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【1話完結】【すぐ読める!】現代ホラー短編集  作者: somari


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【1話完結】パラレルワールド

天井の染みがない。


目を開けて、少しだけ違和感があった。

枕元の真上に、コーヒーをこぼしたような茶色い染みがあったはずだ。

毎朝、目が合うようにして一日が始まる。あの染み。


ないな、と思った。


隣で妻がまだ眠っている。

起こさないように布団を出て、廊下に出た。


息子の部屋の前を通ると、ドアの隙間から小さな寝息が聞こえた。

五歳の息子は、いつも布団を蹴飛ばして丸くなっている。

直してやりたかったが、ドアを開ける音で起こしてしまう。

そのまま台所へ向かった。


冷蔵庫を開けると、バターがあるべき場所にマーガリンが入っていた。


俺はマーガリンを買わない。

子供の頃に母に発癌性があるから食べるなと言われて以来、

一度も手に取ったことがない。


妻が間違えて買ったんだろう。

なのに容器は半分ほど使いかけで、蓋の裏にバターナイフの跡がついていた。

少し気になったが、寝ぼけているのかもしれない。

パンを焼く気がなくなって、そのまま家を出た。


電車の広告に表示された日付は、三月十五日木曜日。


昨日は木曜日だった。

残業して、コンビニで弁当を買って、風呂に入って寝た。

今日は金曜のはずだ。


スマートフォンを取り出した。

画面にも「木曜日」。


……一日寝過ごしたのか?

いや、それなら金曜を飛ばして土曜になるはずだ。

意味がわからない。疲れてるのかもしれない。


会社に着くと、同僚の高橋が声をかけてきた。


「おはよう。昨日の飲み会、二次会まで悪かったな。大丈夫か?」


飲み会。

俺は昨日、残業していた。飲み会になど行っていない。


でも高橋の顔は冗談を言っている感じではなかった。

本気で心配している目をしていた。


「……ああ、ちょっとな」


曖昧に笑ってやり過ごした。

記憶違いなんだろう。俺の方が、何か忘れているだけだ。きっとそうだ。


デスクに座ってパソコンを起動した。

デスクトップに見覚えのないファイルが三つ並んでいる。

「新規企画_最終版_v3」「田中様_修正案」「議事録_0312」。


誰かが間違えたのかと思って開いた。

文体が俺だった。

改行の癖。読点のあとに一字分空ける、誰にも指摘されたことのない俺だけの癖。


いつ作ったんだろう。

思い出せない。たぶん急ぎで作って忘れたんだ。最近忙しかったし。


ファイルを閉じた。


何かがおかしい気はする。

でも「何が」と聞かれたら答えられない。

染みが消えた。マーガリンがあった。曜日がずれている。飲み会の記憶がない。ファイルが増えている。

どれも、一つ一つは大したことではない。

疲れている。きっと、ただ疲れているだけだ。


帰り道、コンビニに寄った。

いつも買う幕の内弁当を探したが、同じパッケージのものが見当たらなかった。

リニューアルしたのかもしれない。似た弁当を手に取って、レジに向かった。


その夜、布団に入ったとき、少しだけ目が冴えた。

今日一日のことを思い返すと、小さな引っかかりが多すぎる。


でも妻の寝息が聞こえる。

廊下の向こうで息子が眠っている。

明日になれば、全部元に戻っているだろう。


そう思って、目を閉じた。





階段が逆だった。


朝、部屋を出てアパートの階段に向かったとき、足が壁にぶつかった。

三年間、毎日右に曲がって昇り降りしていた階段が、左回りになっている。

身体が覚えている方向と、目の前の階段の構造が、噛み合わない。


昨日の違和感が、一気に輪郭を持った。


天井の染み。マーガリン。曜日。飲み会の記憶。知らないファイル。

あれは疲れのせいではなかった。

何かが、根本から変わっている。


廊下に出ると、隣の部屋のドアが開いた。


知らない女が立っていた。


昨日までこの部屋にいたのは藤原さんという同い年くらいの女性で、ゴミ出しのたびに顔を合わせ、冬にはたまに鍋の具材を分け合うような仲だった。


知らない女が、こう言った。


「おはようございます。昨日のお鍋の土鍋、洗って返しますね」


顔が違う。

声が違う。

背丈も髪の長さも何もかも違う。


なのにこの女は当然のように俺の名前を呼び、鍋を分け合った記憶を持っている。


「……ああ、いつでも」


自分の声が遠くから聞こえた。

女はにこりと笑って部屋に戻った。


ドアが閉まる直前、部屋の中に猫が見えた。

藤原さんは猫を飼っていなかった。

——飼っていなかったはずだ。


その夜、眠れなかった。

眠ったらまた変わる。

その確信がどこから来るのかわからないが、身体がそう言っていた。


染みのない天井を、朝まで見ていた。





結局、朝まで眠らなかった。眠れなかった。


台所から音がした。

起き上がって寝室のドアを開けると、知らない女がフライパンを振っていた。


妻ではなかった。


背格好は似ている。

だが髪の分け目が逆だった。

耳の形が違った。

フライパンを持つ手が左手だった。


妻は、右利きだ。


「あ、起きた。目玉焼き、醤油でいいよね?」


妻の声ではない。

少しだけ高い、少しだけ柔らかい声。

なのに俺が目玉焼きに醤油をかけることを知っている。


テーブルにはコーヒーが二つ。

俺のマグカップと、見たことのない花柄のマグカップ。


妻のマグカップは紺色の無地だった。


「どうしたの、ぼうっとして」


女が笑った。

何年も一緒に暮らしてきた人間にしか出せない、無防備な表情があった。


椅子に座った。

目玉焼きに醤油をかけた。

箸を持つ手が震えないように、意識して力を入れた。


「おいしい?」


「……うん」


写真立てに目が行った。

知らない女と俺が笑っている写真が、ちゃんとそこにあった。


この女は俺の妻ではない。

だがこの世界では俺の妻だ。

「おまえは誰だ」と聞いて、それからどうなる。


俺にはそれが言えなかった。


洗面台で顔を洗った。

鏡の中の左頬に、小さなほくろがあった。


昨日まではなかった。


天井が変わった。

隣人が変わった。

妻が変わった。

今度は、俺自身が書き換えられ始めている。





次の朝は、静かすぎた。


目を覚ましたとき、まず音の不在に気づいた。


いつもなら聞こえるはずの音。

息子が早起きしてリビングでブロックを積む音。

テレビの幼児番組の音。

小さな足が廊下を走る音。


それが、ない。


息子の部屋のドアを開けた。


部屋だったものは、そこにはなかった。


六畳の空間にスチールラックが三つ並び、段ボール箱が積まれている。

納戸だった。

窓際に置いてあった小さなベッドがない。

天井から吊るしていた紙飛行機のモビールがない。

壁に貼っていた、息子が描いたクレヨンの絵がない。


何もない。

最初から何もなかったように、整然とした物置がそこにあった。


台所に戻った。

昨日の女が——この世界の妻が、コーヒーを淹れていた。


「……なあ」


「ん?」


「ユウは」


女がこちらを見た。

不思議そうな顔だった。


「ゆう?」


「ユウだよ。ユウキ。……息子の」


言葉が途中で止まった。


女の目に浮かんだのは、困惑だった。

嘘をついている顔ではない。

隠している顔でもない。

本当に、何を言われているのかわからないという顔だった。


「子供って、何の話?」


女が少し笑った。

冗談だと思っている。


「もう、変なこと言わないでよ。二人とも寝坊したんだから、急がないと」


二人。

俺と、この女の、二人。


食卓のマグカップは二つしかない。

息子の小さな黄色いコップが、どこにもない。

靴箱を開けた。小さな運動靴がない。

冷蔵庫のドアに貼ってあったはずの幼稚園のプリントがない。

風呂場の低い位置にあった小さな椅子がない。


世界から、五年分の痕跡が丸ごと消えていた。


俺の子供がいた証拠が、どこにもない。


女が背後から肩に触れた。


「ねえ、本当にどうしたの。顔、真っ青だよ」


知らない女の手が、肩の上で温かかった。

振り払えなかった。

この世界には、この手しかない。





次の朝、女はいなかった。


目を覚ますと、ベッドの半分が冷えていた。

冷えていたのではない——最初から誰も寝ていなかった。

シーツに皺ひとつなかった。

枕はひとつしかなかった。


起き上がって部屋を見渡した。


クローゼットを開けた。俺の服だけが掛かっている。

洗面台に歯ブラシは一本。

靴箱には俺の靴だけ。


台所の食器棚にマグカップが一つ。

花柄でも紺色の無地でもない、どこで買ったのかもわからない白い無地のマグカップが、一つだけ。


壁の写真立てがなくなっていた。

写真立てがあった場所だけ壁紙が微かに白い。


俺は、一人暮らしをしていた。


この世界の俺は結婚していない。

妻も、息子も、最初からいない。

誰かと暮らした形跡が、この部屋のどこにもない。


テーブルの上に郵便物があった。

宛名は俺の名前。住所はここ。

一人宛ての、一人分の公共料金の請求書。


椅子に座った。

座って、動けなくなった。


怖いのは、この孤独ではなかった。

怖いのは、この孤独に慣れてしまいそうな自分だった。


妻の紺色のマグカップ。花柄のマグカップ。息子の黄色いコップ。

それらを思い出すたびに、記憶の輪郭が少しずつ薄れていくのがわかる。


あの朝の目玉焼き。

ブロックの音。

クレヨンの絵。


それは本当にあったことなのか。


外に出た。

鍵を確認した。銀色の鍵。

ポケットに入れて、歩き始めた。





翌朝、自分のアパートの前に立って、鍵穴に鍵を差し込んだ。


合わなかった。


前日まで開いたのと同じ鍵、同じドア。

なのに噛み合わない。

もう一度試した。

三度目に、ゆっくりと手を下ろした。


ドアの横の表札を見た。

知らない名前が書かれていた。


郵便受けを覗いた。

俺の名前ではない宛名の封筒が入っている。

ここには、俺ではない誰かが住んでいる。


会社に向かった。

しかし、自動改札で定期券が弾かれた。


券面を見ると、名前が違っていた。

この世界では最初からこの名前なのだろう。

だがそれは俺の名前ではない。


会社に歩いて向かった。

受付で名前を告げた。自分の名前を。


受付の女性がパソコンの画面をしばらく見つめてから、申し訳なさそうに首を傾げた。


「すみません、そのお名前では該当する社員が見つからないのですが……」


社員証を出そうとしてポケットを探った。なかった。

財布を開いた。

免許証の顔写真は俺だが、名前が違う。

知らない名前だった。

生年月日も住所も、何もかも覚えのないものだった。


俺の名前が、世界のどこにも残っていない。


会社を出た。

出たというより、追い出されたのかもしれない。

受付の女性は最後まで丁寧だったが、その丁寧さが余計に痛かった。


不審者に向ける優しさだった。


街を歩いた。

見覚えのある通りのはずだが、角を曲がるたびに知らない店が増えていく。

もう何が変わって何が変わっていないのか、区別がつかない。


妻が変わった。

子供が消えた。

結婚が消えた。

そして今——俺という人間がこの世界に存在した痕跡そのものが、なくなった。





公園のベンチに座った。


ポケットの中を全部出した。

銀色の鍵。知らない名前の免許証。知らない名前の定期券。千円札が三枚。


それだけだった。

俺が俺であることを証明するものが、何ひとつない。


ここが異世界だと言い張るための根拠は、もう記憶しかない。

だがその記憶も、朝ごとに輪郭を失っていく。


天井の染み。

バター。

右回りの階段。

藤原さんの笑顔。

紺色のマグカップ。

目玉焼きに醤油をかける右利きの妻。

ブロックを積む息子の背中。


全部、本当にあったのか。

あったとして、それはどの世界の出来事だったのか。


明日の朝、また目が覚めたら——もし、目が覚めたら——今度は何が消えているのだろう。

昨日まで確かに存在したはずの記憶が、また一つ、初めからなかったことになるのだろう。


いつか、最後の記憶が消える。


そのとき俺は、自分が何かを失ったことすら忘れて、知らない名前で知らない場所に立っている。


それが怖いのではない。

そうなったとき、怖いと感じる俺がもういないことが、怖い。



隣に、人の気配がした。


男がベンチに座っていた。

俺と同じ顔だった。

ただし左の頬にほくろはなく、薬指に銀色の指輪が光っていた。


男の手が震えていた。

膝の上で拳を握っている。


男がこちらを向いた。

口を開きかけて、閉じた。

その目には、すべてを失いかけている人間の色があった。


俺も何も言えなかった。


この男はまだ、誰かの夫なのだろうか。

まだ、どこかの世界で父親なのだろうか。

——だがそれを聞くことはできない。

答えがどうであれ、俺の世界は戻らない。


男がゆっくりと自分の頬に触れた。

ほくろがないことを確かめるように。

その指先は、まだ覚えていることを確認しているように見えた。


日が沈んだ。


ベンチには同じ顔をした二人の男が残された。

片方には指輪があり、片方にはなかった。

どちらも、ここがどこなのか知らない。


やがて街灯が点いた。

男の横顔を照らしたその光の中で、俺はふと、自分の手を見た。


薄くなっている気がした。



(了)

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