第二十一話:新たな戦場は14インチ、デジタル映えを攻略せよ!
藤宮栞。
同窓会での再会以来、彼女の存在は、俺の心の中で、静かに、しかし確実に大きくなっていた。
荒れ狂う婚活という名の戦場で、傷つき、疲弊した俺にとって、彼女を思い出す時間は、唯一、何の計算も、何の戦略も必要としない、穏やかな回復の時間だった。
彼女の、あの全てを受け入れてくれるような優しい笑顔。それは、どんな強力なバフ効果よりも、俺のステータスを安定させてくれる、最強の補助魔法だった。
だが、俺の主戦場は、あくまでこの東京という名のダンジョンだ。
感傷に浸っているだけでは、レベルは上がらない。
俺は、佐藤美咲さんとの「印象に残らないエンカウント」から得た、『結婚とは加点法である』という新たな気づき(インサイト)を胸に、再び霧島さんの元を訪れていた。
「――素晴らしい。あなたは、ついに、このゲームの本質を理解し始めましたね、樋口さん」
俺のレポートを読んだ霧島さんは、初めて、心からの賞賛に近いものを、その声色に滲ませた。
「減点法で相手の欠点を探すのではなく、加点法で相手の魅力を探す。その視点を持てたことは、あなたの婚活における、極めて大きなパラダイムシフトです」
彼女に褒められるのは、これが初めてかもしれない。俺のMPが、じわりと回復する。
だが、彼女が、ただ俺を甘やかすだけのNPCでないことを、俺はすでに知っていた。
案の定、彼女はすぐに表情を引き締め、次のクエストを提示してきた。
「あなたの思考レベルが上がった今、次のステージに進む時が来ました。戦場を、広げます」
「戦場を…広げる?」
「ええ。次は、『オンラインお見合い』に挑戦していただきます」
オンライン。その言葉に、ITエンジニアである俺の心は、少しだけ、安堵した。それは、俺のホームグラウンドのはずだ。
霧島さんは、そのメリットを、いつものように淀みなく説明し始めた。
「移動時間ゼロ、交通費ゼロ。時間的、金銭的コストを最小限に抑えつつ、出会いの母数を最大化する。これ以上に効率的な戦略はありません。今回は、あなたの検索範囲を全国に広げ、福岡在住のキャリアウーマンの方とマッチングさせていただきました」
彼女が提示してきたプロフィール。そこに写っていたのは、パリッとしたスーツを着こなし、背景のオフィス街をバックに、自信に満ちた笑みを浮かべる、35歳の女性だった。強そうだ。おそらく、遠距離から強力な魔法を放ってくるタイプの、魔法剣士だろう。
だが、俺は怯まなかった。オンラインなら、あの橘志保との戦いで感じたような、直接的な威圧感も、半減されるはずだ。
「やります」
俺は、力強く、そう答えた。
【NEW QUEST:リモートバトル】
【目的:オンラインお見合いを成功させよ】
【備考:戦場は、君の自室だ】
――そして、俺は、このクエストの備考欄に書かれた、最後の一文の、本当の恐ろしさを、まだ理解していなかったのだ。
お見合い前夜。
俺は、万全を期すため、PCのビデオ会議アプリを起動し、最終チェックを行うことにした。
カメラのアイコンをクリックする。数秒のラグの後、画面に映し出されたのは…。
「……誰だ、この、生気の無いおっさんは…」
俺は、思わず呟いていた。
そこにいたのは、レベルアップしたはずの俺ではなかった。薄暗い照明の下、安物のWEBカメラの低いアングルから見上げるように映された、頬はたるみ、目の下には深い隈が刻まれた、疲れ果てた中年男性。まるで、ダンジョンの最下層に生息する、アンデッドモンスターのようだった。
そして、何より、致命的だったのは、その『背景』だ。
俺の背後には、この部屋の、ありのままの日常が、無慈悲に映し出されていた。
ソファの背もたれに、脱ぎ捨てられた昨日のワイシャツ。床に積み上げられた、まだ読んでいない技術書の山。そして、本棚の一角には、俺が青春を捧げた、美少女ゲームのパッケージが、数ミリだけ、見切れてしまっている。
【システム警告:プライバシーが侵害されています!】
【あなたの『生活感』ステータスが、相手に丸裸にされます!】
血の気が、引いた。
そうだ。オンラインお見合いとは、ただ顔を合わせて話すだけではない。俺の生活空間そのものが、査定対象となる、恐るべき『抜き打ち査察』なのだ。
『容姿:G+』のステータスは、この14インチの戦場では、何の意味もなさない。ここでは、全く別のパラメータが、求められているのだ。
俺は、時計を見た。お見合い開始まで、あと1時間。
やるしかない。
俺は、人生で最も、壮絶な、一点集中の『部屋の片付け』を開始した。
まず、取り掛かったのは、背景問題。
部屋全体を掃除している時間はない。俺は、カメラに映る、画角の範囲内だけを、徹底的に片付け始めた。ソファのシャツをクローゼットに叩き込み、床の雑誌をベッドの下に押し込む。見切れていた本棚は、カメラの死角へと、必死に移動させた。
だが、殺風景な白い壁だけでは、あまりにも味気ない。
俺は、本棚の中から、最もインテリジェンスが高そうに見えるビジネス書と、村上春樹の小説を数冊抜き出し、わざとらしく、壁際に立てかけた。
【スキルチェック:インテリアコーディネート → FAILED!】
【称号:付け焼き刃 を獲得しました】
次に、照明問題。
部屋のシーリングライトは、上からのっぺりとした光を当てるだけで、顔の影を濃くしてしまう。
俺は、デスクライトを顔の斜め前から当てることを思いついた。だが、直接当てると、光が強すぎて、まるで尋問室のようになってしまう。
どうする…?
俺は、ネットで検索した知識を思い出した。『光は、拡散させると、柔らかくなる』。
俺は、キッチンから一枚のハンカチを取り出し、洗濯バサミで、デスクライトの傘に、無理やり固定した。
スイッチを入れる。部屋にかすかに、布の焦げる匂いが漂ったが、画面に映る俺の顔には、確かに、自然で、柔らかな光が当たっていた。
最後に、アングル問題。
机の上に置いたノートPCのカメラは、どうしても、俺の顔を下から煽るような、最も尊厳を失わせるアングルになってしまう。
俺は、本棚から、これまで読破してきた、分厚い技術書の数々を、誇りと共に、机の上に積み上げた。
一冊、二冊…。Java、C++、Python…。俺のエンジニアとしてのキャリアが、今、カメラのアングルを調整するという、最も原始的な目的のために、土台となっていく。
そして、ついに、カメラが、俺の目線の高さと、完全に水平になった。
ふぅ、と息をつく。
目の前のPC画面に映っているのは、もはや、アンデッドではない。
背景には、知的な書籍(の背表紙)。
柔らかな照明に照らされた、穏やかな表情。
完璧なアングルから捉えられた、自信に満ちた(ように見える)顔。
それは、虚構と、涙ぐましい努力によって作り上げられた、完璧なまでの、『理想の俺』だった。
その時、頭の中で、あの音が鳴った。
ピロリン!
【NEW SUB-SKILL DISCOVERED!】
『容姿』のサブスキルとして、『デジタル映え』が解放されました!
現在の『デジタル映え』ランクは G です。
【TRAINING BONUS!】
あなたの涙ぐましい努力により、経験値を獲得しました!
『デジタル映え』ランクが G → G+ にアップしました!
やった…。俺は、新たなスキルを、手に入れた。
俺が、静かな達成感に浸っていると、PCの画面に、ポップアップが表示された。
『ミーティングのホストが、あなたを待っています』
時間だ。
俺は、ジャケットの襟を正し、KENTOさんにセットしてもらった髪を、そっと撫でた。
カメラの死角には、カンペとして、相手のプロフィールと、想定問答集を書きなぐったメモ用紙が、完璧な位置に配置されている。
準備は、万端だ。
俺は、震える指で、マウスを操作し、『ミーティングに参加する』のボタンを、クリックした。
画面が切り替わり、接続中のマークが、くるくると回る。
俺は、こうして新たな戦場へ挑戦するのだった。




