第16回 張郃、張遼の働きに舌を巻く
烏桓の動員した兵力は、実に一〇万以上の大軍であった。
曹操は軍師の「郭嘉」の進言に従い、この戦の要諦は「神速」、つまり速さで決するとして、騎兵を主力とした精鋭二万で戦いを挑んだ。
烏桓も騎兵戦を得意とするため、曹操軍の迎撃に選んだのは、「白狼山」付近に広がる大平原であった。
曹操軍はひた走りに走り、疲労困憊を究めていたが、白狼山に到着すると、烏桓はまだ布陣を終えていなかった。
郭嘉が曹操に進言する。
「これぞ好機。こちらもつらい所ですが、ここは叩くときです。」
郭嘉は、いつもより青白い顔をし、呼吸も荒く、誰の目から見ても体調が芳しくないのがわかったが、力強く提言をした。曹操は、この提言に従い、「張遼」に突撃を指示した。
すると、まさかすぐに曹操軍が突撃してくると思っていなかった烏桓軍は大混乱に陥り、散り散りになり逃げだしたのである。
張郃は高覧と共に後詰として、重装歩兵で進軍、逃げ遅れた烏桓の兵を次々と屠り、降伏する者に関しては捕縛をした。もちろん、当時は貴重であった馬の確保も忘れなかった。
先鋒の張遼は大功を挙げる。
なんと、烏桓単于の「蹋頓」を討ち取ったのである。
これで完全に勝負は決した。
袁尚と袁煕は、更に遼東に逃亡を図るが、曹操からの報復を恐れた公孫康に殺されてしまい、その首は曹操に届けられたのである。
こうして、曹操軍による袁紹軍の掃討戦は、ここに終わりを迎え、河北一帯は完全に曹操の支配下となったのである。
ただ、一つの大きな不幸があった。
白狼山で勝利をおさめて帰路についたそのとき、郭嘉が病死をしてしまったのである。享年三八歳の早すぎる死であった。曹操は郭嘉の死を知ると、人目を憚らず号泣した。
「哀しすぎるぞ奉孝、痛ましいぞ奉孝、あまりにも惜しいぞ奉孝よ」とその死を心から嘆いたのである。
西暦二〇七年(建寧一二年)のことであった。
この白狼山の戦いは、郭嘉の献策と、張遼の凄まじいほどの武力で勝利を決したのである。
張郃は、張遼の後詰として働いたが、この時、張遼の背中から溢れ出る闘気と働きぶりをみて、いずれは一緒に戦ってみたい、と強く思う様になったのである。




