第十一話:決戦前のブートキャンプ
俺の脳内OSは、完全にクラッシュしていた。
画面には、致命的なエラーメッセージが、赤文字で点滅し続けている。
【WARNING: クエストの重複受注エラーが発生しました】
【CONFLICT: [癒やしの聖域] と [灼熱の火山] の攻略時間が競合しています】
【SYSTEM ALERT: 適切な対応をしなければ、全てのフラグが折れる可能性があります】
「ど、ど、ど、どうすりゃいいんだよぉぉぉぉっ!!!」
会社のデスクで、俺は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えて突っ伏した。
スマホの画面には、二つの全く異なる未来が、残酷なまでに並行して存在している。
片や、tsumugiさんとの、心安らぐオフ会。共通の趣味で笑い合える、癒やしの時間。それは、俺がずっと求めてきた、等身大の幸せの形だ。
片や、橘志保との、お見合いという名のボス戦。圧倒的なレベル差。一瞬で凍り付かされるような、緊張と恐怖の空間。だが、霧島さんの言う通り、これは千載一遇のチャンスなのかもしれない。
選べない。選べるわけがない。
まるで、ゲームの重要な分岐点で、セーブもせずに選択を迫られているようだ。どちらを選んでも、もう片方のルートは、永遠に閉ざされてしまうかもしれない。
俺は、混乱する頭で、一つの結論に達した。
今の俺のレベルでは、この高難易度な判断は不可能だ。攻略情報が必要だ。そうだ、このゲームの、唯一にして最強のナビゲーターに、助けを求めるしかない。
俺は、半狂乱の状態でスマホをタップし、結婚相談所の予約フォームに『緊急の相談』と打ち込んだ。
翌日の夕方。
面談室の扉を転がり込むように開けた俺の、鬼気迫る表情を見た霧島さんは、眉一つ動かさなかった。
俺は、事の経緯を、早口で、そして支離滅裂に説明した。tsumugiさんとの約束のこと。橘志保からの、謎の申し込みのこと。そして、二つの予定が、土曜の午後に完璧に重なっているという、絶望的な事実を。
俺の話を最後まで黙って聞いていた霧島さんは、ふぅ、と小さなため息を一つついて、静かに口を開いた。
「――樋口さん。それは、悩むことではありません。RPGの基本戦略です」
「き、基本戦略…?」
「ええ。言うなれば、あなたは今、『心優しい村娘との楽しいおしゃべり』というサイドクエストと、『めったに出現しない伝説のドラゴンとのエンカウント』というメインクエストの発生時間が、偶然重なってしまったようなものです」
彼女は、氷のように冷徹な瞳で、俺を見据えた。
「どちらを優先すべきか、答えは明白でしょう? ドロップする経験値も、手に入る可能性のあるレアアイテムも、桁が違います。あなたは、橘志保とのお見合いを、最優先で実行するのです」
その言葉は、あまりにも合理的で、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。
だが、俺の心は抵抗した。tsumugiさんとの約束は、俺にとってただの「サイドクエスト」ではない。傷ついた心を救ってくれた、大切なイベントだ。それを、どうやって反故にすればいい?
俺の葛藤を見透かしたように、霧島さんは続ける。
「村娘は、また村に行けば会えます。ですが、伝説のドラゴンは、二度とあなたの前に現れないかもしれない。それに、今のあなたには、まだ村娘と対等に話せるだけの『人間的魅力』というステータスが、決定的に不足している。まずは、よりレベルの高い敵と戦い、己のレベルを上げることこそが、全てのルートを攻略するための最短距離です」
ぐうの音も出なかった。
彼女の言う通りだ。今の俺が、tsumugiさんに会ったところで、一体何ができる? 画面の向こうの『アキラさん』という幻想を、現実の冴えない俺が、上書きできるはずがない。
「…わかり、ました…」
俺は、絞り出すような声でそう答えた。
「では、tsumugiさんには、どうやって断れば…」
「『急な仕事が入った』。これが、最も波風の立たない、大人の断り方の定石です」
俺は、霧島さんの目の前で、スマホを取り出し、tsumugiさんへのDM画面を開いた。
指が、鉛のように重い。
一文字、一文字、嘘を打ち込んでいくたびに、罪悪感という名の毒が、俺の心を蝕んでいく。
『ごめんなさい、急な仕事のトラブルで、土曜日は出勤になってしまいました。本当に申し訳ないのですが、オフ会の件、延期させてもらえませんか?』
送信ボタンを押す指が、震える。
これで、彼女に嫌われてしまったら? もう、二度と話せなくなってしまったら?
俺は、目を固く閉じて、送信ボタンをタップした。
すぐに、スマホが震えた。
tsumugiさんからの返信だった。俺は、恐る恐る、そのメッセージを開いた。
『そうだったんですね!お仕事、大変ですね…!無理しないでくださいね。オフ会は、またいつでも!アキラさんの都合のいい時で大丈夫ですから、気にしないでください!頑張ってくださいね!』
文面の最後には、可愛らしいキャラクターが『ファイト!』と拳を突き上げているスタンプが添えられていた。
俺は、その画面を見つめたまま、動けなかった。
彼女の優しさが、鋭い刃となって、俺の胸に突き刺さる。
【樋口彰は 500 の精神ダメージを受けた!】
【ステータス異常:罪悪感 を付与された!】
「――感傷に浸っている暇はありませんよ、樋口さん」
霧島さんの声が、俺を現実に引き戻した。
「決戦は、今週の土曜日。残された時間は、わずかです。今日から、あなたには私の組んだ、特別ブートキャンプに参加していただきます」
その日から、地獄の特訓が始まった。
まず、行われたのは『テーブルマナー訓練』だった。霧島さんは、面談室のテーブルに、高級そうなティーカップとケーキ皿を並べた。
「橘さんとのお見合い場所は、帝国ホテルラウンジ『アクア』。あなたのマナーは、常に監視されていると思いなさい。まず、そのフォークの持ち方。それは、ペンですか?違います。こうです」
彼女の指導は、ミリ単位の正確さを要求し、俺が少しでも気を抜くと、竹刀で叩かれんばかりの鋭い視線が飛んできた。
次に、『エスコート術訓練』。
面談室の扉を、ホテルのラウンジの入り口に見立て、入店から着席までを、何度もロールプレイングさせられた。
「違います、樋口さん!ドアはあなたが先に開ける!そして、彼女が通り過ぎるまで、ドアを押さえて待つのです!」「椅子は!彼女が座りやすいように、少しだけ引いてあげる!そんなに引いたら、彼女が尻餅をつくでしょう!」
俺は、ぎこちない動きで、何度も扉と椅子の間を行き来し、汗だくになった。
そして、特訓の総仕上げは、『会話シミュレーション』だった。
霧島さんは、冷徹な『橘志保モード』になりきり、彼女のプロフィールから想定される質問を、次々と俺に浴びせてきた。
「あなたの五年後のキャリアプランは?」
「趣味のゲームから、あなたはどのような具体的なメリットを得ていますか?」
「あなたが、結婚という共同事業において、私に提供できる価値は何ですか?」
俺の答えは、ことごとく「論理的思考の欠如」「具体性の不足」「感情論」と、木っ端微塵に論破された。俺のHPは、もはや風前の灯火だった。
霧島さんは、模範解答を、一つ一つ、俺の脳髄に叩き込んでいく。それは、俺を俺でなく、まるで『橘志保攻略用アンドロイド』に作り変えていくような、恐ろしい作業だった。
そして、決戦前夜。金曜日の夜。
俺は、疲れ果てた体で、自室の机に向かっていた。
目の前には、霧島さんに叩き込まれた想定問答集のメモが、山のように積まれている。
俺は、コンビニで買った焼き魚弁当を食べながら、数日前に習得したばかりの、ぎこちない手つきで、魚の骨を丁寧に取っていた。
その、骨が、綺麗に取れた瞬間だった。
ピロリン!
頭の中で、あの懐かしいレベルアップの音が、鳴り響いた。
【SPECIAL TRAINING COMPLETE!】
【STATUS UPDATE】
『マナー』ランクが G → F にアップしました!
新スキル『高級店作法(初級) Lv.1』を習得しました!
俺は、静かに顔を上げた。
鏡に映った自分の顔は、疲労でやつれてはいるが、その瞳の奥には、これまでにはなかった、覚悟の光が宿っている気がした。
ひのきのぼうと布の服しか持たなかった俺の手に、今、一本の『鉄の剣』が握らされている。
それで、伝説のドラゴンに勝てるとは思えない。
だが、少なくとも、何もできずに一方的に蹂躙される未来だけは、回避できるかもしれない。
俺は、静かに立ち上がり、クローゼットにかけた、あの新しい戦闘服に、そっと手を触れた。
決戦は、明日。
俺は、震える心に、活を入れた。




