虐げられ令嬢リーゼロッテの書いたこと
ホープ伯爵家に長女リーゼロッテからの手紙が来た。
リーゼロッテはちょうど昨年の今頃、辺境伯領グリムローズに旅立っていた。
辺境伯エルヴィオ・グリムローズの婚約者として、行儀見習いを名目に厄介払いされたのだった。
「ねえねえお父様ァ」
金色の髪の毛を誇らしげに揺らし、愛らしいアリサが執務室に顔を出す。リーゼロッテの異母妹である。
当主ジュリアン・ホープ――リーゼロッテとアリサの父親は顔を上げ、破顔した。
「おお、かわいいアリサや。リーゼロッテが手紙を寄越したよ。おいで。見るといい」
「えー、お姉様? くす。貧乏なド田舎の領地に行ってつらいですーって泣きついてきたの? まさかお父様、助けてあげるつもりじゃないでしょうね?」
「まさか! フン。あいつは憎い前妻の娘だからな。せいぜい貧乏になって、泣けばいいと思っていたのさ」
うふふふふ。
父と娘はそっくりな笑みを交わし合った。
リーゼロッテの亡き母と父ジュリアンは不幸な政略結婚であった。前妻が死ぬと、ジュリアンはせいせいしたとばかりに妾を家に入れ、再婚した。
リーゼロッテとアリサは同い年だ。つまりはそういうことだった。
二人は身を寄せ合って手紙を覗き込んだが、次第に同じように顔色をドス黒く変色させ、怒り出した。
「なにこれ!? お父様、聞いてた話と違うわよ! 代々いとこ同士が結婚する呪われた貧乏辺境伯じゃなかったの!」
「辺境伯領はろくな産業もなく、伯本人もコネもない貧乏貴族だと聞いていたのに……。新しい鉱山が出ただと! そしてあの娘とその夫が、その権益を独占するというのか!? 嘘だ、ありえん!」
リーゼロッテの手紙には、こうつづられていた。
いわく、辺境伯領についてすぐに秘められた魔力が覚醒。それは【サーチ】のスキルで、彼女はそれでグリムローズ辺境伯領の北の山脈に魔石の鉱脈を発見した。
夫の辺境伯エルヴィオ・グリムローズは喜び、最初は嫌っていたリーゼロッテを愛してくれるようになった。
今は採掘業者と人足を集め、出資をつのり、これから得られるであろう莫大な魔石の産出とその交易の準備ため日々寝る暇もありません。
……つきましてはお父様、ジュリアン・ホープ伯爵様もひとくち出資に乗りませんか。
「ありえない、ありえないありえないありえないありえないイイィィィイイイ!! 許せないー! 許さない、お姉様が幸せになるなんてェー!」
とアリサは絶叫した。
「おのれ、どこまでも疫病神め! このおれに金を出せなどと、しかも配当は考慮するだなどと見下しよってー!」
とジュリアンは机の上の魔法ランプを怒りに任せ打ち砕いた。
父と娘は本当によく似ていた。
どちらも、一度憎むと決めた相手をとことんまで憎みぬくことで精神を安定させていた。
ジュリアンは亡き妻を。アリサは異母姉を。
アリサは思い返していた。かつて、リーゼロッテが憐れみの視線とともによこした言葉を。
「そんなふうに憎んで憎んで……憎しみ抜いて、何になるというの。今ある幸せに目をお向けにおなりなさい。健康でお優しいご両親がいて、あなたほど幸せな女の子はこのホープ領に他にいないでしょうに」
と。
あまりに腹がたったので、そのときアリサはリーゼロッテに椅子を投げた。
異母姉はひらりと身軽にそれを躱し、けれど結局そのせいで窓が割れたから母や上級使用人に怒られていい気味だった。
リーゼロッテは窓の代金ぶんの食事を抜かれた。彼女の食事も身なりも下級使用人と同じものだったので何日もひもじそうで愉快だった。
「お父様、こうしちゃいられないわっ」
アリサはキリッと眉を寄せて父を見る。ああ、と父も頷く。
「お姉様が幸せだなんて許しちゃダメッ」
彼らは力強く頷きあった。
一方その頃、アリサの母である平民女は愛人の若い学生と楽しく浮気旅行をしていた。
ジュリアン・ホープはそれを礼拝の旅だと説明され、その通りに受け取っていた。平民女に舐められていることにさえ気づかない愚鈍な男、そしてその娘であった。
***
辺境伯エルヴィオ・グリムローズが開いた、新しい鉱山とその活用についての説明会。出資者である貴族をはじめその夫人や使用人までが泊まり込み、夜には舞踏会が開催される華やかな催しだった。
リーゼロッテは何か月もこの催しの準備に時間を費やしてきた。すべてはこのためにあったのだと、今では静かに納得していた。
バタンと扉を開けて、エルヴィオが入ってきた。
「おい、都の貴族どもの寝室は整えられたのか? 奴らの舌に合わせて作ったソースとやらは万全か?」
「はい、旦那様」
「そのために新しいメイドだのシェフだのを雇ったのだからな。完璧にもてなせなかったらどうなるかはわかっているな?」
「はい、旦那様。心得ております」
リーゼロッテはスカートの裾をつまみ、美しい所作で一礼する。亡き母が教えてくれた通りに。
もし旦那様が不機嫌そうであれば、神に礼拝するようにうやうやしく接しなさい。その程度のことで回避できる災厄ならば、そうしてほうがいいわ、リゼ。
エルヴィオは美男だった。身長も高く、体格もいい。
こうして目の前に立たれると、リーゼロッテは壁か塀を前にした心地になる。
「ふん。相変わらず顔だけはいい……いいか、リーゼロッテ。私はまだお前を正式に妻に迎え入れると決めたわけではない。まだ婚約者候補といったところだ。鉱脈を見つけたことには感謝しているが、それだけだ。ゆめゆめ思い上がった真似をして、グリムローズ家の名を傷つけることは許さん」
「はい、旦那様。ここに置いてくださったこと、与えてくださったすべてにリーゼロッテは感謝しておりますわ。――このドレスも、宝石も、日々の食事や寝具やなにもかもに」
事実、グリムローズ家でリーゼロッテに与えられたものはすべて一級品だった。ホープ家で使用人の一人として扱われていたことを思えば破格の待遇、だが彼女がれっきとした貴族の女であることを考えれば当然の扱われ方。
エルヴィオは鼻を鳴らし、立ち去った。あまりにも貴族然とした立ち居振る舞いだった。
グリムローズ家には代々いとこ同士が結婚するならわしがある。
その風習を持つ一族によくあることだが、彼はグリムローズ家の顔としか言いようがない美貌を持っていた。
元々持っている代を経るごとに顕著になり、その人の存在自体が濃く青い尊い血の証明になる。彼はそんな人だった。
そして晩餐会と舞踏会がとうとう始まった。
リーゼロッテは貴族の夫人たちに挨拶をし、挨拶をし、挨拶をした。
まったく目が回るよう。
歓談に次ぐ歓談。
社交儀礼に次ぐ社交儀礼。
おべっか、害にならないお誘い、それから思いがけない幸運に対するあてこすりと、グリムローズ家が隠している秘密についての露骨な好奇心。
同族内での結婚を繰り返す貴族は多くない。そしてそのすべてが、この島国にかつていた古い古い民族の血脈にあたる一族である。
大陸から新たに渡ってきた貴族たち、すなわち王に近しい都の貴族たちにとってそれはたいへん珍しいしきたりだった。
リーゼロッテは侮辱すれすれの言葉をいくつも受けた。
「あなたの生むお子さんもいとこと結婚させなさるの?」
「まあ、この方はまだご結婚されていないのよ。婚約者候補というだけ」
「まあ! それではやきもきしますわね。だってエルヴィオ様はこれから国で五本指に入るお金持ちになりましょうもの」
「ねえ――いとこ同士から延々生まれ続けた子孫は狂うって本当?」
「まさかエルヴィオ様には狂ったご兄弟が?」
「あなたはそのお世話をなさるの?」
すべてに完璧な笑顔を返し、無難な答えでお茶を濁すのがどれほど大変だったことか!
リーゼロッテは熱くなった頬に風を当てるため、バルコニーに出た。
そしてそこでエルヴィオとアリサが話し込んでいるのに出くわした。
エルヴィオはこちらに背中を向けており、リーゼロッテに気づかない。一方アリサは気づいて、にやあっと笑った。心から勝ち誇った、勝利を確信した笑みだった。
「まあ」
と口の中でもごもご呟いて、リーゼロッテは退散した。
(やっ……た。やったわ!)
と心の中に快哉を叫びながら。
かくして客が皆、立ち去った一か月後。
「お前はもういらない」
とエルヴィオは宣言した。
腕の中には、顔じゅうが口になるほど三日月型に笑ったアリサ。
背後には、父ジュリアンとアリサの母マリー。どちらもヘラヘラ勝ち誇っている。
「そんな……旦那様! ああ、旦那様!」
リーゼロッテは泣き崩れた、ように見える姿勢で膝から崩れ落ちた。
彼らはこのように説明した。リーゼロッテの魔力【サーチ】は確かに珍しいものではあったけれども、
「換えがいないというわけではない」
とエルヴィオは艶やかに微笑む。
「私はホープ伯爵家の持つ販路が欲しかっただけだ。ならば、こちらの若く美しいアリサの方がグリムローズ家にふさわしい」
「ああん、エルヴィオさまあ! そんな褒めちゃ恥ずかしいですう」
「旦那様……ありがとうと、言ってくださったではないですか」
と呟き、振り返り、振り返りながらリーゼロッテは遠くの修道院へ追放された。
「まるで追いかけてこないか確認してるみたいだわ! キャハハ、お姉様ったらみっともなーい!」
アリサはカン高い声でいつまでも叫んでは思い出し笑いをしていた、という。
***
エルヴィオとアリサはまたたく間に結婚式をすませ、アリサの両親は領地に戻り、幸せな新婚生活が始まった。
エルヴィオは優しくて、美しく、強い男だった。アリサの望むものはなんでも買い与えてくれた。
鉱山の開発は順調。このままいけば、グリムローズ辺境伯家はもっと栄えるに違いない。
(うふふ、お姉様ったらいけないのよ? あんたなんかがこんな幸せをもらっていいはずないじゃないの。お金持ちの旦那様も豊かな領地の奥様の地位も、あたしのものよ!)
人知れず、アリサはほくそ笑むのだった。
メイドたちは口々にアリサを誉めそやす。
「前の婚約者候補様に旦那様はお手をつけられなかったのですよ。それが、アリサ様には毎日!」
「本当に愛されるべきお方とは、一目で見てわかるものでございますねえ」
「毎日シーツを換える仕事が増えて、あたしたちは大変でございますわあ」
「うふふふふー! そんな褒めないでよおー。キャハハハハ!」
三年が過ぎた。
アリサは男の子と女の子を産んだ。
子供たちを両手に抱えて夫である男は笑った。
「よくやってくれた、アリサ。では、お前はもういらない」
「えっ?」
領主夫人の私室の床が、ぱかんと開いてアリサは漆黒の闇の中に落ちた。寝台ごと。
彼は愛しい子供たちに頬ずりをする。
「ああ、俺の子供たち! 見ていてくれ、リーゼロッテ、エルヴィオ。グリムローズ家の呪いは俺が断ち切る」
***
都から遠く、グリムローズ辺境伯領からはさらに遠い、何もない荒野にたたずむ修道院の庭。リーゼロッテは小さな神像に祈る。
「どうかあらゆる苦難持つ人が、救われますように。……エルヴィオ様。私の旦那様。あなたが救われますように」
エルヴィオの母は政略結婚の犠牲者であった。リーゼロッテの母と同じに。
ただ家のために、しきたりだからという理由で好きでもない男に嫁がされ、ずぶずぶと沼に沈むように死んでいった。その苦痛を間近に見ていた子供は、何を思って育つだろうか?
少なくともエルヴィオとリーゼロッテは、同じように育った。
死んだ母親を想い、いい子として育ち、そのまま大人の身体になったが精神は未熟なままだった。
婚約者として引き合わされたとき、彼らは互いの中に自分の孤独を見た。
一目惚れというものがこの世にあるのなら、あの対面こそがそれだった。
日差しの中、荒れ果てた花園を散歩した。花より彼の顔の方をこそ覚えている。
寄り添って星空を眺めた。絡んだ手が熱かった。
神々の話をして、妖精の逸話を交換し、幼い頃大事にしていた今はもうないガラス玉や人形への愛着を語った……。
誰にも言えなかったこともなぜだか互いには言えた。決して笑わないだろうと確信を持てたから。
「俺の中にはもう一人俺がいる」
とエルヴィオが言ったときも、そう。リーゼロッテはそれを信じた。
「時折遠くを見つめられるのはそのためだったのですか? 山の向こうを、見ておられますね」
「そうだ。山脈の向こうに、故郷がある。もはや破壊され戻るすべも失われた。だがグリムローズ家は長い間、戻ることを夢見てきた。他の血を拒絶し、同族内で命をつなぐことを選択するほどまでに」
リーゼロッテはただエルヴィオに寄り添う。肩に触れる体温や彼の匂いがいとおしかった。
「俺の中の俺は、本当のグリムローズだ」
「つまり……?」
「代々のグリムローズの妄執が具現化した人格、とでもいおうか。いとこ婚によって薄まらずつながった血脈はただ本当の故郷に戻るためだけに行動する。俺はその人格の破壊的な衝動を抑えるための仮の人格だ。おそらくは俺の父もそうだった。母を殺したのは父の中の本当の人格だ。奴の荒廃した魂が俺の母をいじめ殺した」
リーゼロッテは目をつぶった。少しの間、考えた。答えはあらかじめ知っていた気さえした。
「私には魔力があります。どう利用されるかわかりませんでしたので、家族には隠していましたが。【サーチ】です」
「探索の技か。確かに……一時代は砂金や水脈の探索のため命まで削って貢献したときく」
「最初にここに来た時、少しだけ魔力を使ってみたのです。あの山の下に、魔石の鉱脈があります」
「何?」
「詳しいことはより詳細な調査をやってみなくてはわかりませんが。それでも、存在は確かです」
彼らは目を見かわした。
ずっと望んでいたことが実現するかもしれない、という予感めいた確信があった。
だがそのためには犠牲が必要だった。
彼らは悩み、話し合い、うなだれ、春は過ぎ夏が駆け抜け秋の落ち葉を踏んで、冬の最中にしんしんと降り積もる雪を眺め決断した。
グリムローズ家は早死にの家系だ。いとこ婚がそうさせるのか、あるいは本性だという人格が理由なのか。
そして当主が死ぬ前に、必ずといっていいほどその妻が先に死ぬ。
まるで冥府への道の先案内をさせられるかのように。
リーゼロッテは亡き母を愛していた。
愚かな父を悲しく思い、平民出の義理の母の下品さに戸惑い、同い年の異母妹のまっすぐな憎悪に苦しんだ。だがそれでも彼女は彼らのことを、憎み切ることはできなかった。
増水した川に押し流される木の葉のように運命にもみくちゃにされながら、それでも。
グリムローズ家にやって来て彼女はエルヴィオにいとこがいないことを知った。エルヴィオの父の弟、すなわちエルヴィオのいとこの父になるべきだった人は、はるか昔に転落死していた。
山での滑落事故だったのだという。だが山脈はごく穏やかな勾配で、まだ壮健な青年が死ぬような山ではないともいう。
「彼は己の意志で運命を断ち切った、だから俺も――ああリーゼロッテ。ありがとう。俺はずっと決心がつかなかったんだ。この呪われた血脈を続けたくなんてなかったけれど、この家を出て生きていくこともできなかった」
それはきっと、母親の呪い。
自分がそうであったように、我が子もまた、囚われ呪われ、苦しんで生きてゆけと。
リーゼロッテ自身は実母の呪いに気づかず、エルヴィオもそう。
写し鏡のようなふたりだったから、互いをがんじがらめにする網の存在さえ見えてしまう。
「だが、君のためなら。君を自由にするためなら俺は、なんだってできるよ」
「エルヴィオ様……私の旦那様。ええ。そうですとも。私だって」
そうして計画は丹念に立てられ、実行された。
元より余り物同士をくっつけるべく適当に仕立てられた縁組だった。
もしリーゼロッテが幸せにしていると聞けば、あの異母妹が黙っているはずはない。そしてエルヴィオと家族を天秤に賭け、リーゼロッテは――
「神々よ、お許しください。私は罪人となります」
彼女は祈り続ける。もはやそれだけしかできないから。
「どうかエルヴィオ様が、グリムローズ家が、その土地が、救われますように」
エルヴィオは死んだかと見紛うほど深い瞑想状態に陥り、そして体内のもう一人と対話した、という。
「彼と話しに潜ってきたグリムローズは百年ぶりだと言われた」
彼は衰弱した顔で笑って。
目を閉じた。
眠りから覚めたときリーゼロッテが愛した彼はいなかった。
エルヴィオの中のエルヴィオ、自分のことを私と呼ぶリーゼロッテの知らない彼は、まさしくグリムローズとして行動した。都の貴族の血統であるリーゼロッテを憎み切り、ただ憧れの故郷に帰るためだけに動いた。
彼の影響を受けて徐々に使用人たちの態度も硬化して、まるではじめてここにやってきた頃のようになった頃。
――ホープ伯爵家の面々は罠にかかった。
彼は山を越えるために歩いていくことはできなかったのだ。そうすれば必ず、エルヴィオの叔父のように死んだことだろう。
そこには古い古い時代の島国の血脈を押し込めるための王の結界があったから。
いったい都の貴族の誰が信じただろう? グリムローズ家を、その他いとこ婚をするかつて敵対した者たちをあの山の向こうに出さないために、王家はあるのだなんて?
アリサが子を産み、グリムローズ家にホープ家の血が入った。平民女が混ざった都の貴族の血は、いとこ婚によって色濃く受け継がれてきたエルヴィオの呪いをほんの少しだけ、薄めただろう。
もっとも濃い青は下賤な赤によって呪縛から解き放たれた。
そして伝統の通りに、当主の妻は先に死んだ。
「――俺はお前たちを巻き込まないよ。お前たちはリーゼロッテの甥っ子と姪っ子だもの」
と宣言した通り、エルヴィオは男の子を羊飼いに預け、女の子は遠方の修道院に送った。決してグリムローズ家の呪いに感化されないように。
妻に逃げられたことを恥じた男が産褥死を偽造し、邪魔な子供を排除したのだと周囲は囁いた。
やもめとなったグリムローズ辺境伯は精力的に鉱山の開発と発展に取り組み、その栄華は都にまで届いたという。
おこぼれを狙おうとした者は潰された。義理の父であるホープ伯爵でさえ例に漏れなかった。
エルヴィオの言う通りにした結果、気づかぬまま危険な相場に乗り出して破産したジュリアン・ホープはこう叫んだ。
「やはりあの女の娘かああああ、あいつが不幸の元凶なんだあああ」
彼は物乞いにまで落ちぶれ、その妻であった平民女は年も年だから娼婦にもなれず酒場の酌婦になった。どちらも一年以内に死んだというが、定かではない。
鉱山から流れ出る緑色や灰色や土色の排水が通る下水道に女の遺骸が引っかかったこともあったが、よくあることなので掃除人たちは気にも留めなかった。
水の流れにより顔も身体もズタズタになり、誰なのかもわからない遺骸なんて珍しくもない。彼女が平民女にしては豪華な寝間着を着ていたことに気づいた者は誰もいない。
エルヴィオ・グリムローズ辺境伯は若くして死んだ。
鉱山の開発に精魂尽き果てたのだということは、彼を知らぬ者でさえもわかった。彼は国の発展の立役者だった。
国家が、もといそれを代表する国王が鉱山の所有者に名乗り出た。それほどまでにグリムローズの鉱山の利権は素晴らしかった。
一貴族家の所有物を無茶苦茶な理屈でもって取り上げる王は神々の法を犯している、と反感を持つ者もいた。王は彼らを脅し、なだめすかし、賄賂を贈って鉱山を得た。国内随一の家臣団を持つ王家にわざわざ歯向かうよりは、甘い汁を吸うべきであると大多数の貴族たちは考えた。
そして最後のグリムローズは王家の庇護下に迎え入れられることになる。彼こそが王の主張する鉱山の所有権の正当性そのものだった。
羊飼いに育てられた素朴な男の子、エルヴィオとアリサの遺児は自分のことを羊の仔だと信じていたので、国王の代理人が迎えに来た時たいそうたまげたという。
王宮でとある貴族夫人に育てられたその子はグリムローズ家の名を継いだが、田舎を嫌って終生を都で過ごした。
だから、グリムローズの呪いや不可思議な習慣は途絶えてしまった。あれほど長く続いたいとこ婚でさえも! 結果として男の子は貴族にしては珍しい情熱的な恋愛結婚をした。
魔石の産出と輸出によって経済が活性化し、王家の力は増した。
絶対的な権力のすべてと軍事力を手にした王がすることはひとつだ。
ちっぽけな島国は世界の動乱の渦に飛び込んでいく。
まるで――すべき大きな任務がひとつ終わったので身軽になったとでも言いたげに性急に。
それらのすべてを、遠い遠い修道院からリーゼロッテは見守る。
かたわらには、小さな女の子。生まれつきの修道女。物静かで優しくて、兎と小鳥が好き。何をしていてもどこか訳知り顔の女の子は、憎たらしいことに父ジュリアンに顔がよく似ている。当然、アリサにも。
それでもリーゼロッテは彼女を愛している。
彼女らが母子であることは、疑いようもない。
「嬢や、覚えておこうね。そして書き記しましょう。正式な歴史にはならなくても、手紙や帳簿の裏にひっそりと。いつか千年先の未来で誰かに見つけてもらえるように」
「なにを書けというの、おかあさま?」
「すべてを」
端的に、老いた修道女は答える。
「目で見たもの耳で聞いたもの、それらすべてを全部」
「ふうん……」
小さな娘が書いた真実が明らかになるのは、本当に千年を待たなければならなかったけれど。
確かにあった愛のことも、滅んだ家のことも誰も興味を持たないくらいちっぽけなことだけれど。
それでもそれらは記録に残った。
それは血脈が続くのと同じくらい、大事なことだ。