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第二十四話:約束のオフライン、聖域の扉が開く


橘志保との、心を揺さぶるような知的興奮。

小野寺陽菜との、息が詰まるような完璧な正しさ。

その両極端なクエストを経験した俺の心は、もはやどちらの方向に進むべきか、完全に羅針盤を失っていた。MPは常に枯渇寸前。精神的な疲労は、見えない鉛のように俺の肩にのしかかっていた。


だからこそ、俺はこの日を、心の底から待ち焦がれていたのだ。

延期に延期を重ねた、約束の日。

聖域サンクチュアリの主、『tsumugi』さんとの、初めてのオフラインミーティング。


土曜日の午後。俺は、クローゼットの前で、しばし佇んでいた。

そこには、婚活という名の戦場を共に戦ってきた、あの小綺麗な戦闘服ジャケットが、静かにかかっている。

だが、俺は、それに手を伸ばすことはなかった。


今日の俺は、婚活プレイヤー『樋口 彰』ではない。

ただのゲーム仲間、『アキラ』なのだ。

俺は、一番着慣れた、少しだけ洗いざらしのチェックシャツと、履き心地の良いチノパンを選び取った。鎧を脱ぎ捨て、本来の自分の姿デフォルトスキンに戻る。それは、少しだけ怖くもあり、そして、たまらなく心地よい解放感があった。


【装備を変更しました】

【樋口彰 → アキラ にクラスチェンジしました】

【特殊効果:見栄や虚勢による防御力はゼロになるが、本来の自分らしさが+50%上昇する】


約束の場所は、サブカルチャーの聖地、中野。

駅に降り立った瞬間、俺は、ホームグラウンドに帰ってきたかのような、深い安堵感に包まれた。この、雑然として、猥雑で、しかし、どこまでも『好き』という感情に正直な街の空気が、俺のささくれ立った心を優しく撫でていく。


目的地である『レトロゲームカフェ』の古びた木の扉を開けると、チリン、と懐かしいドアベルの音が、俺を出迎えた。

店内に満ちる、ブラウン管テレビの放つ独特の匂いと、ピコピコという愛すべき8bitの電子音。

ああ、帰ってきた。俺が、本当にいるべき場所に。


店の奥の、二人掛けのテーブル席。

そこに、彼女はいた。

ふわりとしたロングスカートに、古着のブラウス。少し眠たそうだが、優しい光を宿した瞳。SNSの、あのドット絵のアイコンから抜け出してきたかのような、柔らかな雰囲気の女性。


間違いない。

俺は、緊張で少しだけ震える声で、話しかけた。

「あの…tsumugiさん、ですか?」


彼女は、顔を上げて、俺の姿を認めると、一瞬、きょとんとした顔をした。

そして、次の瞬間、花が咲くように、ふわりと微笑んだ。

「はい! 私がtsumugiです。…あなたが、アキラさん?」

「は、はい! アキラです! 初めまして!」

「初めまして!」


その笑顔を見た瞬間、俺の心の中にあった、なけなしの緊張感は、跡形もなく消え去っていた。

彼女は、俺が想像していた通りの、いや、それ以上に、素敵な人だった。

そして、彼女は、俺の、この何の変哲もない普段着の姿を、少しもがっかりした様子もなく、ただ、嬉しそうに見つめていた。


俺たちの会話に、もはや、テクニックなど必要なかった。

霧島さんに叩き込まれた『さしすせそ』も、『バックトラッキング』も、この聖域では無用の長物だ。


「やっぱり、SFC後期のドット絵のクオリティは、芸術の域に達してますよね!」

「わかります! 特に、背景の多重スクロールとか、見てるだけでご飯三杯いけます!」

「でも、メガドライブの、あのちょっとダーティで、尖った感じも捨てがたい…」

「ああー!わかります! あの、ちょっとクセのあるFM音源が、またいいんですよね!」


俺たちは、子供の頃に戻ったかのように、夢中で語り合った。

どちらのRPGが最高傑作か。どのシューティングゲームの弾幕が最も美しいか。格闘ゲームの、あの理不尽なCPUの思い出。

時間も、年齢も、現実世界のステータスも、全てがこの空間では意味をなさない。

ただ、『好き』という、純粋で、温かい感情だけが、俺たちを繋いでいた。


俺は、生まれて初めて、何の仮面も被らずに、素の自分でいることの、心地よさを味わっていた。

橘志保といる時の、知的な緊張感はない。

小野寺陽菜といる時の、息苦しいほどの正しさもない。

ただ、楽しい。心の底から、楽しい。

俺は、もはや「結婚とか、スペックとか、もうどうでもいいかな…」とさえ、思い始めていた。


「そうだ、アキラさん! あれ、やりませんか?」

tsumugiさんは、そう言うと、店の奥にある、二人掛けのソファ席を指差した。

そこには、ブラウン管のテレビと、スーパーファミコンが、現役で稼働していた。


俺たちは、小さなソファに、隣り合って腰掛けた。

彼女が選んだソフトは、伝説のアクションゲーム、『超魔界村』。

「これ、私、一人じゃクリアできたことないんです」と、彼女は悪戯っぽく笑った。


コントローラーを握る。

隣に座る彼女との距離が、近い。肩と肩が、時折、ふわりと触れ合う。彼女の、シャンプーの甘い香りが、鼻腔をくすぐった。


【イベント発生:ヒロインとの共闘クエスト】

【クリア条件:ステージ1のボス、レッドアリーマーを撃破せよ】


ゲームが始まった。

それは、もはや会話ではなかった。魂のセッションだった。

俺たちは、叫び、笑い、そして、完璧な連携で、次々と現れるゾンビや魔物をなぎ倒していく。

「アキラさん、そこ!ジャンプ!」

「tsumugiさん、右から敵来ます!」

「きゃっ!」

「大丈夫、僕が倒します!」


息が、ぴったりと合っている。

まるで、ずっと昔から、こうして二人でプレイしてきたかのようだ。

そして、何度もゲームオーバーを繰り返しながらも、俺たちは、ついに、宿敵レッドアリーマーを撃破した。


「「やったー!!」」


俺たちは、同時に叫び、そして、自然と、ハイタッチを交わしていた。

パチン、と乾いた音が、部屋に響く。

触れた彼女の手は、驚くほど、柔らかくて、温かかった。

俺は、自分の顔が、カッと熱くなるのを感じた。


これが、『楽しい』ということか。

これが、心が通じ合う、ということか。


楽しい時間は、魔物よりも速く、過ぎ去っていく。

気づけば、窓の外は、美しい夕焼け色に染まっていた。

俺たちは、名残惜しさを感じながら、カフェを後にした。


「本当に、楽しかったです。誘ってくれて、ありがとう」

駅へと向かう道を歩きながら、俺は心からの感謝を伝えた。

「こちらこそ! 一人じゃ、絶対にレッドアリーマーは倒せませんでしたから。アキラさんは、最高の相棒パートナーですね!」

彼女は、そう言って、満面の笑みを浮かべた。


その笑顔に、俺の心は完全に満たされていた。

そして、だからこそ、俺は、聞いてしまったのだ。

この完璧な一日の最後に、ほんの少しだけ、彼女の『リアル』に、触れてみたくなってしまったのだ。


「あの、tsumugiさんは、普段は、どんなお仕事をされているんですか?」


それは、ごく自然な、何気ない質問のつもりだった。

だが、その言葉を聞いた瞬間。

それまで、太陽のように輝いていた彼女の笑顔が、ふっ、と、雲に隠れるように、翳ったのを、俺は見逃さなかった。


彼女は、一瞬、視線を足元に落とし、何かを躊躇うように、唇をきゅっと結んだ。

そして、再び顔を上げた時、その表情には、先程までの無邪気な明るさはなく、どこか寂しげな、何かを隠すような、薄い膜が張られているように見えた。


「…色々、です」


彼女は、そう、小さな声で呟くと、すぐに「あ、そうだ、あのゲームの新作!」と、無理やり話題をゲームに戻した。


俺は、それ以上、何も聞けなかった。

彼女が、その話題に触れてほしくない、ということが、痛いほど伝わってきたからだ。


駅の改札で、俺たちは別れた。

「今日は、本当にありがとうございました!」

彼女は、最後まで笑顔だった。だが、その笑顔は、カフェで見た時のものとは、どこか、違う色をしているように、俺には思えた。


一人になった帰りの電車の中。

俺の心は、二つの、全く異なる感情で満たされていた。

一つは、今日という一日が、人生で最高の日だった、という、幸福感。

そして、もう一つは。

彼女が最後に見せた、あの、一瞬の翳り。

『色々です』という、短い言葉の裏に隠された、深い謎。


それは、完璧なクリアデータの中に、一つだけ残ってしまった、バグのように。

あるいは、癒やしの泉の、その美しい水面に、ぽつりと落ちた、黒いインクの染みのように。

俺の心に、小さな、しかし、無視することのできない、鋭い棘となって、チクリと、刺さったのだった。


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