【短編版】水氷の行方 ~氷の呪いを受けし奴隷少女、売られた先で大切にされ、砂漠の国を救う~
レティアは生まれつき、呪いを受けていた。
無意識に常時、周囲に冷気をまき散らす「水氷の呪い」である。
水氷の呪いは、冷気とともに湿った空気までも吐きだす。
それにより、レティアは常に氷の世界を生みだしていた。
水氷の呪いは、レティアを生んだ母を殺したという。
そのためレティアの父は、妻を殺したレティアを憎んだ。
憎しみのままに、赤子のレティアを見世物小屋に売り飛ばした。
見世物小屋の主人はレティアをとても気に入った。
特製の牢屋を作り、複数の乳母を雇い、赤子のレティアを育てた。
それほどの手間暇をかけても、レティアには価値があった。
奇妙な化け物として売り出せば、多くの客を呼ぶことができるからだ。
そうして十二年。
レティアは特製の牢屋の中で成長した。
牢屋の外に出るのは、仕事のときだけ。
大群衆の、奇異な目を向けられるときだけだ。
「レティア。お前に良い話がある」
ある日。見世物小屋の主人が話しかけてきた。
見世物小屋の主人は、良い人でも、悪い人でもない。
しかしレティアを見る目は、人間を見る目ではなかった。
その日も、珍しい道具を見る目で、レティアに話しかけてきた。
「お前を引き取りたいという者がいてな。ワシはそれを受けた」
「……はい」
「ワシとお前の力では到底稼げないほどの金を、そいつが積んだんだ。断る理由はない」
「……いつ、その方の下へ、行けばいいですか」
「今すぐだ。レティア」
見世物小屋の主人が言うと、牢屋の外に向かって合図を送った。
すると牢屋の扉がぎいと音をたてて開いた。
扉の向こうには、見世物小屋の使用人と、見知らぬ男が立っていた。
見知らぬ男は、褐色の肌で、美しい服を纏っていた。
少なくとも、レティアを見物に来る多くの客たちとは違う。
まったく別の世界の人間に見えた。
「君がレティアだね」
見知らぬ男が、冷気に支配された牢屋に入ってくる。
レティアは無言で頷き、俯いた。
(……いったいなぜ、この男は私を買ったの?)
レティアは怯えた。
ここから出たら、どうなるのか?
別の場所で、やはり牢屋に閉じ込められるのか?
それとも、今よりもっと、悪いことになってしまうのか?
レティアの心配をよそに、見知らぬ男が近付いてくる。
そうして、怯えるレティアの枷に手を触れた。
「それではご主人。彼女は連れて行きます。宜しいですかな」
「ええ、もちろん!」
見世物小屋の主人が頷くと、見知らぬ男がレティアを抱きかかえた。
無論、抱きかかえている間もレティアからは冷気と湿気が放たれていた。
みるみるうちに男の衣服が凍っていく。
しかし見知らぬ男が顔色を変えることはなかった。
男が所有しているらしい馬車までレティアを連れて行き、先にレティアを馬車に乗せる。
馬車の中が、一瞬で冷気に満ちた。
つづいて湿った空気により、馬車の中が凍りつく。
その変化を見て、見知らぬ男の表情がかすかに変わった。
しかし何故か、不快な表情ではない。
むしろ喜びを含めた驚きの表情に見えた。
「長い旅になります。レティア様」
見知らぬ男が頭を垂れた。
そうして、レティアの枷を解く。
重かった枷が、ごとりと音をたて、レティアの足元に落ちた。
「私は後ろにある馬車に乗ります。なにかあれば、御者にお声掛けください」
「……はい」
「レティア様。不安でしょうが、なにひとつ心配することはありません。それでは参りましょう」
見知らぬ男が深々と頭を下げる。
その姿に、レティアは動揺した。
しかし動揺をどのように表せばいいのか。
ずっと牢屋の中で生きてきたレティアには、なにも分からないし、返事もできなかった。
やがて馬車が走りはじめる。
見知らぬ男が言った通り、長い旅となった。
何日、何十日が過ぎた。
旅は決して快適ではなかったが、レティアにとっては驚きに満ちた旅となった。
ずっと牢屋の中で生きてきたのだ。
世界がこれほどに広く、変化があるとは知らなかった。
長い旅の最中。
レティアはあらゆる景色を見て、何度も涙を流した。
なぜ涙が出るのか。レティアには分からなかった。
ただ少し、胸が痛い。
その胸の痛みがなにによるものか。それすらもレティアには分からなかった。
◇ ◇ ◇
旅の終点は、砂漠であった。
冷気を放ちつづけるレティアには分からないが、砂漠はとても暑いらしい。
馬車の外で馬に乗っている者たちは皆、大汗をかいていた。
しかしレティアの馬車の御者だけは涼しそうであった。
レティアの馬車が凍りついているためである。
砂漠に着くまでは寒さに震えていたが、今は違う。
心地よい冷気を背に受け、馬車を走らせていた。
「レティア様、少し宜しいですか」
馬車の外から、男の声が聞こえた。
レティアを牢屋から連れ出した男だ。グイラムという名であるらしい。
レティアは返事をすると、グイラムが馬車の扉を開けた。
「少し、この中で休ませたい者がいます」
「……はい」
「ありがとうございます。それでは」
グイラムが深く頭を下げる。
それから馬車の外にいた男を連れてきた。
馬車に入ってきた男は、身体を震わせていた。
もしや寒いのではないか。
レティアは慌ててグイラムに視線を向ける。
「いいえ、レティア様。この男は寒さで震えているわけではありません。むしろ逆でして」
「……逆……暑い、のですか」
「ええ。このままでは命に係わります。しかしレティア様の馬車で休めば、助かるでしょう」
グイラムがそう言い、再びレティアに頭を下げる。
グイラムが去ってしばらくすると、馬車が走りだした。
レティアの馬車には、レティアと、震える男の二人。
レティアはどうすればいいか分からず、ただじっと、震える男を見守った。
時間が経つと、震えていた男の息遣いが穏やかになっていった。
顔色も良くなり、震えが収まっていく。
やがて意識を取り戻したのか、目を開け、レティアを見た。
「……わ、は! こ、これは!」
「……あ、の。……具合は、どうですか」
「あ、いや、え? あ、はい。だ、大丈夫です!」
「……では……グイラムさんを、呼びます」
レティアは御者に声をかける。
馬車が止まるや、グイラムが駆けつけてきた。
レティアは体調が良くなった男のことをグイラムに話す。
笑顔を見せたグイラムが、驚くほど深く礼をしてきた。
「感謝します、レティア様。もうじき目的地に着きますが、それまでの間、こうして何人かを休ませても構いませんか?」
「……はい」
「ありがとうございます。本当に」
グイラムが平伏する勢いで頭を下げる。
レティアは慌てて止めようとしたが、やはりなんと言えばいいのか分からなかった。
ただただグイラムを前にして、驚き、慌てるのみ。
そんな自分が、レティアは少し嫌になった。
初めて感じる「嫌」という感情に戸惑いつつ。
◇ ◇ ◇
ベル・ザラム。
レイ砂漠の中にある、大きな都市。
少ない水源を頼りにして生きる、苛酷を背負った都市だ。
レティアを乗せた馬車がベル・ザラムに着くや、都市の人々が驚きの声を上げた。
凍りついた馬車が、冷気をまき散らして大通りを駆け抜けていったからである。
その奇異を見る声に、レティアは懐かしさと息苦しさを覚えた。
(……ああ、やっぱり。ここでも見世物として生きるんだ)
場所が変わっても変わらぬ日常が待っているらしい。
やはり、この人生からは、この呪いからは、逃れられないのだ。
ならば、見世物小屋にいたほうが良かったのではないか。
痩せこけた自らを見て、レティアはそう思った。
無論、見世物小屋には良い未来などない。
しかしなにをすれば生きられるか、ある程度は分かっていた。
(……ここでは、どうすれば、いいの?)
何も分からない、別の世界。
どのようにすれば、命を繋げるのか。レティアにはまったく分からない。
「さあ、着きました。長い旅となってしまい、大変申し訳ありませんでした」
歩みを止めた馬車の扉を開け、グイラムが言った。
レティアはグイラムの手を借り、馬車を降りる。
「……ここから、どこへ?」
レティアは辺りを見回した。
馬車は都市の中心部に来ていたらしい。
煌びやかな建物が目の前に悠然と並んでいた。
煌びやかなのは建物だけではない。
レティアの馬車を迎えるように、多くの人々が色とりどりの衣服を纏っていた。
奴隷同然の生活を送ってきたレティアの衣服とは、まるで違う。
目の前の人々の衣服に比べれば、レティアの服は服ではない。ただのぼろきれだ。
「あちらの王宮へ参ります。レティア様」
気圧されているレティアに、グイラムが優しく声をかけた。
しかしレティアの緊張は拭いきれない。
「……王宮? って、なんですか?」
「とても偉い人、王様がいらっしゃる建物です」
「……王様は、前のご主人よりも……偉いですか?」
「そうです。その方が、レティア様をお待ちしています」
グイラムがそう言って、控えていた一人を手招きした。
呼ばれた者がグイラムに駆け寄り、跪いた。
跪いた者にグイラムが、「先を進んで案内してください」と言う。
「畏まりました」と頭を垂れた者が、レティアとグイラムの前を歩きだした。
「あの者に付いて行きます。宜しいですか?」
「……はい」
レティアは頷き、王宮に向かって歩きだす。
不安で震えるレティアの隣を、グイラムがゆっくりと歩いてくれた。
その歩みに、レティアはほんの少し緊張を緩めた。
このベル・ザラムに着くまでの数十日。
どんな理由があってかは分からないが、グイラムはずっと優しくしてくれた。
グイラムだけは、ほんの少し信用できる気がした。
レティアは導かれるままに歩いていく。
その最中。ここそこで声が聞こえてきた。
誰もがレティアを覗き見ていた。
みすぼらしいから見ているのか。それとも冷気を放っているからか。
いずれにせよ、歩き進むほどにレティアの心は重くなっていった。
「こちらです」
大きな扉を前にして、案内してくれた者が直立して言った。
その大扉は、大人の三倍ほどの高さがあった。
レティアとグイラムが扉の前に立つと、四人がかりで大扉が開かれていった。
「よく来た。レティア嬢」
扉の先へ進んでいくと、部屋の奥にいた一人が大きな声を鳴らした。
レティアが戸惑うと、隣にいたグイラムが「あの方が王様です」と教えてくれた。
レティアは慌てて両膝を突く。
両手のひらを握り合わせ、深く頭を下げた。
「偉い人間にはそうするんだ」と、見世物小屋の主人が教えてくれたからである。
「いや、いや。よい、よい。顔を上げなさい」
レティアの行動に、王様がひどく慌てた。
まるで悪いことをさせてしまったと言わんばかり。
急いでレティアに駆け寄り、レティアの手を取った。
「この後は、そのようにせずともよい」
「……王様は、偉い方、だと聞きました」
「グイラムがそう言ったのだな。間違いではないが、レティア嬢がそのようにする必要はないのだ」
そう言った王様が、レティアを立ち上がらせた。
レティアは驚きつつも、どのように返事すればいいか分からなかった。
なにが間違いで、なにが正しいのか。
レティアにはそういった知識がないのである。
「……私は、これから、どこへ行けば、いいですか」
レティアは自らが居るべき場所、牢屋までの道を尋ねた。
なんの知識がなくとも、ここに自分が居てはならない。ということだけは分かる。
今も変わらず、レティアの身体から冷気が溢れ出ているからだ。
長く留まれば、この部屋の隅々まで氷が支配することだろう。
「今日は顔を見たかっただけなのだ。誠に申し訳ない。レティア嬢には少し休んでいただこうと思っていた。長旅で疲れたであろう?」
「……いいえ、疲れていません」
「いや、いや。まさか。疲れたに決まっておる。グイラム。そなたはどうなのだ」
「非常に疲れています。ですから休息の時間をいただけると。レティア様。宜しければ私の休息に付き合っていただけませんか?」
「……はい」
「ありがとうございます、レティア様。それでは急いでレティア様の侍女を呼びましょう。用意しておいた部屋に案内いたします」
グイラムが頭を下げる。
レティアはグイラムに連れられて、王様がいた部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
レティアのために用意されていた部屋は、牢屋ではなかった。
見たことのない家具が多数置かれていた。
その中でも目を見張るものは、ベッドであった。
幼い身体には大きすぎるベッドに、レティアは戸惑いを隠せなかった。
「レティア様。こちらの三人が、レティア様に仕える侍女です」
案内してくれたグイラムが言った。
グイラムの隣には、いつの間にか三人の女性がいた。
皆年上で、美しい衣服を纏っていた。
「……侍女、って、なんですか?」
「レティア様の身の回りをお世話する者です。何か用がある際は、彼女たちに言いつけてください」
「……侍女、も、ここで生活する、のですか?」
「いいえ。彼女たちは常に隣の部屋に居ります。用があれば、この鈴を鳴らしてください。すぐに駆け付けます」
「……はい」
レティアは訳も分からず頷いた。
この王宮とやらに着いてから今まで、何もかもが分からない。
いったい自分はどうすればいいのか。
いつ、どのように、誰に対して、見世物となればいいのか。
あまりにも落ち着かない。
吐き気すら感じて、レティアは蹲る。
蹲ったレティアを見て、三人の侍女が駆け寄ってきた。
レティアが怯えているのを察し、優しく声をかけてくれる。
そうして、ひとつひとつ。侍女たちが教えてくれた。
この新しい世界で、なにをすればいいのかを。
侍女たちの優しさは、グイラムとはどこか違う、温かい優しさであった。
なにも分からないレティアにとって、侍女たちの優しさは救いとなった。
本当に、本当に、レティアはなにも分からなかったからだ。
侍女たちがひとつひとつ、指を差し、見たこともないものがなんであるか教えてくれる。
理解できなければ、忘れてしまえば、また教えてくれる。
ゆっくり、ゆっくりと。
「今日はこのベッドでお休みください」
「……これに、乗っても良い、のですか」
「乗っても、跳ねても構いません。レティア様のものですから」
「……このようなもの、私は、持っていません」
「今日から、レティア様のものになりました。この部屋にあるものはすべて、レティア様のものですよ」
「……すべて、ですか」
「ええ。それでは今日のところは、このままお休みください」
侍女たちが温かく微笑む。
見ると、侍女たちの衣服が凍りはじめていた。
侍女たちは冷気の対策として手袋もしていたが、それはとうに凍っている。
なのに侍女たちは、顔色一つ変えずに温かい優しさを貫いてくれた。
レティアは申し訳なく思い、侍女たちの言う通りにすることとした。
言う通りにしなければ、この侍女たちはここを去らない。
凍りきるまでここに留まってしまうのではないかと、レティアは恐れた。
レティアは侍女たちに何度も頷き、寝室の外へ侍女たちを押し出す。
すでに凍りはじめたレティアの寝室。
見慣れたことであったが、レティアはなぜか、心の奥がぞくりと冷えた気がした。
侍女たちが全員寝室の外に出ると、レティアは膝を突いて礼をした。
「……ありがとう、ございます。侍女様も、どうか、お休みください」
「お顔をお上げください。このようなことをしてはなりません」
「……はい」
レティアは侍女たちに促されるまま立ち上がり、二度も三度も礼をした。
侍女たちも釣られて礼を言い、レティアの寝室の隣の部屋へ入っていった。
寝室に戻ったレティアは、途端にひどい疲労感を覚えた。
緊張の糸が切れたのか。眩暈がして、視界が歪む。
レティアはふらつきながらも、ベッドの上に乗った。
ベッドはすでに凍っていた。
先ほどまでの柔らかさはない。
しかしレティアにとっては十分であった。
見世物小屋での牢屋では、固い床の上で眠っていたのだ。
床に比べれば、凍ったベッドのほうが良いに決まっている。
凍ったベッドの上で、レティアは目を瞑った。
一瞬で意識が奪われ、レティアは夢の底へ落ちていった。
◇ ◇ ◇
翌日の朝。
レティアの寝室はすっかり氷漬けとなっていた。
目を覚ましたレティアは、やはり戸惑っていた。
朝からなにをすればいいのか、まったく分からなかったからである。
仕方なく、レティアは呼び鈴を鳴らした。
するとすぐに、侍女たちがレティアの寝室に入ってきた。
「……今日は、なにをすれば、いいですか」
「まず、お召し物を変えましょう。それと、お身体も洗わせていただきます」
「……はい、お願いします」
レティアはとりあえず頷く。
侍女たちは昨日と変わらぬ温かい笑顔を見せてくれた。
そうして、レティアのために湯を用意しはじめる。
レティアの身体を洗うのは、大変難しかった。
使用する湯が、すぐに冷水となってしまうからである。
そのため侍女たちは何度も湯を用意した。
いつの間にか、レティアの身体を洗うために十数人の使用人が集まった。
身を清めたレティアの髪は、灰色から純白へと変わった。
汚れていた身体も、ずいぶん綺麗になった。
しかしひどく痩せていたため、見目麗しいとまではいかない。
骨と皮の手足。痩せこけた頬。目の周りは痩せくぼんだままである。
痩せた身体を隠すため、レティアはふっくらとした衣服を纏わされた。
不思議なことに、レティアが纏う衣服は凍らなかった。
冷気こそ帯びているが、衣服の柔らかさが損なわれることはなかった。
「少しお休みの時間を取りまして、その後、グイラム様をお呼びします」
「……なにか、するのですか」
「今後のご予定のご確認となります。なにも心配することはありませんよ」
侍女が優しく微笑んだ。
レティアは、やはりなにも分からないなと思い悩んだ。
しかし侍女の笑顔に、とりあえず納得することとした。
結局のところ、どれほど思い悩んだところでなにかが変わることはないだろう。
レティアは、この地に売られた。
ただの、商品である。
ならば、言われた通りに使われるのみ。
レティアの意思など、関係ない。
「レティア様、宜しいですかな」
長い休憩の後、グイラムが訪ねてきた。
レティアは顔を上げ、グイラムに膝を突こうとする。
しかしすぐ、侍女たちに止められた。
「レティア様。そのようなことをする必要はありません」
「……どうして、ですか」
「その理由を、これからお話いたします」
そう言ったグイラムが、跪いてレティアの手を取った。
再びレティアは、導かれるままに寝室を出て、王宮内を歩いた。
途中。昨日と同じく、幾人かの視線がレティアに向けられた。
やはり、奇異なものを見る目。
懐かしくも息苦しい、レティアをレティアたらしめる目だ。
レティアは視線に目を向けないよう、静かに歩いた。
嘲笑われないように。
怒られないように。
とにかく、なんとか。ここで生きていくために
やがて、昨日訪れた大扉の前に着く。
四人がかりで扉が開けられると、奥に王様の姿が見えた。
「おはよう、レティア嬢」
王様が嬉しそうに言った。
レティアは戸惑いつつも、小声で「おはようございます」と返す。
「よく休めたかね」
「……はい」
「それは良かった。今日は少し、長い話をすることになる。疲れたら遠慮なく言って欲しい。途中でも終わりとするから」
「……はい」
「宜しい。では、お話しよう」
王様が微笑むように言うと、グイラムがレティアの前に紙を広げた。
その紙には、絵と文字が描かれていた。
それがなんなのか、レティアには分からなかった。
尋ねると、「これはこの国の地図です」と、グイラムが答えた。
地図には、都市らしい絵が描かれていた。
都市の周りにはなにもない。
「広大な砂漠が広がっているのです」と、グイラムが教えてくれた。
「簡単に言いますと、レティア様にこの国を救っていただきたい」
地図を見ながらの長い話の後、グイラムが頭を深く下げて言った。
グイラムにつづき、同行していた侍女も、周囲の大人たちも、レティアに頭を下げた。
最後に、王様までもがレティアに恭しく頭を下げた。
突然のことに、レティアは混乱した。
グイラムが言った言葉の意味も分からない。
(……どういう、こと?)
レティアは一度目を閉じ、開ける。
やはり皆、レティアに向かって頭を下げていた。
見世物小屋のご主人よりも偉いはずの、王様までもが。
「……あ、あ、あ……あの」
レティアはますます混乱し、膝を突き、平伏した。
慌てた王様がレティアに駆け寄る。
大きな手で、レティアの小さな手を取った。
「驚かせて申し訳ない。しかし、これは本当に、大事なことなのだ」
「……それは、どういう」
「この国は、悪魔のごとき熱で焼かれている。非情な熱が数少ないオアシスを舐めとり、緑地が砂漠へと変わりつづけているのだ」
王様が苦しそうに言う。
グイラムと侍女たちも、息苦しそうに頷いた。
ベル・ザラムを囲う、レイ砂漠。
今では広大な砂漠地帯であるが、一昔前まではわずかな緑地が点々と在ったという。
しかしレイ砂漠に降る雨が減ったことで、わずかに残っていた緑地はすべて消えた。
残っているのはベル・ザラムを生かしている緑地のみなのだという。
ベル・ザラムの王と家臣たちは長く悩んだ。
しかしどうしても、ベル・ザラムを救う打開策は見つけられなかった。
ところがである。
遥か北方より、「水氷の祝福」を受けた少女がいるという噂がベル・ザラムに届けられた。
これこそ天の助けと、王と家臣は意を決した。
国庫をひっくり返すほどの大金を積んででも、ベル・ザラムに少女を迎え入れると。
「レティア嬢。どうかこの国を救ってほしい。そなたの力があれば、この国の水が枯れることはないだろう」
王様がレティアを見据えながら言った。
レティアはやや気圧され、目を伏せる。
「……私から出た氷を、溶かす、のですか」
「そういうことになる。……それが非道であることは心得ている。しかし我らには後がない。もはやそなたしか頼れないのだ」
王様が泣くような顔で言った。
レティアの手を素手で掴み、何度も懇願してくる。
そのため王様の手は青紫色に変わっていた。
このままでは凍傷になり、腐ってしまうかもしれない。
慌てたレティアは王様の手を振りほどこうとした。
しかし、王様の手が離れることはなかった。
聞き入れてくれなければ離れないと、青白くも力強い手が語っている。
「……わ、わ、わ……分かりました、から」
レティアは声を引き攣らせて言った。
すると王様の手から力が抜けた。
がくりと崩れ落ちた王様が、レティアの前に平伏する。
「ありがとう、レティア嬢。本当に、本当に……」
泣くような声が落ちる。
王様の顔の下に、小さな氷が落ちた。
それは王様からこぼれ落ちた涙であった。
レティアの冷気により凍りつき、氷となってパラパラとこぼれ落ちている。
驚いたレティアは、急いで二歩ほど後ろに下がった。
冷気が当たりすぎたことで、王様が苦しみ泣いていると思ったのだ。
「……あ、あ、あの」
後ろに下がったレティアは、声を漏らしたあと、唇を強く結んだ。
未だに、なにがなんだか分からないことばかり。
しかし目の前に、必死になにかを守ろうとしている人たちがいる。
それがどれほどのことなのか。
レティアにはほとんど分からなかった。
しかし分からずとも、なにかが伝わってくる。
レティアの冷えた胸の底にちくりと、熱を帯びた針が刺さったような気がした。
「……ど、どうすれば、いいですか。教えて、ください」
奇妙に痛む胸を押さえ、レティアはこぼす。
直後、青白い顔をしていた王様が顔を上げた。
その顔には凍った涙が貼り付いていたが、希望を覗いたような色を揺らしていた。
◇ ◇ ◇
その日から、レティアの生活は一変した。
いや、前日にも一変していたが、それどころではない。
まず痩せこけた身体が健康を取り戻すまで、専属の料理人がレティアに付いた。
運ばれた料理が冷めることのないよう、一品ずつ、丁寧に出される。
温かい料理を食べたことがなかったレティアは、非常に驚いた。
驚きのあまり、最初はすべて吐いてしまったが。
衣服に関しては、レティアの体調と容姿に合わせて変えられた。
身体が骨の皮だけでなくなったとき、ようやく美しい衣服を着ることとなった。
居住する場所は、新たに造られた。
王宮の一部が凍りついたことで、様々な支障が生じたためである。
新たに作られた建造物は、水晶宮と名付けられた。
生まれでた氷が水晶のように煌めいているからだ。
レティアの生みだす氷は、ベル・ザラムを襲う熱気が余すことなく溶かした。
溶けて流れでた水はすべて貯められ、ベル・ザラムを潤した。
「まるで夢のようです」
水晶宮を訪れたグイラムが、感嘆する。
外観も美しいが、内装も美しい。
熱い外気が取り込まれるようになっているため、水晶宮内は、溶けた氷が川を生んでいる。
「……こんにちは、グイラム様」
訪ねてきたグイラムに、レティアは挨拶をした。
ベル・ザラムに来てから、一年半。
痩せこけていたレティアは、元気な姿を取りもどしていた。
なにに対しても怯えていた性格も、少し落ち着いている。
「今日はただ、涼みに来ただけでして」
「……そうでしたか。どうぞ、ゆっくりしていってください」
「レティア様。街のほうにも行かれているとか」
「……お許しが出た時に、少しだけ。……皆さんには感謝しています」
レティアは笑顔を見せて言った。
とはいえ、レティアが街へ行くのは非常に困難であった。
レティアは常に冷気を放っているので、予告なく出かけると大混乱を生んでしまうのである。
食事をしている者の料理が凍るだけならまだしも、体調不良を訴える者もいるほどだ。
そのためレティアが街へ行くときは、事前に告知することが決まっていた。
通る道も、時間も、すべて決まっている。
変更することはあり得ない。
それでもレティアは、街を見れることが嬉しかった。
十二歳になるまで、レティアの世界は牢屋の中だけであったのだ。
それに比べれば、今は自由である。
今ある制限など、無いに等しい。
「本当はもっと、自由に生きてほしいのですが」
グイラムが悲しそうな表情で言った。
その言葉は、この一年半、多くの人に言われてきた。
しかしレティアは首を横に振る。
「……これ以上、望むことはありません」
「ですが」
「……本当に、十分です」
レティアは微笑んで見せる。
もちろん、もっと自由でいたいという思いがないわけではない。
しかし欲を言いだせばきりがない。
ベル・ザラムに来たばかりのころは、見世物小屋の牢屋のほうがマシだと思ったこともあったのだ。
どこに居ても、足りていると思えば、足りることができる。
「お茶を淹れました。レティア様」
侍女のひとりが、そっとレティアの傍へ寄った。
二重構造の容器に、熱い茶を淹れて持ってきたのだ。
「……グイラム様。私は多くのことを知る前に……このお茶に慣れることが先かもしれません」
レティアはお茶を淹れた容器に視線を向ける。
実は未だに、レティアは熱い茶が飲めない。
熱いほうが美味しいのだと教えられたが、どうしても舌が熱に耐えられないのだ。
「はっは。たしかにそうかもしれません」
グイラムが笑う。
その笑顔を見て、レティアは苦笑いした。
同時に、胸の奥が少し震える。
その震えがなんであるか、レティアには分からなかった。
(……この震えがなんなのかも、分からないと)
レティアは苦笑いしたまま、熱い茶を一口飲んだ。
瞬間。レティアの舌が悲鳴をあげる。
自ら発する冷気が口の中に届くまで、レティアがぐっと耐えた。
その様子を見て、グイラムがまた笑う。
想いを込め、想いに満ち足りた水晶宮。
レイ砂漠の熱を受け、煌めき揺れる。
外に揺れている野望も、煌めく宮を覗いているが、それはまた別のお話。
最後までお読みいただき感謝します。
本作は長編用を短編に書き直したものです。
ライトなファンタジー「どんな時でもお金には困りません!」
正統派ファンタジー「傀儡といしの蜃気楼」も、お手に取っていただければ幸いです。
「面白いかも」「つづきが気になる」「長編で書け」と思ってくださった方は、
下にある「☆☆☆☆☆」に評価を入れたり、
ブックマーク登録していただけたら嬉しいです。
励みになりますので、どうかよろしくお願いいたします。