、お母さんの部屋に入ったとき、反応はどうでしたか」
佑太と呼ばれた青年は、すぐには答えなかった。
乾いた唇を何度か開きかけて、ようやく声を出した。
「昨日、入りました。お母さんがまだ下にいるうちに、自分の部屋に入って待ってたんです。お母さんが来たら面と向かって話せるかもしれないと思って」
「それで」
「お母さんが部屋に入ってきました。僕は部屋の真ん中に立ってました」
青年の喉が動いた。
「お母さんは僕を見なかったんです。僕の横を通り過ぎて、ベッドに座った。僕はすぐ目の前にいるのに。お母さんの目が、僕の体を通り抜けていった」
声が震え始めた。
「思わずお母さんの手を握りました。そしたら、すごい勢いで振り払われて。知らない人間に触られたみたいに体を強張らせて、怯えた目をして。でもその目は僕を見てなかった。僕の方向を見てるのに、僕を見てなかった」
浩一が息子の肩に手を置いた。
佑太はそれに構わず続けた。
「でも夜になると、お母さんは僕の名前を呼ぶんです。死んだ佑太に向かって、学校の話をして、昔の思い出を語って、おやすみって言う。僕がここにいるのに。生きてるのに。お母さんが話してるのは僕じゃないんです。お母さんの中にだけいる、死んだ佑太なんです」
涙が膝の上の手に落ちた。
拭わなかった。
「三年間、毎晩、あの廊下に立ってました。返事をしても届かない。いくら呼んでも、お母さんには聞こえない。お母さんが聞いてるのは、僕の声じゃない」
青年は顔を上げた。
目が赤かった。
「僕はこの家で、幽霊みたいに暮らしてるんです。生きてるのに」
居間に沈黙が落ちた。
二階から、まだ声が聞こえている。
浩一が口を開いた。
手が震えていた。
「先生、先日お電話したとき申し上げましたが……家内が自分から佑太の声が聞こえると言いました。佑太はここにいる、生きてると。俺は……何と言えばいいかわからなかった」
浩一は一度言葉を切った。
喉の奥で何かを飲み込むように顎を引いてから、続けた。
「俺は、声をかけるのはやめないかと言いました。そしたら家内は、頭がおかしいと思ってるんでしょうと。佑太は生きてる、ここにいるって」
浩一の声が詰まった。
「その通りなんです。全部正しいんです。佑太は生きてる。ここにいる。家内の言ってることは何ひとつ間違ってない。ただ、正しい理由が……違うだけで」
浩一は手の甲で目頭を押さえた。
「俺はあのとき泣きました。家内は、自分が正気を失ったことを俺が哀れんで泣いたと思ったはずです。壊れた人間を見る目で見ていると、そう言われました。でも違うんです。目の前に息子がいるのに、家内にだけそれが見えない。それがどうしようもなく……」
声が途切れた。
最後まで言えなかった。
医師は長い時間をかけて、言葉を選んだ。
「奥様は、事故の電話をきっかけに急性期に入られました。その際に形成された妄想――佑太くんが亡くなったという確信が、三年間揺らいでいません。佑太くんが目の前にいても、奥様の脳がその存在を受け付けない。認識の手前で遮断されています」
「幻聴も」
「夜ごと聞こえている声は、実際の佑太くんの声を脳が歪めて再構成したものか、あるいは完全な幻聴です。いずれにしても、奥様が対話しているのは現実の佑太くんではありません」
医師は二階を見上げた。
まだ声が聞こえている。
「投薬を再調整します。ただ――」
医師はそこで口を閉じた。
言わなくてもよいことだった。
三年。千日以上の夜。固まり続けた妄想。
浩一も佑太も、その先に何が続くかを知っていた。
沈黙を破ったのは、二階から降ってきた声だった。
「佑太、おやすみ。また明日ね」
穏やかで、幸せそうな、母親の声だった。
まるで隣に息子がいるかのように、温かく、安らかな声だった。
佑太は両手で顔を覆った。
嗚咽が、指の隙間から漏れた。
浩一は壁に手をつき、背中を丸め、声を殺した。
医師だけが、二階へ続く暗い階段を見上げていた。
そこにいるはずの女は、鍵穴のない部屋の中で、今夜も息子に微笑んでいた。
(了)




