第六話:新たなスキル『傾聴(パッシIVE)』と『質問(ACTIVE)』
中村エリカとの初陣でHPもMPも完全に尽き果てた俺は、数日間、抜け殻のようになって過ごした。仕事のパフォーマンスは最低限。帰宅すればコンビニ弁当とカップ麺。俺の人生は、振り出しに戻るどころか、盤上からコマを降ろされてしまったかのような、虚無感に包まれていた。
だが、そんな俺の荒んだ日常に、一筋の光が差し込んでいた。
『tsumugi』さんとの、SNS上でのDMのやり取りだ。
『アキラさん、週末はどうでしたか? 私は、ずっと押入れに眠ってたメガドライブを引っ張り出してました(笑)』
『メガドライブ! 懐かしい! 名作が多いですよね。僕は、あの独特のサウンドチップの音が好きで…』
『わかります! FM音源、いいですよねー!』
会話は、いつもゲームの話だった。攻略情報、思い出のゲーム、好きなBGM。そこには、年収も、職業も、結婚観も、一切介在しない。ただ、好きなものを好きだと言い合える、純粋で温かい時間が流れていた。
彼女との何気ないDMのやり取りは、俺にとって、荒れ狂う婚活という名の海原で唯一翼を休められる『セーブポイント』となっていた。この場所があるから、俺はまだ、ゲームを投げ出さずにいられる。
そして、週が明けた月曜日。
結婚相談所から『定期面談のお知らせ』という通知が届いた。ボスである霧島怜奈からの、強制召喚イベントだ。俺は、少しだけ重い足取りで、あの雑居ビルの7階へと向かった。
「――拝見しました、中村エリカさんとの活動報告。見事なまでの惨敗ですね」
面談室に入るなり、霧島さんは俺が提出したレポートを一瞥し、バッサリと切り捨てた。相変わらずの切れ味だ。俺の残り少ないHPが、さらに削られる。
「ですが、初陣で自分の無力さを痛感するのは、悪いことではありません。むしろ、良い経験値になったと捉えるべきです。何か、他に報告事項は?」
促され、俺は少しだけ躊躇しながら、tsumugiさんとの交流について、おずおずと切り出した。婚活とは関係のない、趣味の繋がり。きっと、「そんな無駄なことに時間を…」と一蹴されるに違いない。
だが、霧島さんの反応は、俺の予想とは全く違うものだった。
彼女は、俺の話を黙って聞くと、少しだけ口角を上げて、こう言ったのだ。
「なるほど。それは、『テキストコミュニケーション』の良い訓練になっていますね」
え? 訓練?
俺が驚きで目を丸くしていると、彼女は続けた。
「顔が見えない相手と、文章だけで良好な関係を築く。それは、相手の言葉の意図を正確に読み取り、自分の感情を適切に表現する、高度なスキルです。樋口さん、あなたは無意識のうちに、良いトレーニングを積んでいます」
まさかの、肯定的な評価。俺のMPが、わずかに回復した。
しかし、霧島さんはすぐに表情を引き締め、人差し指を立てた。
「ですが、樋口さん。忘れないでください。我々の主戦場は、対面での『リアルタイムバトル』です。テキストでのやり取りのような、じっくり考えて返信する時間はありません。そして、今のあなたの戦闘スタイルは、あまりにも受け身過ぎる」
「受け身、ですか…?」
「ええ。あなたは、相手の話を聞くことはできても、そこから会話を広げ、主導権を握るための『アクティブスキル』を何一つ持っていない。だから、中村エリカさんのような一方的な攻撃の前に、何もできずに押し切られたのです」
彼女は、すっと立ち上がると、書棚から数冊の本を取り出し、俺の前のテーブルに置いた。
『超・雑談力』『聞く力こそ最強の武器である』『コミュ障でも3日で変われる会話術』…。
そして、一枚の派手なチラシを、その上に重ねた。
『素敵な出会いがきっと見つかる! プレミアム婚活パーティー!』
「――実践に勝る訓練はありません。今回のクエストは、『婚活パーティーに参加し、女性3人と5分以上の会話を成立させること』。これが、今のあなたへの課題です」
婚活パーティー…。それは、限られた時間の中で、不特定多数のプレイヤーとコミュニケーションを取り、自分の価値をアピールしなければならない、高難易度のダンジョンだ。今の俺に、そんなことができるだろうか。
俺の不安を見透かしたように、霧島さんは眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「もちろん、丸腰で戦場に行けとは言いません。新しい『魔法』を授けます」
彼女は、ホワイトボードを引き寄せると、マジックでいくつかのキーワードを書き出した。
「まず、基本中の基本、『バックトラッキング』。いわゆる『オウム返し』です。相手が『昨日、映画を観に行ったんです』と言ったら、『へえ、映画を観に行かれたんですね』と返す。これだけで、相手は『ちゃんと話を聞いてくれている』と認識し、心地よく次の言葉を話し始めます。これは、MP消費の少ない、基本にして最強の補助魔法です」
なるほど…。
「次に、褒める時の呪文、『さしすせそ』です」
「さしすせそ…?」
「さすがですね! しりませんでした! すごいですね! せンスいいですね! そうなんですね! この5つの相槌は、相手の自尊心をくすぐり、会話を円滑に進める効果があります。ただし、連発は禁物。使いどころを見極めるのです」
霧島さんの『コミュ力』講座は、まるでゲームのチュートリアルのように、具体的で、そして実践的だった。俺は、彼女が授けてくれる一つ一つのスキル(魔法)を、必死に記憶領域(脳みそ)に書き込んでいった。
「――よろしいですか? 武器は授けました。あとは、あなたがそれを使いこなせるかどうかです」
霧島さんは、チラシを俺に突きつけた。
「さあ、ダンジョンへ行ってらっしゃい、勇者様」
その笑顔は、やはり魔王のように、美しく、そして恐ろしかった。
その夜。
俺は、自室で、霧島さんから授けられた攻略本(会話術の本)の数々と、にらめっこをしていた。
蛍光ペンで線を引いたり、ノートに要点を書き写したり。それはまるで、大学の期末試験前に一夜漬けする学生のようだった。
『女性は、答えを求めているのではなく、共感を求めている』
『質問は、YES/NOで終わらない『オープンクエスチョン』を意識する』
『自分の話は3割、相手の話を7割聞くのが黄金比』
読めば読むほど、これまで自分が、いかに独りよがりなコミュニケーションを取ってきたかを思い知らされる。俺のHPが、真実のダメージでまた少し削られた。
だが、知識は、確実に俺の力になっていく。
俺が、付箋を貼ったページを読み終え、大きく伸びをした、その瞬間だった。
ピロリン!
頭の中で、あの懐かしいレベルアップの音が鳴り響いた。
目の前に、半透明のステータス画面がポップアップする。
【NEW SKILL ACQUIRED!】
『傾聴 Lv.1』を習得しました!
『質問 Lv.1』を習得しました!
【STATUS UPDATE】
『コミュ力』の経験値が、わずかに上昇しました!
[ EXP: |||||...... ]
ほんの、わずかな変化。経験値バーは、ほんの数ドット分しか伸びていない。
だが、ゼロではなかった。俺は、確かに新しいスキルを習得し、次なる戦いへの武器を手に入れたのだ。
俺は、婚活パーティーのチラシを手に取った。
そこに写っている、幸せそうな男女の笑顔。
今の俺にはまだ、あの場所に立つ資格はないかもしれない。
だが、いつか必ず。
俺は、新たなクエストに向けて、静かに闘志を燃やすのだった。