第11回 張郃、公孫瓚戦で活躍をする(後)
界橋の戦い以後、公孫瓚と袁紹の明暗はくっきりと分かれる。
まず、公孫瓚であるが、界橋の戦いに負けた直後に、幽州牧の「劉虞」を殺害して、幽州全体を押さえることに成功した。しかし、そのやり方は民の支持を得られず、各地で反乱がおこった。
特に、劉虞の部下であった「鮮于輔」の反乱における敗北で、大きく勢力を削られることになり、公孫瓚は以後、易京城に籠城して、防御に専念することになった。
一方、袁紹であるが冀州の地盤を着実に固めていた。
曹操との対立関係が生じてきたが、まずは公孫瓚を討ち取り、北方の安定を最優先する作戦を取った。
その結果、袁紹は易京城の包囲戦を行うことを決断した。
公孫瓚は易京城にこもるだけで何ら策はなく、信用できるかどうかもわからない旧知の者たちに対し、援軍を要請する書面を送ったが、その書面は袁紹の手に渡り、袁紹はこれを利用して「援軍来たる」と公孫瓚に思わせ、城外に出てきたところを散々に討ち破った。
そして士気が完全に衰えてきたところに、易京城の城下に通じる地下道を作って侵入し、勝利を得た。
公孫瓚は妻子を殺して、自らは城内に火を放って自害した。
こうして、公孫瓚を亡き者とし、袁紹は幽州を自領に組み入れ、河北の統一に成功したのである。
ここまで、実に七年間を要した。公孫瓚が決して凡将でないことがわかるであろう。公孫瓚には参謀格の部下が見当たらないが、それはやはり、「名士層」を弾圧する側であった事が最大の原因であろう。もし、公孫瓚が名士層とのつながりを大切にしていたのならば、袁紹による華北の統一にはさらに時間を要したか、もしかしたら、逆に追い込まれる可能性もあったと言えよう。
さて、この七年間の張郃の活躍はどうか。
まず、劉虞の部下であった鮮于輔の反乱を積極的に後押しして、ともに同じ戦線で戦った。この共闘で、公孫瓚は、易京城での籠城戦を選択せざるを得ない状況になった。
そして、「援軍来たる」の偽の書面でつり出された公孫瓚軍の側面を徹底的に突いて、壊滅的な打撃を与えた。
更には、地下道を掘って城内に突入する作戦の時は、「田豊」の献策をよく理解し、率先して地下道の掘削につとめた。
張郃は、重要な局面で確実に戦功を挙げ続けた。
そして、その存在は袁紹軍になくてはならないものとなったのである。




