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落雷

作者: ユキダマウミウシ

 ──落雷みたいなひとだった。

 水の流れに逆らわないで、流されるままぷかぷかと水に浮かんで生きてきた。やわい水に浸かりすぎたわたしには、あのひとの雷は強烈だった。

 あのひとは魔女だった。実際はそうでなかったかもしれないけれど、もう確かめようがない。


「どうしてこんな所にいるの」

 あの日、わたしは虫取り網を浅いドブの中でゆらゆらと動かしていた。まだ小学生になったばかりの春だった。可愛いふりふりのついた黒色のスカートは、しゃがみこむわたしのせいで土にまみれたコンクリートについていた。大人の声にびっくりして振り返ったのを覚えている。

「これぐらいおおきい、ザリガニをつかまえたっていってたから」

「…?危ないよ、こっちに来て」

「ちーちゃんはおちたことあるけどっ、わたし、ないもん!」

 見知らぬ美しいひとだった。大人のような声に反してあのひとはまだ高校生だった。

 親との約束を破り少し遠くまで来ていたわたしは、罪悪感からあのひとから走って逃げようとした。逃げようとした、のは気持ちだけで実際には体は金縛りにあったかのごとく固まり、その場にしゃがみこんだまま動けなかった。

 わたしはあの日、近所の仲の良い友人に、「こんなにでかいザリガニを2匹も捕まえたんだ、その前に神社にヘラクレスオオカブト捕まえたから飼えなかったけど」と言われていた。今思えば、ヘラクレスオオカブトが、日本のただの田舎の神社で捕れるはずがなかった。まだ寒かった春にはザリガニだって、動いているものは少数だ。

 当時のわたしは分からなかったので、彼の見栄っ張りを真に受けて虫取り網とバケツを持って飛び出した。虫かごを買ってもらったばかりで、それで彼の言う大きなザリガニを飼いたいと思ったから。


「マムシが出て、みんな家から出ないようにって言われてる」

「まむし?」

「毒蛇。今大人たちが駆除のために集まってる。家はどこ?」

「あっち」

「神社を通った先か……うーん……一旦私の家においで」

 そう言って手を伸ばしたあのひとは真っ白だった。髪の1本1本にいたるまで芯から白く、くもりの空と噛み合わない異質な1輪の花のよう。まつ毛も眉毛も銀白色であり、朝露を吸った山荷葉のように、繊細さと可憐さの美の結晶だった。

 瞳は色素の薄い青色。じっと困り果てた灰青色からの視線は、ぼうっと金縛りにあったかのごとく動かなかった体を、かあっと熱で焦がした。ザリガニ捕りをしている自分が急に幼く思えてきたのだ。

 空気に触れた虫取り網から垂れた滴がぽちゃんと音を立て、水の向こうでゆらゆらしていた赤色が慌てて逃げる。くもり空を映していた水面は泥色で埋め尽くされた。

 

 『アルビノ』という言葉を知りもしなかったわたしにとって、美の真骨頂とさえ言えたあのひとは、この世のものとは思えなかった。

 紫外線への防御力が低い『アルビノ』、わたしはそのことを知らず、黒ずくめの格好と血の透けた乳白色の肌のコントラストが、ただただ恐ろしいほどに美しいと思った。だから魔女だと思った。世界がひっくり返るような衝撃で、眩しかった。

 

 あの日、あたりはやたらと静まり返っていた。梅雨前に鳴くカエルの声すら聞こえてこなかった。手を引かれたときのひんやりとした冷たさが、今でも手首に蘇る。

「おいで」

 そう言って招かれた場所に住んでいたのは、あのひとだけだった。人目を避けるように建てられた1階だけの小さな家に、これでもかというほどのものの数々。

 宝石の詰められたビン、壁1面の本棚、クローゼットに入れられた綺麗な服やら帽子やら、白色のパソコン、積み上げられたプレイステーションや3DSのカセット、モルフォ蝶の標本、高価そうな白と青の食器、ギターとクラリネット、釣竿、スノードーム、うさぎや犬のぬいぐるみ、モネの複製画、貼り付けられた旅の写真───。

 目まぐるしくて進めば進むほど夢の詰まった秘密基地だった。上品な甘さのショートケーキがココアとともに出てきて、もうそれだけであのひとのことが大好きになっていた。


「いろんなことをやってきたんだよ」

 上がるテンションに任せて、あのひとの家中をあっちこっちと目線を動かしていると、あのひとは静かにそう言った。

「あんまり外に出られないし、視力もすごく悪いから、学校に行けないし…見てると辛いでしょ。だから私は1人で住んで、自由に生きてるの」

 そう言ったあのひとは、すごく悲しそうで、真綿で首を絞められているかのような顔をしていた。

 わたしはそれをぼうっと見ていた。目が離せなかった。

 ───それからぽつぽつとあのひとは、小さな箱庭に詰められたきらきらなものについて語った。

「マムシの駆除終わったみたいですよ〜」

 ピンポンという音と共にされた報告が、穏やかな哀しさに包まれた空気を、あっさりと壊してしまうまで。


「またマムシが出るかもしれないからまっすぐ帰ってね。浅いドブでも危ないからもう1人で来ちゃだめだよ」

 久しぶりに人と話した、と笑っていたあのひとは、私の身長にあわせて屈んで、悲しみがうっすらと宿る瞳でじっとわたしを見た。思わず血管の透けた白の頬に手を伸ばす。幼児の気まぐれだと思われたことだろう。ふふ、と笑ったことにすごく安心したのを覚えている。

 そのあと、薄いピンクのビー玉をわたしの手に握らせ、少し躊躇ったあと口を開いた。

「……ねえ、お願い、私を忘れないで。私がいたんだって、ちゃんと生きていたって、覚えていて」



 ───落雷だった。

 びりと背中に電気が流れたようだった。ごめんね変なことを言ったね、という言葉が耳を素通りした。わたしを、根本から変えたとさえ言える。忘れられない。ぽつりと零された約束が、わたしの生きる道筋になった。恋では少ない。愛でさえ足りない。悲しみで溺れるあのひとを救わねばと思った。もはや信仰対象のようで、天啓だった。これが、この美しいひとを忘れないでいることが、わたしの生きる理由だと。


 あのひとはそのあとすぐ、入院することになったという。退院したのか、それとも、は分からない。わたしもすぐ引っ越すことになったからだ。幼すぎて、あの場所の人達の連絡先を知ることは無かった。

 ただ、二度と会えないことだけは、なぜかはっきりと分かってしまった。

 歳を重ねるごとにどんどん陶酔してしまう。あのひとの美化は進む。ぜんぶが綺麗で唯一の記憶になっていく。わたしにとってあのひとは魔女、雷を落としていなくなったひと。

 わたしのこれからは後日談でしかない。もはや全てが。

 たった1日、たった1つの勝手に守り続けている約束。それなのにわたしの人生の中心にあのひとはいる。

 もう会えない落雷のひと。わたしはあのひとを忘れられない。

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