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第2話 未発見通路の先にはお宝と同じくらいの確率でボスがいる

「はぁっ、はっ、はっ……ぐぐっ……!」


 体力を振り絞って走る。内臓は悲鳴をあげ、関節はぎしぎし(きし)んでいた。

 既にスマホはどこかに落としたし、胸元に付けた配信カメラも砕けてしまった。


 それでも今、走ることをやめるわけにはいかない。

 何故ならば、走るのをやめれば僕は間違いなく《《殺される》》からだ。


「ふふふっ、どうせ汗を流すなら、アタシと気持ちいいことをしましょうよぉ」


 背後から聞こえてくる《《しな》》のある声。ちらりと視線を向ければ、そこには淫靡(いんび)にすら感じられる表情の女性がいた。


 革製の下着みたいなボンテージファッションに包まれているのはむちむちの身体。

 背中からはコウモリみたいな羽根が生え、お尻からはハート型の尻尾。

 おまけにピンクの髪からは捻じれた角が覗いていた。


 ――サキュバス。


 伝説やゲームに出てくる悪魔の一種で、男性に()りついて精を吸い殺す存在だ。


 地図に載っていない道を進んだ僕を待っていたのは、ダンジョン内のどこかに飛ばされるという転移の罠だった。

 今までは入口にほど近いところをうろついているだけだったから問題なかったけれど、奥に行けば行くほどモンスターが強くなる、というのがダンジョンの常識だ。

 つまり覚醒すらしていない僕にとっては、何が起こったかもわからずに死ぬような場所に来てしまったのだ。


 ……ダンジョンの入口付近に罠なんて聞いたことがなかったけれど、己の不運を嘆いたところで元の場所に戻れるわけでもない。

 息を殺し、歯を食いしばって周囲を歩き回り、何とか人影を見つけた時は、思わず泣きそうになってしまった。


「た、助けてください……!」


 そう泣きついた僕を待っていたのは、鞭のようにしなる尻尾での一撃だった。死ななかったのはただの幸運か、あるいはサキュバスの気まぐれだろう。


 胸を強打され、カメラは一撃でバラバラになった。

 勢いで吹き飛んでごろごろと転がった僕が見たのは、現在進行形で僕を追いかけてくるサキュバスだった。


「ねぇねぇねぇ、ニンゲンっていつでも発情期なんでしょう? 死に際には子孫を残そうとして性欲が高まるっていうし、せっかくだしアタシに味わわせてよぉ♡」


 煽情的なポーズとともに僕を誘うサキュバス。


 最初は希少な種族系ジョブを手に入れただけの人間だと勘違いしたけれど、言動の端々から(にじ)む感性が、人間のそれとは大きく異なっていた。


「イった瞬間に首を落としてあげる♡ もしかしたら気持ちよく死ねるかもしれないわよぉ♡」


 人の言葉を操るモンスター。

 それも、オウムが鳴き声を真似するようなのではなく、きちんと意味を理解した言葉を。

 今まで聞いたことのない異状事態だった。


「折角だし、《《この世界》》のオトコも味わってみたいって思ってのよぉ♡」

「がっ!?」


 サキュバスの指先から、不可視の何かが飛んだ。


 ……何かの魔法だ、と気づいた時には、もう避けることなどできなかった。殴られたような衝撃が足に走り、大きくバランスを崩してしまう。


 もんどりうって倒れた僕が慌てて起き上がろうと顔をあげると、コウモリ翼を羽ばたかせたサキュバスが満面の笑みを浮かべていた。


「ふふっ、選ばせてあげる。このまま惨めに童貞のまま(なぶ)り殺しにされるのと、アタシと気持ちいいことをしてから死ぬの……どっちがいーい?」


 サキュバスの眼が怪しく光る。

 同時に僕の身体が――下半身がかぁっと熱くなった。


「なっ、なんでこんな時に……!」

「どんな生き物も、死を直前にすると子孫を残そうと必死になるのよ♡ その状態でするえっちって、とぉっても気持ちいいんだから♡」


 親指と人差し指で輪っかを作ったサキュバスは、その手を口元に寄せながら上下に動かした。人間みたいな――しかし人間にしては長すぎる舌をチロチロと動かす。


「おクチ? それとも下のおクチが良いかな? あはっ、後ろの穴でも良いわよぉ♡」


 女優のような整った顔から放たれた、信じられないほど下品な言葉に思考が止まる。


「そ・れ・と・も、何にもできないまま惨めに死にたい?」


 目の光が強くなる。

 同時に下半身の熱が強くなる。血液がぐつぐつに煮えたぎっているようだった。

 今にも殺されそうな状況にもかかわらず、僕の本能がサキュバスを求めて暴れ狂っていた。

 服も、理性も、そして自らの命も投げ捨てて彼女に襲い掛かってしまいたくなる。

 でも。


「……断る」


 それは、意地だった。


 まるでスナック菓子かジャンクフードを見るような目で僕を見るサキュバス。

 僕の反応を待ち、あまつさええっちなことをしようとするのは、何があっても自分が危険な状況に追い込まれることがないと確信しているからだ。


 対峙した瞬間、このサキュバスが僕よりもずっと格上だというのは本能的に察した。実際、機嫌を損ねれば一瞬で殺されるだろうし、見下し馬鹿にするのも分かるほどの実力差だ。


 でも、だからこそ、こいつの言いなりになって自らを進んで差し出すなんてまっぴらだった。


「ふぅん? そのまま死にたいんだぁ? 折角気持ちよ~くなれるチャンスだったのにぃ」


 それに。


「うるさい……! 僕が好きなのは清純派なんだよ! クソビッチなんぞお断りだっ!」


 ひゅるんっ、と風を切る音がした。

 サキュバスの尻尾が鞭のように伸び、僕の首に巻きつく。細い尻尾のどこにそんな力があるのか、尻尾だけで僕の身体が持ち上げられてしまった。


「かっ、はっ……!」

「もう一度だけチャンスをあげる。アタシにご奉仕して、全部(しぼ)り取られて幸せに死ぬのと、このまま首を()じ切られるの、好きな方を選びなさい」


 三度、サキュバスの眼が光った。同時にぎりぎりと尻尾が僕の首を締めあげ始める。息ができなくなり、頭に霧がかかったように鈍っていく思考の中、理性と本能とプライドがせめぎ合う。


 死にたくない。

 こいつの思い通りになってたまるか。

 目の前のいやらしい肢体を蹂躙してやりたい。


 その三つで思考の全てが埋め尽くされたとき、唐突に声が響いた。


・――個体名:大上刀夜がジョブ【ワースケベ】に覚醒します。


 男とも女ともつかない声に宣言され、僕の身体が光に包まれた。


 ……覚醒だ。

 身体の中に焼けた鉄を流し込まれているかのように熱かった。

 ミシミシと身体が軋み、僕の体が変わっていく。


 首に巻き付く尻尾をなんとか引きはがそうと必死でもがくと、大きく(くく)れた《《僕の爪》》があっさりと尻尾を引き裂いた。

 赤黒い体液が飛び、ばらばらになった尻尾の欠片が地面に落ちる。


「ぎゃぁぁぁッ!?」


 サキュバスの口から、おおよそ女性のものとは思えない悲鳴が響くけれど、今はそれどころじゃない。地面に落ちた僕の身体は、現在進行形で変化し続けている。


「かっ、はぁっ、はぁっ……!」


 空気を求めて開いた口からは鋭く太い牙が発達していく。

 全身の皮膚から何かがふぁさ、と伸びていく。


「雑魚オス程度がチョーシ乗ってんじゃねぇぞっ!」


 尻尾を切り裂かれたサキュバスが別人のような口調とともに魔法を放つ。だが、僕の身体からみっしりと生えた《《白銀の体毛》》が、それをあっさりと弾き返した。


 眼も変化しているのか、弾き返した空気の弾丸がサキュバスの頬を打ち付けるのがハッキリ見えた。


「ぎゃぁぁぁぁっ!?」


 身体中から鳴っていた、軋むような音が止まる。

 何だ!? 僕はどうなったんだ!?

 疑問に対し、頭の中で声が響いた。覚醒を告げてくれた中性的なそれではなく、低く太い男の声が。


 ――やれやれ……こんな愚鈍(ぐどん)な奴に宿らねばならないとはな。


 声は不満そうにしながらも、どこか偉そうに宣言した。


 ――愚図(ぐず)め。知識と助言をくれてやる。


 同時、天の声も響く。


・――個体名:■■■■■■■■が個体名:大上刀夜にスキル:天祐助声を付与しました。

・――個体名:■■■■■■■■が個体名:大上刀夜に知識を付与しました。


 同時、不思議と自分の身に何が起きたのかが分かった。


 僕は狼のような姿になったのだ。


 ただし、大型バイクにも比肩するサイズの狼なんて、どこを探しても存在しないだろう。モンスターと間違われてしまいそうな威容(いよう)に、景色が揺らめくほどの魔力。


 魔狼(まろう)と呼ぶにふさわしい姿だった。


 ……戦える。


 そう確信できるほどに、全身にエネルギーが満ちていた。


「アタシの顔……美しい顔に、傷が……!」


 顔を傷つけられたサキュバスが、熱に浮かされたかのように呆然としながら呟いた。このまま畳みかけてやろうと一歩を踏み出し、しかしすぐに止まる。


 魔狼と化した僕の五感が警鐘を鳴らしていた。


 ゆらりと、幽鬼のように立ち上がったサキュバスの身体から赤黒いオーラのようなものが立ち上っているのが見えた。ぶつぶつと呟くサキュバスの身体に、みっしりと血管のようなものが浮き上がっている。


 ――あれはヤバい。


 魔狼となった僕は疾風のような速度で逃げ出した。強化された五感――特に嗅覚が、サキュバスの姿を捉えていた。振り向かずとも、背後で魔法が放たれようとしているのが分かる。


 四肢でステップを踏むように左右に体を振る。


「クソがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 絶叫とともに、研ぎ澄まされた空気の槍が放たれた。


 ただの一本ですらとんでもない威力を秘めているであろうそれが、サキュバスを中心にして全方位に向けられていた。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような、ハリネズミのような殺意の塊から全力で逃げる。


 ステップを踏み、背中から迫った魔法を避ける。


 ダンジョンの壁が砕け、深い穴を穿(うが)っているのが見えた。当たれば僕の身体にも大穴が開くだろう。


 空気の槍は放たれたそばからすぐに補充されていく。

 匂いを頼りに何とか避けているが、このままでは僕の体力とサキュバスの魔力のどちらが先に切れるかかのチキンレースだ。


 否、その前に僕の集中力がどこまで続くかが問題だろう。

 何しろ、向こうは適当に撃つだけ。僕は一撃でも喰らったらおしまいなのだ。

 必死に避けながらも全力で逃げ続ける。

 少しでも足を留めれば、その瞬間死ぬ。

「ガァッ!?」

 魔法が脇腹を掠めた。爆弾が炸裂したかのような衝撃に吹き飛ばされるが、空中で必死に体勢を立て直す。

 背後から次々に迫る槍を避け、躱し、逃げる。周辺に着弾し、炸裂した爆風すらも利用して、背後に感じる濃密な死の気配から距離を取り続けた。


――

――――

――――――

――――――――

――――――――――


 どれほど走っただろうか。

 いつの間にか、背後から魔法が放たれなくなった。それどころか、サキュバスの気配そのものが消えている。


 ……助かった、のか……?


 思考すると同時、前脚から力が抜けた。かくん、と体が崩れ、そのまま地面に倒れ込む。勢いのままごろごろと転がり、赤黒い線が地面を汚した。


 白銀だったはずの体毛が、血でぐっしょりと汚れていた。


 自らに視線を向けると、全身が血まみれになっていた。必死になっていたせいで気づかなかったけれど、切り傷、擦り傷、打撲に裂傷。ありとあらゆる場所が傷だらけになっていたのだ。


 特にひどいのは、魔法が掠めた脇腹だ。


 ごっそりとえぐれたそこからは、とめどなく血が滴っている。


・――個体名:大上刀夜の生命力が大幅に低下しています。

 ・――生命維持のため、体内に残存する魔力を使用します。


 メリメリと体が軋み、傷が塞がっていく。

 同時に、体の中の何かがごっそりと減った感覚があった。これが魔力だろうか。

 身体が鉛のように重くなっていく。


・――残存魔力の低下に伴い、ワースケベ形態が維持できなくなります。


 変身が解けて人間に戻る、と直感的に理解した。


――ハァ……世話が焼ける。


 再び誰かの声がした。


・――個体名:■■■■■■■■が個体名:大上刀夜にスキル:変身:省燃費形態を付与しました。

 ・――省燃費形態へと移行します。


 天の声が宣言すると、再び僕の身体からミシミシと音が響き始めた。

 何だよ。何が起こったんだ。説明してくれ。


 頼んでみるが、どこか偉そうな男の声は聞こえない。

 どんどん意識が濁っていく。


 ここで意識を失ったら、モンスターに殺される。

 そう分かってはいたが、意志に反して視界はどんどん狭まっていった。


「……も良いけど、せっかくだから――……って、あれ? えっ!? なんでこんなとこにワンちゃんがいるの!? 大変、助けなきゃっ!」


 沈んでいく意識の中。

 鈴を転がしたような声とともに、甘やかな香りが僕を包んだような気がした。


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