押入れの王国
第一章 雨の日の押入れ
その日、雨は朝から降りつづいていた。 細かい雨が窓をたたき、外の景色は白くにじんで見えた。
風太は畳の部屋で、あおむけに寝転がっていた。天井の木目を数えるのにも飽きて、何度目かのため息をつく。テレビはついていたが、音は小さくされていて、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
「つまんないね」
そう言ったのは、妹のハヤテだった。 風太より三つ年下で、まだ前歯が一本だけ抜けている。
「雨だからね」
風太はそう答えたが、本当は雨のせいだけじゃないことを知っていた。最近、ママもパパも忙しくて、二人はこの部屋にいる時間が増えていた。
ハヤテはクレヨンを床に並べて、ぐるぐると円を描いていた。赤、青、黄色。色はきれいなのに、顔は少しつまらなそうだった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「押入れ、あけていい?」
風太は一瞬、黙った。 押入れは、なんとなく開けない場所だった。怒られるとか、危ないとか、そういう理由じゃない。ただ、開けると空気が変わる気がした。
「ちょっとだけなら」
風太が立ち上がり、押入れの戸に手をかける。 その瞬間、ハヤテはぴたりとクレヨンを置いた。
ぎい、と音を立てて戸が開く。
中には、いつもの布団がしまわれているはずだった。 でも、その奥は、やけに暗くて、深かった。
「……こんなに、奥あったっけ」
風太が顔を近づけると、ひんやりした風が頬をなでた。 押入れの中から、外とは違う匂いがした。土と草が混ざったような匂い。
「ねえ」
ハヤテが、少し小さな声で言った。
「なに?」
「中、動いてる」
風太は目を凝らした。 暗闇の向こうで、何かが揺れている。布団じゃない。影でもない。
そのとき、足元の畳が、すうっと遠のいた。
「え?」
声を出す間もなく、体が前に引っ張られる。 風太はとっさに押入れの縁をつかもうとしたが、指は空をつかんだ。
「お兄ちゃん!」
ハヤテの声がして、次の瞬間、二人は一緒に落ちていた。
――と思ったのは、ほんの一瞬だった。
どん、と足の裏に衝撃があり、風太は思わず尻もちをついた。 目を開けると、そこは畳の部屋ではなかった。
青い空が、どこまでも広がっていた。
第二章 どうぶつたちの行進
風太が最初に気づいたのは、音だった。 ざわざわ、ざわざわと、風が草を揺らすような音。でも、風だけじゃない。何かが、たくさん動いている。
「……ハヤテ?」
声を出すと、すぐ横から「いるよ」と返事がした。 ハヤテは、少しだけ泥のついた手で、風太の服のすそをつかんでいた。
二人の足元には、やわらかい草が広がっていた。寝転ぶと、そのまま眠ってしまいそうなほど気持ちがいい。遠くにはなだらかな丘がつづき、その向こうに、白い城が見えた。
「お城だ」
ハヤテが目を輝かせる。
「ほんとだ……」
風太は立ち上がった。 その瞬間だった。
草の向こうから、何かが現れた。
最初に見えたのは、赤茶色のしっぽだった。 ふさふさで、ゆっくりと揺れている。
「……動物?」
レッサーパンダだった。 二本足で立ち、胸を張って歩いてくる。首には、小さな鈴のついた飾りを下げていた。
その後ろから、さらにたくさんの動物が続く。 シカ、サル、鳥、そして――
「ラ、ライオン……?」
大きなたてがみをもったライオンが、堂々と歩いていた。 その横には、灰色の体の象が、地面をゆっくり踏みしめている。
風太は思わず一歩、後ずさった。
「ここ、どこ?」
ハヤテの声は、小さく震えていた。
レッサーパンダが、二人の前でぴたりと止まった。 そして、深くおじぎをした。
「ようこそ、王よ」
「……え?」
風太は、自分の後ろを振り返った。 誰かいるのかと思ったが、そこには草原しかない。
「ち、ちがいます」
あわてて手を振る。
「ぼく、王じゃないです。ただの……」
「お名前は?」
レッサーパンダは、にこりと笑った。
「……風太」
「では、王・風太様」
ざわっ、と空気が動いた。 動物たちが、一斉に頭を下げたのだ。
その音は、雨が一気に地面に落ちるみたいだった。
「ちがうってば!」
風太の声は、広い草原に吸い込まれていく。
ライオンが一歩、前に出た。 低く、よく通る声で言う。
「王は、選ばれた。理由はあとで話そう」
「勝手に決めないでよ!」
そう言った風太の体が、ふわりと浮いた。
「わっ!」
象の長い鼻が、そっと風太を持ち上げたのだ。 怖いはずなのに、乱暴さはまったくなかった。
「だいじょうぶ」
象が言った。
「落としたりは、しない」
気がつくと、風太は動物たちの肩の上にいた。 行進が、始まる。
「お兄ちゃん!」
ハヤテが追いかけようとしたが、レッサーパンダがやさしく止めた。
「妹君は、こちらへ」
ハヤテは不安そうに風太を見た。 風太は、精いっぱいの声で叫んだ。
「だいじょうぶだから! はなれないで!」
行進は、城へ向かって進んだ。 草原の道は、歩くたびに形を変え、まるで道そのものが生きているみたいだった。
城の門が開くと、ひんやりした空気が流れ出てきた。 中は広く、天井は高く、壁には動物たちの絵が描かれている。
風太は玉座の前に降ろされた。
「ここに、座ってください」
レッサーパンダが言う。
「すわらない」
即答したが、後ろからライオンの影が伸びた。
「王は、王座に」
声は静かだったが、逆らえない感じがした。
風太は、しぶしぶ座った。
すると、不思議なことが起きた。 体にぴったり合う高さで、重さもない。まるで、最初から自分のために作られていたみたいだった。
そのとき、レッサーパンダが言った。
「この国は、長いあいだ、王を待っていました」
「なんで、ぼく?」
風太の問いに、象が答える。
「王国は、忘れられかけている」
「……え?」
「だから、覚えている者が、必要なのです」
意味は、まだよくわからなかった。 でも、胸の奥が、少しだけざわついた。
一方そのころ、ハヤテは別の通路を歩いていた。
白い床、光る壁。 小さな動物たちが、ちょろちょろと先を歩く。
「こっちだよ」
「こっち」
案内されるままに入った部屋には、鏡がたくさんあった。
「わあ……」
いつのまにか、ハヤテはやわらかいドレスを着せられていた。 鏡に映る自分は、知らない子みたいだった。
「王の妹様」
そう呼ばれたとき、胸が少しだけ、あたたかくなった。
そのあたたかさが、あとで違和感に変わるなんて、 このときのハヤテは、まだ知らなかった。
第三章 王さま風太
玉座に座ったまま、風太はしばらく動けなかった。 広い広間の真ん中で、動物たちが円を描くように並んでいる。どの目も、まっすぐ風太を見ていた。
「……立ってもいい?」
そう言うと、レッサーパンダが小さくうなずいた。
「王は、自由です」
風太は立ち上がった。 足が少し震えていたが、誰も笑わなかった。
「ぼくは、王じゃないよ」
今度は、はっきり言った。
「家があるし、学校もあるし、妹だって――」
「その妹君こそが」
象のモーンが、静かに口を開いた。
「この国に必要な、もうひとりです」
風太は言葉につまった。
ライオンのグラウが、一歩前に出る。
「王の役目は、戦うことではない」
「じゃあ、なに?」
「守ることだ」
広間の奥の扉が開いた。 そこから見えたのは、城の外だった。
草原、森、川、そして遠くに見える、ぼんやりとした影。
「あれは?」
風太が指さす。
「消えかけている場所です」
モーンが答えた。
「この国は、もともと、ああした場所の集まりでした」
レッサーパンダのポポが続ける。
「誰にも呼ばれなくなった名前。 もう使われない道。 それでも、確かにあったもの」
風太は、胸の奥がきゅっとなった。 なぜか、押入れの暗さを思い出した。
「王がいるあいだ、この国は形を保ちます」
「じゃあ、王がいなくなったら?」
少し沈黙が流れた。
グラウが低く言う。
「また、しまわれる」
風太は、ぎゅっと拳を握った。
「じゃあ……ぼくがここにいれば、みんな大丈夫なの?」
動物たちは、一斉にうなずいた。
その日から、風太の「王さまの時間」が始まった。
朝になると、ポポが今日の予定を持ってくる。 森の道が消えかけているとか、川の名前が忘れられそうだとか、そんな報告ばかりだった。
「名前を呼ぶんだよ」
ポポは言った。
「王が呼べば、残る」
風太は、森の前に立ち、声を出した。
「……この森は、ここにある」
すると、木の色が少しだけ、はっきりした。
うれしくなって、次の日も、その次の日も、風太は呼びつづけた。
守れることが、少しうれしかった。
でも、夜になると、ハヤテの顔が浮かんだ。
「元気かな……」
別の場所で、ハヤテは、ちがう時間を過ごしていた。
第四章 王の妹ハヤテ
ハヤテの部屋は、ふわふわしていた。 床も、椅子も、カーテンも、どこもかしこもやわらかい。
「かわいいね」
「すてきだね」
小さな動物たちが、ドレスのすそを整えてくれる。
ハヤテは、くすぐったそうに笑った。
お菓子はいつも用意されていた。 お話も、歌も、止まらなかった。
それなのに、ときどき胸が、すうっと冷える。
「ねえ」
ある日、ハヤテは聞いた。
「わたしのおうちって、どこ?」
動物たちは、顔を見合わせた。
「ここですよ」
そう言われて、ハヤテはうなずいた。 でも、なにかが、足りない。
夜、ひとりになると、知らない夢を見る。 白い天井、畳、雨の音。
「……ママ?」
名前を口にした瞬間、胸がぎゅっとした。
ハヤテは、自分の服のポケットに手を入れた。 そこに、小さな包みがあった。
クッキーだった。
半分だけ、かじる。
甘さといっしょに、いろんなものが戻ってきた。 ママの声、パパの手、風太の背中。
「帰らなきゃ」
その言葉は、小さかったけれど、確かだった。
第五章 忘れられていく世界
風太は、ある朝、城の窓から外を見て気づいた。
空の色が、少し薄い。
昨日まではもっと青かったはずなのに、今日は絵の具を水でのばしすぎたみたいだった。雲も、形がはっきりしない。
「……ポポ」
レッサーパンダのポポは、いつもの笑顔を作って近づいた。
「なんでしょう、王」
「この国、ちょっと変じゃない?」
一瞬だけ、ポポのしっぽの動きが止まった。
「お気づきになりましたか」
風太は胸がざわついた。
「ぼくがいるのに?」
「いるから、です」
ポポは窓の外を見た。
「王がいるあいだ、この国は保たれます。 でも同時に、王がここに“慣れて”しまうほど――」
「ほど?」
「帰る理由が、薄くなってしまう」
その言葉は、風太の胸に引っかかった。
その日、風太は森へ向かった。 いつもなら、名前を呼べば色づく木々が、今日は少し遅れて反応した。
「この森は、ここにある」
声を出す。 返事は、弱かった。
風太は、急に怖くなった。
「ねえ、グラウ」
城へ戻り、ライオンの将軍に声をかける。
「ぼく、いつまでここにいればいい?」
グラウは答えなかった。 長い沈黙のあと、低い声で言った。
「王がいなくなった国は、消える」
「……それでも?」
「それでも、守る」
それが、グラウのすべてだった。
一方そのころ、ハヤテの世界は、逆に色を取り戻し始めていた。
ドレスの部屋は、まだきれいだった。 でも、ハヤテには、もう「閉じた箱」に見えた。
「お兄ちゃんに会わせて」
そう言うと、動物たちは困った顔をした。
「今は……」
「だめ?」
ハヤテはクッキーの袋をぎゅっと握った。
「帰らないと、だめなの」
その言葉が、王国の空気を変えた。
第六章 王国のほんとうの秘密
風太とハヤテは、久しぶりに同じ部屋で向かい合った。
「ハヤテ……」
顔を見た瞬間、風太はほっとした。 同時に、胸が痛んだ。
「お兄ちゃん、ここ、長くいちゃだめ」
ハヤテは、まっすぐ言った。
そのとき、象のモーンが前に出た。
「王よ、妹君よ。 ここまで来たなら、すべて話しましょう」
モーンは、床に長い鼻をつけた。
「この国は、“忘れられる途中の場所”です」
静かな声が、部屋に広がる。
「完全に忘れられると、消えます。 でも、誰かの記憶に少しでも残っているあいだ、形を保つ」
「だから……子ども?」
風太が言う。
「はい」
モーンはうなずいた。
「大人は、前に進みすぎる。 子どもは、まだ帰る場所を覚えている」
ポポが、つらそうに言った。
「私たちは、王を必要としました。 でも本当は……」
「本当は?」
「王が、帰る日を、いちばん恐れていた」
その瞬間、城が、きしんだ。
「帰らせない」
グラウの声が響いた。
「王国を、見捨てるのか」
動物たちが、道をふさいだ。
第七章 かえり道
逃げる、という言葉は、ここではちがっていた。 二人は、追われながら、別れをしていた。
象の鼻が道をふさぎ、 ライオンの影が迫る。
「ごめんね」
風太は言った。
「でも、ぼくたち、帰る」
レッサーパンダのポポは、涙をこらえて、そっと道を開いた。
「忘れないで」
その言葉といっしょに、世界が揺れた。
押入れの暗闇が、見えた。
ハヤテが、最後のクッキーを半分に割る。
「半分こ」
二人は手をつないで、跳んだ。
第八章 そのあとの、静かな午後
畳は、少し冷たかった。
雨は、まだ降っていた。
「風太! ハヤテ!」
ママとパパの声がして、二人は抱きしめられた。
それだけで、全部戻ってきた。
押入れは、もう深くなかった。 風も、匂いも、しなかった。
でも、風太は、ときどき思う。
名前を呼ばれなくなった場所も、 誰かが覚えているかぎり、消えないのだと。
ハヤテは、クッキーの袋を引き出しにしまった。
「また、思い出したらね」
そう言って、笑った。
雨は、いつのまにか、やんでいた。




