第二十五話:心の交差点で、勇者は選択を迫られる
佐倉紬との、夢のようなオフ会から数日が過ぎた。
俺の日常は、静けさを取り戻していた。だが、その水面下では、かつてないほどの激しい嵐が、俺の心を揺さぶり続けていた。
俺のスマホの中には、今、三人の女性との、三つの異なる物語が、並行して存在している。
【ルート1:橘 志保】
[クエスト:氷の女王の心を溶かせ]
進捗度:25%
概要:知的で、スリリングな関係。彼女との会話は、常に最高の緊張感を強いられるが、それと同時に、俺自身のレベルを強制的に引き上げてくれる、成長の物語。だが、その先にある未来は、まだ霧の中だ。
【ルート2:小野寺 陽菜】
[クエスト:『普通』の幸福を手に入れろ]
進捗度:45%
概要:安定的で、予測可能な関係。AIが保証する、最も確実なハッピーエンドへの道。だが、その完璧すぎる『普通』は、時に俺の心を息苦しくさせる。これは、本当に俺が望んだ物語なのか?
【ルート3:佐倉 紬】
[クエスト:聖域の謎を解き明かせ]
進捗度:??%
概要:最も心が惹かれる、癒やしの物語。だが、彼女の素性は謎に包まれており、そのルートはまだ、正式に解放されていない。彼女の心の扉を開ける『鍵』を、俺は見つけ出せるのだろうか。
三者三様の、魅力的なヒロインたち。
俺は、自室のソファで、彼女たちとのメッセージのやり取りを、順番に眺めていた。
陽菜さんからは、『今度、樋口さんのためにお弁当を作ってもいいですか?』という、家庭的なスキルをアピールする、完璧なメッセージ。
志保さんからは、『あなたが興味を示していた、量子コンピュータに関する新しい論文のリンクだ。一読の価値はある』という、どこまでも彼女らしい、知的なメッセージ。
そして、紬さんからは、『次の協力プレイ、楽しみにしてますね!』という、純粋で、心躍るようなメッセージ。
どれも、魅力的だ。
どの未来も、それぞれに、輝いて見える。
陽菜さんと一緒になれば、きっと、温かくて、穏やかな家庭を築けるだろう。
志保さんと一緒になれば、刺激的で、常に成長し続けられる、知的なパートナーシップを築けるかもしれない。
紬さんと一緒になれば、好きなものに囲まれて、子供のように笑い合える、楽しい毎日が待っているかもしれない。
だが、俺には、選べない。
どのルートも魅力的だからこそ、一つを選ぶことは、他の二つの可能性を、永遠に捨てることを意味する。
俺は、豪華すぎる宝箱を三つ前にして、どれか一つしか開けられないと言われた、欲張りな冒険者のように、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
【システム警告:思考ループに陥っています】
【決断力が、著しく低下しています】
俺の、この優柔不断な心を、見透かしていたかのように。
そのタイミングで、スマホが、けたたましく鳴り響いた。
ディスプレイに表示されたのは、『霧島 怜奈』の名前。
魔王からの、強制召喚イベントだ。
俺は、覚悟を決めて、通話ボタンを押した。
「…はい、樋口です」
『樋口さん。ごきげんよう』
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつものように、冷静で、感情の読めない声だった。
『あなたの活動報告、全て拝見しています。橘様とも、小野寺様とも、順調に関係を進められているようですね。素晴らしい』
彼女は、俺の心の葛藤など、お見通しだと言わんばかりに、続けた。
「ですが、樋口さん。そろそろ、次のステージに進む時です」
「…次の、ステージ?」
「ええ。婚活には、ルールがあります。複数の相手と『仮交際』を続けることは、誠実ではありません。そして何より、非効率です」
彼女の言葉が、俺の胸に、重く突き刺さる。
「あなたは、この週末までに、決断をしなければなりません」
「決断…?」
「はい。あなたが、この三名の中から、どなたか一人と、『真剣交際』に進むのか。あるいは、この全ての関係を一度白紙に戻し、新たな相手を探すのか」
――真剣交際。
それは、『仮交際』という名の、お試し期間の終わりを告げる言葉。
他の全てのルートを閉ざし、たった一つの未来に、全てを賭けるという、最終選択。
「あなたの、答えを聞かせてください」
霧島さんの声は、どこまでも静かで、そして、有無を言わせぬ響きを持っていた。
俺は、何も答えられなかった。
電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という、無機質な音が、俺の耳に虚しく響く。
俺は、スマホを握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
選べ。
彼女は、そう言った。
橘志保か、小野寺陽菜か、佐倉紬か。
あるいは、その全てを捨てて、振り出しに戻るのか。
俺の頭の中で、三人のヒロインの顔が、ぐるぐると、回り始める。
氷の女王の、挑戦的な瞳。
聖女の、完璧な笑顔。
癒やしの魔法使いの、謎めいた翳り。
どの顔も、俺の心を、強く、惹きつけて離さない。
だが、その時。
俺の脳裏に、なぜか、ふと、もう一人の女性の顔が、浮かび上がったのだ。
同窓会で再会した、藤宮栞。
デジタルアルバムの中にいた、彼女の、あの、全てを受け入れてくれるような、穏やかで、優しい笑顔。
彼女は、この、婚活という名のゲームの、プレイヤーではない。
彼女は、俺の、選択肢の中には、いないはずの存在だ。
なのに、なぜ。
なぜ、この、究極の選択を迫られた瞬間に、俺は、彼女のことを、思い出しているのだろうか。
俺の、本当の気持ちは、一体、どこにあるんだ…?
クエストログは、かつてないほどに渋滞し、俺の思考は、完全にキャパシティを超えていた。
スマホの画面に並ぶ、志保、陽菜、紬のアイコン。
そして、脳裏に浮かぶ、栞の笑顔。
四叉路の、ど真ん中で。
勇者は、ただ一人、立ち尽くしていた。
彼の、婚活という名の冒険が、最大の岐路に立たされていることを、まだ、誰も知らない。




