第一話:プロローグ:ステータスもセーブデータも初期化されました
カチリ、と無機質な金属音が響き、俺は3LDKの静寂に迎えられた。
蛍光灯のスイッチを押すと、一拍遅れて白い光が部屋の隅々までを照らし出す。広すぎるリビングダイニング、一人には不釣り合いな大きさのソファ、そして、決して二人で囲むことのないダイニングテーブル。これらは全て、35年の住宅ローンという長期クエストの過程で手に入れた『装備品』であり、俺の社会的信用の証でもあるはずだった。
だが、今の俺にとって、この空間はただだだっ広いだけの『ダンジョン』に過ぎない。主の帰りを待つ者は誰もいない。モンスターも、もちろん姫もいない。ただ静寂という名の呪いが、部屋の隅々にまで満ちているだけだ。
俺、樋口彰、38歳。中堅IT企業に勤めるシステムエンジニア。来月には39になる。
今日の夕食は、会社近くのコンビニで手に入れた幕の内弁当だ。アイテム名は『幕の内弁当(消費アイテム)』。効果は『HPを微量回復、満腹度を70%満たす』。しかし、隠しパラメータとして『MP(精神力)に-10の継続ダメージ』『ステータス異常:孤独を付与』という、致命的なデバフ効果があることを俺は知っている。
レンジで温めた弁当の蓋を開けると、湯気と共に画一的な惣菜の匂いが立ち上った。焼き魚の小骨を丁寧に取り除きながら、俺はぼんやりとテレビの画面を眺める。人気俳優と若手女優が、幸せそうに新発売のビールのCMではしゃいでいる。ああいうキラキラした世界線は、俺の人生のシナリオ分岐には、とうの昔に存在しなくなっていた。
学生時代。そう、あの頃はまだ、俺にも可能性があった。
クラスで一番可愛いかった佐藤さんの、髪を切ったことに一番に気づいて「似合うね」と言えた日。彼女がはにかんで「ありがとう」と言ってくれた瞬間、俺の心臓はファンファーレを鳴らした。告白という名の『コマンド』を入力すれば、あるいは『イベントクリア』できたかもしれない、甘酸っぱい記憶。
しかし、俺はいつだって肝心なところで『たたかう』を選べず、『にげる』どころか『ぼうぎょ』でターンをやり過ごしてきたチキンな勇者だった。結果、佐藤さんはサッカー部のエースと付き合い、俺のセーブデータには『ほろ苦い思い出』という名のキーアイテムだけが残された。
就職してからは、さらに状況は悪化した。
IT業界という名の『男のダンジョン』。フロアには、チェックシャツを装備した同族の魔法使い(プログラマー)や戦士がひしめき合い、女性社員は転職や結婚であっという間にパーティから離脱していく。サーバーの熱気と、カフェインの匂い。納期前には、会社の床で雑魚寝するという『ビバーク』を繰り返し、俺は着実に『職業レベル』と『年収』というステータスだけを上げてきた。
気がつけば、30代はあっという間に過ぎ去っていた。新しい技術を習得し、プロジェクトをいくつも成功させた。後輩もでき、チームリーダーという『称号』も手に入れた。
年収は500万円を超え600万に迫っている、このマンションも買った。社会的ステータスは、決して低くはないはずだ。
――なのに、どうして。
どうして、俺の心はこんなにも満たされないんだ?
食べ終えた弁当の空き容器をゴミ箱に放り込む。プラスチックが立てる乾いた音が、やけに大きく響いた。
シンクに溜まった、自分のためだけに使った食器。
クローゼットに並んだ、誰に見せるでもない、くたびれたワイシャツ。
本棚を埋め尽くす、技術書と、クリア済みのゲームソフト。
俺の人生、このままエンディングを迎えるのか?
スタッフロールに流れるのは、俺の名前だけ。観客もいない。拍手もない。ただ、『Game Over』の文字が、無慈悲に表示されるだけ。
「――嫌だ」
思わず、声が漏れた。
このままじゃダメだ。このまま、一人で死んでいくなんて、絶対に嫌だ。
俺のHPは、まだ尽きていない。回復アイテムだって、まだ買えるだけのゴールド(貯金)はある。
俺は衝動的にノートPCを開き、震える指で検索窓にキーワードを打ち込んだ。
『こ・ん・か・つ』
表示されたのは、無数の攻略サイト(婚活情報サイト)だった。マッチングアプリ、婚活パーティー、結婚相談所…。現代の勇者には、かくも多くの出会いの『クエスト』が用意されているのか。
まずは一番手軽そうな『マッチングアプリ』に挑んでみることにした。これが、地獄の始まりだった。
プロフィール写真には、3年前に社員旅行で行った温泉旅館で、同僚が撮ってくれた一枚を選んだ。少しピンボケしているが、一番マシなやつだ。自己紹介文には、『都内でSEをしています。趣味は映画鑑賞とゲームです。誠実なお付き合いを希望しています』と、無難な定型文を打ち込んだ。
これでいいだろう。俺は、祈るような気持ちで『登録』ボタンをクリックした。
――結果、惨敗。
登録してから二週間。俺に送られてきた『いいね!』は、わずか7件。
そのうちの5件は、明らかに日本語が怪しい海外の投資勧誘アカウント。1件は、どう見ても俺の母親より年上であろう女性。そして最後の1件は、登録したてのサクラっぽいアカウントだった。
俺から送った『いいね!』は、50件を超えていたが、マッチングしたのはたったの2件。そのどちらも、二言三言メッセージを交わしただけで、返信は途絶えた。俺の放った渾身の魔法は、ことごとく『効果がなかったようだ』と表示され、MPだけが削られていく。
俺の市場価値、こんなに低いのか……。
アプリの画面を閉じ、俺は天井を仰いだ。惨敗。その一言に尽きた。俺のステータスは、この婚活という戦場では、あまりにも無力だったのだ。
もうダメだ。詰んだ。
諦めかけたその時、俺の脳裏に、数日前にぼんやりと眺めていたテレビCMが蘇った。
明るいBGMと共に、幸せそうなカップルが微笑み合う映像。そして、優しい女性ナレーターの声。
『あなたにぴったりの相手が見つかる! ――大手結婚相談所〇〇』
結婚、相談所……。
それは、俺のようなコミュニケーション能力に自信のない勇者のための、最後のセーブポイント。あるいは、金で経験値を買う、禁断の裏技。
正直、抵抗はあった。自分の力で出会いも見つけられないのか、という情けなさ。システムに管理されて、相手を紹介されるという無機質さ。
だが、もう俺には、残された選択肢はなかった。
俺は、震える手でその結婚相談所の名前を検索し、無料カウンセリングの予約ボタンをクリックした。
そして、週末。
俺は、指定された住所のビルを見上げていた。
都心の一等地ではあるが、きらびやかな商業ビルではない。様々なテナントが入った、少し古びた雑居ビルだ。1階には中華料理屋、隣には小さなクリニック。お目当ての結婚相談所は、その7階にあるらしい。
エレベーターに乗り込み、『7』のボタンを押す。密室で上昇していく数秒が、永遠のように感じられた。
チーン、という軽い音と共に扉が開く。
フロアの奥に、目的の扉が見えた。
乳白色のガラス扉に、上品なゴシック体で、その名前が記されている。
俺は一度、ゴクリと唾を飲んだ。
服装は、昨日ユニクロで新調した、無難なジャケットとチノパン。髪は、今朝1000円カットで整えてきた。装備は、これで万全なはずだ。
緊張とほんの少しの楽観。そして、大きな不安。
様々な感情がごちゃ混ぜになったまま、俺はゆっくりと扉に手を伸ばした。
ここから、俺の人生の新しいクエストが始まる。
レベル38の冴えない勇者の最後の冒険が。
俺は大きく息を吸い込んで、その扉を押した。