第10回 張郃、公孫瓚戦で活躍する(前)
反董卓連合軍解散後、諸侯は自分の本拠地へと戻った。
ここから本格的な、群雄割拠時代の幕開けとなる。
まず、袁紹と袁術という「兄弟対決」が行われた。
袁術はもともと、袁紹の母親は妾であると言って、正当な血筋とは認めていなかった。それが、連合軍の盟主の座にも袁紹が座り、憤懣やるかたない状況となった。
そういう話が袁紹の耳にも入り、袁紹が袁術の支配地域である 汝南に侵攻したのである。
小競り合いが続いたが、ここで悲劇が起きる。
この当時、公孫瓚と袁紹は同盟関係にあり、その証として公孫瓚軍から、従弟の「公孫越」がこの戦に参加していた。
しかし、あろうことか公孫越は戦死してしまったのである。
このことに激怒したのが公孫瓚で、袁紹との同盟を破棄し、冀州への侵攻を開始したのである。
これが世に言う「界橋の戦い」である。
先手を打ったのは公孫瓚である。
歩兵三万と、白馬でそろえた騎馬隊一万「白馬義十」の合計四万の大軍で冀州に侵攻した。
この当時の袁紹の兵力はそれほど多くなく、冀州に点在する小城は次々と公孫瓚に降伏していった。
そして「界橋」にて、両軍が激突する。
公孫瓚は白馬義十を前面に押し出し、正面突破を試みる。
一方、袁紹軍は猛将「麴義」を先鋒に配置した。
麹義は布陣を、対騎馬戦に有利な陣形に整えた。
まず、大盾をもった歩兵を密集させて固い壁を作った。そして、その後方に弩兵を配置し、騎馬が突撃してきたところを押さえ、騎兵を射って倒すという作戦であった。
この作戦は功を奏し、公孫瓚自慢の白馬義十はその突破力を発揮することが出来なかった。
その隙を張郃は見落とすことなく突撃を敢行し、公孫瓚軍に甚大な被害を与えるに至ったのである。
この戦いの一番手柄は当然に麹義であるが、張郃の戦功もそれに次ぐ評価を受けることになり、「寧国中郎将」という、将軍格に任命をされたのである。
そして、張郃はこれ以後も、戦功を積み重ねていくのである。




