第十九話:印象に残らないエンカウント
橘志保という名の、超高難易度ダンジョン。
小野寺陽菜という名の、見えざる罠が満載のダンジョン。
俺が、二つの性質の全く異なるクエストに、頭を悩ませていた数日後のことだった。霧島さんとの定期面談で、彼女は俺の活動報告書を一瞥し、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で、こう告げたのだ。
「樋口さん。あなたは今、非常に個性の強い、二つの『理想』と『挑戦』という名の攻略対象に、心を揺さぶられています。それは、良い経験です。ですが、その二つだけを比較対象にしていては、あなたの判断基準そのものが、歪んでしまう危険性がある」
「判断基準が、歪む…?」
「ええ。あまりにも辛い料理と、あまりにも甘い料理だけを食べていては、本当に美味しい『普通の食事』の味が、分からなくなってしまうでしょう。今のあなたに必要なのは、基準点を知るための、新たなデータ収集です」
彼女の言っていることは、いつものように、恐ろしく論理的で、反論の余地がなかった。
そして、彼女は、一枚のプロフィール写真を、俺の前に差し出した。
「あなたの判断基準を較正するために、最適な方をご紹介します」
そこに写っていたのは、これまでの誰とも違う、女性だった。
派手さはない。だが、地味でもない。
清潔感のあるブラウスを着て、証明写真のように、まっすぐこちらを見つめている。微笑んではいるが、陽菜さんのような母性的な笑顔でも、エリカのような計算された笑顔でもない。ただ、穏やかに、微笑んでいる。
【佐藤 美咲 / 38歳 / 職業:メーカー事務】
趣味:読書、映画鑑賞
自己PR文:穏やかな毎日を、一緒に過ごせる方と出会えたら嬉しいです。
全ての項目が、完璧なまでに『普通』だった。
尖った部分も、極端にへこんだ部分もない。まるで、RPGのキャラクターメイキングで、全てのパラメータを平均的に割り振った、初期設定の村人のようなプロフィール。
それが、俺の、次なる対戦相手だった。
【NEW QUEST:基準点の較正】
【目的:『平均的』アーキタイプのデータを収集せよ】
週末。俺は、新宿駅に隣接した、ホテルのカフェラウンジにいた。
そこは、志保さんと会った帝国ホテルのような重厚さも、陽菜さんと会った高層階の開放感もない。ただ、どこにでもある、少しだけお洒落で、当たり障りのない空間だった。今日の対戦相手に、あまりにもふさわしい戦場だ。
約束の時間きっかりに、彼女は現れた。
「初めまして、佐藤です」
「初めまして、樋口です」
実物の佐藤美咲さんは、プロフィールの印象、そのものだった。
服装も、髪型も、メイクも、全てが平均的で、無難。悪いところは、一つもない。だが、記憶に残るような、特徴的な部分も、一つもなかった。
彼女は、まるで、風景に溶け込んでしまう、保護色を纏っているかのようだった。
席に着き、会話が始まった。
それは、これまでで最も、スムーズな会話だったかもしれない。
「お仕事は、メーカーで事務をされているんですね」
「はい。もう、15年くらいになります」
「すごいですね! 僕もSEをやってまして…」
「まあ、SEさん。難しそうなお仕事ですね」
会話は、教科書のように、完璧なキャッチボールで続いていく。
俺は、第六話で習得したスキル、『傾聴』と『質問』を、フル活用した。
「お休みの日は、何を?」
「そうですね…家で映画を観たり、本を読んだりすることが多いです」
「へえ、映画ですか。どんなジャンルがお好きなんですか?」
「特にこだわりはなくて、何でも見ますよ。樋口さんは?」
「僕も、結構何でも見ますね」
会話が、弾んでいるようで、弾んでいない。
盛り上がっているようで、盛り上がっていない。
だが、不思議なことに、気まずい沈黙は、一切訪れなかった。
彼女は、俺の話を穏やかに聞き、当たり障りのない質問を返してくる。俺もまた、当たり障りのない返答を繰り返す。
それは、まるで、AIのチャットボットと会話しているかのような、完璧な、しかし、魂のないセッションだった。
彼女には、中村エリカのような、自己顕示欲も、橘志保のような、攻撃性も、小野寺陽菜のような、無言の圧力も、一切なかった。
ただ、穏やかで、優しくて、そして、驚くほど『無害』なのだ。
一時間という制限時間は、あっという間に過ぎ去った。
俺たちは、コーヒー代をきっちり割り勘にし(彼女がそれを望んだ)、そして、出口で、当たり障りのない挨拶を交わした。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
そして、別れた。
それだけだった。
帰りの電車の中。俺は、今日のエンカウントを反芻しながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
悪くなかった。
いや、むしろ、良かったとさえ言えるかもしれない。
嫌なところは、一つもなかったのだから。
俺は、霧島さんに提出するレポートを作成するため、スマホのメモアプリを開いた。
いつものように、項目を打ち込んでいく。
【佐藤美咲さんとの面談レポート】
・第一印象:
……穏やかで、優しい印象。
俺は、そこで、指を止めた。
あれ? 佐藤さんって、どんな顔をしていたっけ…?
思い出そうとするのだが、なぜか、その顔が、靄のかかった風景のように、ぼんやりとしか浮かんでこないのだ。髪型は、確か、肩くらいの長さだったか…? いや、もっと短かったような気もする。服装は、ベージュの…カーディガンだったか? ブラウスだったか?
おかしい。俺は、一時間も、彼女と向き合って、話をしていたはずなのに。
俺は、さらに、レポートを続けようとした。
・会話内容の要約:
仕事の話、休日の過ごし方、好きな食べ物の話…。
だが、そこから先が、書けない。
具体的に、どんな映画の話をした? 彼女の仕事の、どんなエピソードが印象に残った?
何も、思い出せない。
俺たちの会話は、水面に描いた文字のように、跡形もなく、消え去ってしまっていた。
その事実に気づいた瞬間、俺の背筋に、ぞくり、と、これまで感じたことのない種類の、奇妙な悪寒が走った。
彼女は、まるで、この世界に、何の痕跡も残さない、幽霊のようだった。
そして、俺は、ようやく、理解したのだ。
霧島さんが、俺にこのクエストを与えた、本当の意味を。
俺は、これまで、婚活というゲームを、『減点法』でプレイしていたのだ。
相手の欠点を探し、マイナスな部分がないかをチェックし、赤点が付かなければ『合格』だと。
佐藤美咲さんは、そのテストで言えば、100点満点だった。マイナスな要素が、一つもなかったのだから。
だが、結婚とは、そういうゲームではない。
誰かと共に人生を歩むということは、『マイナスがないから、仕方なく選ぶ』ことではない。
『この人でなければダメだ』という、強烈なプラスの引力に、引かれていくことなのだ。
それは、『加点法』の世界。
橘志保の、あの面倒くさいほどの知性は、俺にとって、強烈なプラスの魅力だ。
小野寺陽菜の、あの息苦しいほどの『普通』へのこだわりも、見方を変えれば、温かい家庭を築くという、強烈なプラスの意志の表れだ。
そして、佐倉紬の、あのゲームへの純粋な情熱は、何物にも代えがたい、最高のプラスの価値を持っている。
彼女たちには、欠点も、面倒な部分もたくさんある。
だが、それ以上に、俺の心を強く惹きつける『何か』があった。
佐藤美咲さんには、それが、なかった。
ただ、それだけなのだ。
【INSIGHT! 勇者は、世界の理の一端を理解した!】
【あなたの『社会性:結婚観』の経験値が、大幅に上昇しました!】
【新スキル(パッシブ):加点法思考 Lv.1 を習得しました!】
メモアプリを閉じた。
今日のレポートに、書くべきことは、もう何もなかった。
だが、俺の心の中には、これまでのどのクエストよりも、大きく、そして、重要な学びが確かに刻み込まれていた。
婚活とは、間違い探しのテストではない。
宝探しの、冒険なのだ。
窓の外の夜景を見つめた。
街の光が以前よりも少しだけ、鮮やかに見えた気がした。
俺の進むべき道がほんの少しだけ照らされた、そんな夜だった。




