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十歳にして、レマは自分の涙を抑える力を身につけていた。
なぜなら、泣くのが嫌いだったから。
なぜ嫌いかといえば、女の涙や泣き声を、幼少期から何度も見聞きしてきたせいで、もはやうんざりしていたからだ。
灰緑の衣服をまとったその女は、気がつくといつのまにかレマの視界の隅にたたずみ、ひっそりとすすり泣いている。
あるいは物陰に見えかくれしながら、哀切な泣き声を響かせている。
髪はレマと同じように、軽く波打つ長い黒髪。うつむきがちな顔は、その髪になかばかくされ、年齢もよくわからない。
ただし、女が人間でないことだけははっきりしている。
レマ以外の人の目には一切映らず、よほど泣き叫んでいるときでなければ声も聞こえていないのが、その証拠だ。
バンシー。
魔物になるほどの魔力も呪力も持ち合わせない、中途半端な瘴気の影。ただひたすら泣くだけの、暗くはかない泣き女──。
特定の人にしか知覚されないバンシーは、古くからひそやかに存在し、特定されてしまった不運な人々はバンシー憑きと呼ばれていた。
見えること、聞こえること自体を否定されないのはいいのだが、魔性に憑かれているだなんて、どう考えてもうれしくない話だ。
たとえ相手に攻撃性がまったくなくても、出現時間がごく短くても、泣く姿や声に接していれば、やはり心が乱される。
さっさと消えてと叫びたくなるし、人間まがいの声につい共鳴して、こちらまで泣き出したくなることさえある。
魔性に共鳴するなんて、ばかげているのに。一日も早くいなくなってもらいたいのに──。
幸いにも希望はあった。
召喚の儀に臨んで魔法炎を召喚できれば、その時点で魔性は消える。浄化されては大変とばかりに、逃げ去ってしまうのだ。
これは、炎の使い手となった元バンシー憑きたちが口々に証言していることで、使い手の長たるローデルク家も公に認めていた。
そういうわけで、レマは十二歳を迎えて召喚の儀に臨むその日を、首を長くして待っている。
成立率が三分の一に満たない、特別な儀式。それでも、バンシー憑きのほとんどが失敗せずに炎を取り、優秀な使い手になることは、過去の記録が証明していた。
ただ儀式の参加資格を得るためには、事前の面接、筆記、実技試験に合格しなければならない。
だから……。
レマは深呼吸して、手にした木剣を握り直した。
子ども用の木剣は見かけだけの玩具ではなく、父に頼んで調達してもらった品だ。
最近のレマは、学び舎での勉強や家の手伝いとともに、剣術の稽古を合わせて行うことも日課にしているのだった。
あと二年。長い待ち時間ではあるけれど、儀式にふさわしい知識や技術を身につけるには、きっとそれでも足りないんだろう。
とりあえず、いまは少しでも自分にできることをしなければ。貴族の子みたいに教えてもらえる身分じゃないのだから、自分のやる気が一番大事なのだ。
レマは両手で剣の柄を握りしめて振りながら、全身の動きに意識を集中した。
ええと、踏み込んだ片足だけに体重をかけちゃいけない。膝は両方軽く曲げて、両足でしっかり地面を踏みしめて。
重心がまんなかにあるように、体幹が崩れないように。
……難しいなあ。剣につられて、どうしても身体が前のめりになっちゃう。
息をはずませながら、レマは剣をおろした。体力が全然追いついていないため、すぐに息があがってしまう。
だが、そんなときでも人の気配に気づいているところは、少女の剣士としての素質を示していた。
「……どうして見てるの?」
レマは少し離れたほうに視線を向けると、愛想のない口調でたずねた。
泣き女につきまとわれているせいで、声もかけずにみつめられること自体が苦手だったのだ。
彼女が問いかけた相手は、さっきから無言でこちらを眺めている、見ず知らずの少年だった。
見ず知らずといっても、ここはローデルク家の敷地内の一画である。
敷地はとんでもなく広く、領主館かと見紛うようなお屋敷と庭園、住み込み以外の使用人たちが暮らしている長屋、そして召喚の儀をとりおこなう式場までが入っているという広大さだ。
緑あふれるこの巨大空間を美しく保つために、何十人もの園丁が働いていて、レマの両親の職業もそれだった。
そういう場所にいる以上、この子は通りすがりではなく、ローデルク家の関係者のはずだ。同じ年頃の子どもの顔は大体知っているから、きっと下働きで雇われた新入りなのだろう。
淡茶色の髪と藍色の瞳。手足が長くて、ちょっと人目を引くほど整った顔立ちをしている。
織りが粗い生地のチュニックとズボンは、いまのレマの格好──さすがにワンピース姿で木剣は振れない──と似たようなものだった。
なぜ見ているのかという問いかけに、少年は返事をしなかった。それでレマは、剣を握り直しながら背中を向けた。
「用がないならあっちに行って。気が散るの」
すると、ふいに少年が口をひらいた。
「動かないで」
なんだか叱りつけるような言いかただ。
「どうして」
「蛇がいる」
言うなり彼はかがみこむと、足元の石を拾いあげ、いきなりこちらに投げつけてきた。
いや、本当はそうではなかったのだが、自分に当たるかと思ったレマは思わず目を閉じた。
低い位置を飛んだ石が、彼女の向こう側の草むらに落ちる。直後、蛇の長い胴体が跳ね上がり、草の間を逃げ出していくのが見えた。
あの細い蛇に当たった……?
レマは目を見張り、少年の顔をみつめ直した。それから、あわててお礼を言おうとしたが、彼が口をひらくほうが早かった。
「なんで剣の稽古なんかしてるの?」
「え……」
「まさか剣士にでもなるつもり?」
ひどく不機嫌そうなもの言いだ。さっきから見ていたのは蛇のせいだと思ったのだが、どうやらちがったらしい。
「剣士じゃないわ。炎の使い手よ」
と、挑むようにレマが答えた。
「魔法炎を取って使い手になるの。だから稽古しなきゃいけないの。邪魔しないで」
正直に本音を言ったのは、相手が学び舎の友人ではなく、ローデルク家の関係者だとわかっていたからだ。
本家の人々はもちろん、使用人たちもたいていは、レマがバンシー憑きであること、やがて召喚の儀に臨むことを知っている。
だからつい、当たり前のように答えたのだが、それを聞いた少年は明らかに眉をひそめた。
「炎の使い手になる? 何言ってるんだ、女のくせに」
「男か女かは関係ないでしょ」
レマはほとんどあきれて言い返した。
「もしかして知らないの? ローデルクのマドリーン様が、二十歳になったらステラ・フィデリスの主座に就かれること。女のくせにだなんて、マドリーン様にすごく失礼だわ」
新入りだから無知なのかと思い、怒りを抑えて教えてあげたつもりだった。
ところが驚いたことに、少年は返す台詞で彼女の親切を台無しにした。
「どこが失礼なんだよ。女がわざわざ主座になって魔物狩りをしようだなんて、馬鹿げてる。護衛と一緒に、家でおとなしくしてればいいんだ」
「ほんとにほんとに失礼な人ね!」
一瞬で堪忍袋の緒が切れたレマが、木剣を握りしめながら怒鳴った。
これで相手を叩くのだけは避けなければならない。そんなことをしたら、稽古を禁止されてしまう。
「マドリーン様を馬鹿にしたら承知しないわよ。誰よりも志が高くて、剣の腕も最高なんだから。それに、魔物を憎む気持ちは男も女も同じだわ。そんな考えかたで、よくここに雇ってもらえたわね」
すると相手も、怒気をかくさず声を高めた。
「気持ちだけで勝てるわけないじゃないか。剣だって魔物相手と人間相手じゃ全然ちがう。魔物を甘く見るなよ。女のお遊びじゃないんだ」
「もうあっちに行って!」
レマは理性的な少女であったため、誰かを怒鳴りつけたりしたことは、これまで一度もなかった。
だが、この子には我慢できない。
「じゃないと叩くわ。手加減なんてしない。女だって叩けるんだから」
実際にそれをしなかったのは、遠くで大人の声が聞こえたからだ。はっとして振り向くと、レマの母親の姿が見えた。
そろそろ家の手伝いをしてもらいたくて、呼びに来たのだろう。あぶない、稽古以外で木剣を使うのを見られるところだった。
同時に少年のほうも、ちがう方向を振り向いていた。これも遠くから、作業着の誰かが近づいてくる。仕事に戻れと言いに来たようだ。
レマと少年は、一瞬顔を見合わせた。それから、おたがい即座に背中を向けた。
そして、この相手とはもう話したくないと双方本気で思いながら、小走りで離れていった。
つまり──。
レマと少年ディークリートの出会いは、このように最悪の部類だったといえる。
ふたりとも完全に心を閉ざし、相手にきちんと向き合う日が来るとは夢にも思っていなかった。




