第五話:癒やしのセーブポイント、或いはヒロイン?との邂逅
中村エリカという名の厄災が去った後、俺はまるで魂を吸い取られた抜け殻のようだった。
新調した戦闘服は、もはや誇りの象徴ではなく、敗戦の記憶が染み付いた呪いの装備にしか思えない。俺はそれをソファに脱ぎ捨て、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プシュッ、という気抜けした音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
夕食は、棚の奥に備蓄してあった最後の非常食、『カップラーメン(しょうゆ味)』だ。
【アイテム:カップラーメン(消費アイテム)】
【効果:HPを極微量回復、満腹度を50%満たす。ただし、使用者のMP(精神力)に-20の継続ダメージを与え、高確率でステータス異常:『自己嫌悪』を付与する】
お湯を注いで3分。プラスチックのフォークで麺をすすりながら、俺は今日の戦闘(お見合い)を反芻していた。
矢継ぎ早の尋問、一方的な自慢話、そして、冷え切ったコーヒーを前にした、あの屈辱的な撮影会。一つ一つのシーンが、鋭い刃となって俺の心を切り刻む。
ダメだ。俺には無理だ。
この『婚活』という名のゲームは、あまりにも理不尽なクソゲーだ。
俺のような、コミュニケーション能力も、容姿も、社会性も、全てが中途半端なプレイヤーに、クリアできるはずがない。レベル5の勇者が、いきなり魔王の居城に放り込まれたようなものだ。
もう、諦めよう。霧島さんに電話して、退会すると伝えよう。そしてまた、今まで通りの、孤独だが平穏なダンジョン(自室)に引きこもるんだ。
俺は、食べ終えたカップ麺の容器をゴミ箱に叩きつけた。
虚しさが、津波のように押し寄せてくる。
現実から逃げ出したかった。この苦しいだけのゲームから、ログアウトしたかった。
俺は、無意識にノートPCを開いていた。
仕事のファイルでも、婚活アプリでもない。俺が向かったのは、ブックマークの奥深くに隠された、小さなリンク。
そこは、俺にとっての唯一の聖域。
特定のレトロゲームシリーズだけを扱う、あまりにもマニアックなSNSサイトだった。
ハンドルネームは『アキラ』。
俺はそこで、これまで一度も書き込みをしたことがなかった。ただ、他の熟練プレイヤーたちの攻略情報や、熱のこもった考察を読むだけの、いわゆる『ROM専』。ここですら、俺は自分の意見を発信する勇気がなかったのだ。自分の浅い知識が、誰かに否定されるのが怖かった。
だが、今夜は違った。
中村エリカに心をズタズタにされた俺は、もはや失うものなど何も無い、という奇妙な万能感に包まれていた。
俺は、サイトの片隅にある、つぶやき用の掲示板を開いた。
他のプレイヤーたちが「隠しアイテム発見!」「5面のボス、強すぎ!」といった書き込みで盛り上がっている。その流れの中に、俺は、今日の惨敗を、この世界の言葉で表現することにした。
俺は、キーボードに指を置いた。
現実世界での惨めな敗北を、ゲームのボス戦に喩える。それは、今の俺にできる、唯一の自己表現だった。
【投稿者:アキラ】
『今日のボス戦は惨敗だった…。初見殺しの連続攻撃でHPゼロだよ』
エンターキーを押した瞬間、少しだけ後悔が押し寄せた。「場違いな書き込みだっただろうか」「誰にも相手にされなかったら、さらに傷つくだけだ」。
俺は、自嘲気味に笑い、PCを閉じようとした。
――ピコン。
その時、スマホの画面が光り、SNSからの通知を知らせた。
まさか。こんな掃き溜めのような書き込みに、誰かが反応するはずが…。
俺は、恐る恐る通知を開いた。
そこには、見知らぬアカウントからの、一件の返信が表示されていた。
【From:tsumugi】
『アキラさん、お疲れ様です! あの面のボスは初見殺しですよね(笑)。パターンさえ覚えれば絶対に勝てますから、ファイトです!』
――その、何気ない一文を読んだ瞬間。
俺の、ささくれ立って、ボロボロになっていた心の傷に、まるでポーションが染み渡るように、温かい何かが広がっていくのを感じた。
俺は、何度も、何度もそのメッセージを読み返した。
『お疲れ様です!』
労いの言葉。今日の俺が、誰よりも欲しかった言葉だ。
『初見殺しですよね(笑)』
俺の敗北を、笑い飛ばすのではなく、共感し、肯定してくれる優しさ。
『パターンさえ覚えれば絶対に勝てますから、ファイトです!』
根拠のない慰めではない。ゲームプレイヤーとしての、的確なアドバイスと、純粋な応援。
俺は、返信をくれた『tsumugi』さんのプロフィールアイコンをタップした。
そこに表示されたのは、プロが描いたような美麗なイラストでも、加工された自撮り写真でもない。ドット絵で手作りされたであろう、小さな魔法使いの女の子の、可愛らしいアイコンだった。
スペックも、年収も、容姿も関係ない。
ただ、同じゲームを愛する『仲間』としての、温かい言葉。
それは、中村エリカから向けられた、値踏みするような視線や、SNS映えのための冷たい笑顔とは、あまりにも対極にあるものだった。
俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
ああ、そうか。俺が求めていたのは、こういう繋がりだったのかもしれない。
俺は、震える指で、返信を打ち始めた。
『tsumugiさん、ありがとうございます。すごく、励まされました。次は頑張って、パターンを読んでみます』
すぐに、彼女から返信が来た。
『はい!応援してます!ちなみに私は、最初に右の触手から倒すようにしてますよー』
その日から、俺とtsumugiさんとの、ささやかな交流が始まった。
それは、婚活という名の、殺伐とした戦場から離れた、唯一の癒やしのセーブポイントだった。
俺は、スマホの画面に表示された、ドット絵の魔法使いを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……もう少しだけ、頑張ってみるか」
HPもMPも、まだゼロではなかった。
聖なる泉で傷を癒やした勇者は、顔を上げ、もう一度、冒険の続きへと歩き出す決意を固めた。
まだ見ぬ『tsumugi』という名の、心優しき魔法使いの存在を、心の灯火にして。