第8回 張郃、転機が訪れる
西暦一八九年(中平六年)、霊帝が崩御し、少帝が即位した。それに伴い、少帝の母である何皇后の兄である「何進」が外戚として、大将軍になり、権力を握った。
これを契機に、宦官の専横を苦々しく感じていた、名士袁氏の「袁紹」と「袁術」は、何進に宦官の一掃を提言した。
何進は乗り気であったが、妹の何皇后の協力が得られず、計画実行は難航し、逆に宦官の反撃にあい、何進はあっさりと暗殺をされてしまうのである。
これに激怒したのが、先の袁紹と袁術である。
大将軍何進の敵討ちを大義名分として宮中に乱入、宦官を二〇〇〇人以上、殺害したのである。
しかし、討ちもらした宦官の権力の中枢である「十常侍」の「張讓」他生き残った宦官は、少帝とその弟の陳留王を城外に連れ脱出した。
そこで董卓の軍と遭遇し、宦官たちは自殺に追い込まれた。そして、董卓は少帝と陳留王を擁して洛陽入城を果たすのである。これで、権勢の全ては董卓の手に帰すことになる。
そして、宦官の大虐殺を主導した袁紹は、ひとまず冀州牧の韓馥の所に身を寄せたのである。
韓馥としては、窮鳥懐に入るということで名家の出身である袁紹の支援を惜しまなかった。
しかし、風向きが変わる。主客逆転、多くの名士や豪族たちが冀州牧にふさわしいのは、四世三公の家柄である袁紹ではないか、ということになってしまったのである。
なんと、韓馥はこの圧力に屈してしまい、冀州牧の位を袁紹に譲り渡したのである。
張郃はどうしたか。結論から言えば、そのまま袁紹軍に編入され、「校尉」に任命された。校尉は、将軍の下につくが、独立した指揮官なので、司馬よりは出世したことになる。数百人から千人程度の指揮官と思えばよい。
冀州出身の張郃から言えば、名族である袁紹の下で働けるというのは、非常に喜ばしいことであった。そして、張郃は武官としての才能を、大きく開花させることになるのである。




