小説が読めないのはAV症候群ではないか
アニメ化された作品は何作品も見てるし、モノによってはリピートしたり、もう転生大好きすぎて困る。
なのに小説が読めない。
小説に限らず、文章が読めない。
エッセイを書くのに、エッセイすら読めない。
物語ってのはそれを受け止めるために多くの情報が必要だし、その情報を得るためには多くの文章を読まなくちゃいけない。どんな人物がどんな世界で発言したかによって言葉の意味が変わる。読まなければ、続きの意味が分からなくなる。
読めないってのは、1000文字程度読んだら、結論が欲しくなって段落を飛ばしたくなってくる。
自分が書くときには無駄を省いて短くと思うのだけれども、短くし過ぎると意味が分からないし、実際読んでいて仮定が前提になって飛躍していく論法のエッセイとか、たぶん私と同じような頭なんだろうなと思ったりしながら読んだりする。
それぐらい、途中を飛ばしたら作品の味がわからなくなるにも関わらず、途中で「あとどれぐらい読むんだコレ」と思い始めてしまう。
それが駄作だとか読ませるテクニックがないとかそういう問題ではない。私が読めないのだ。
この状態をどう考えたらいいのか、前はもう少し読めたはずなのに。
考えてみたら、アニメだってOPEDはぶっとばしているし、前回の続き部分が最初に入るようなものはすっ飛ばす。作品としては、OPからEDまでがワンセットなのに不要と思って切ってる。
と考えて思い当たることがあった。
これはAV症候群(という病気があるかもしれないが、私が勝手に思っている病気)ではないか。
AV=アダルトビデオだ。いわゆるオカズ。
おなかが膨れればいいのであって、何十分かの時間の中の数分だけあれば足りることが多い。結果さえ得られれば、途中はどうでもいいと端折る。
映画館で映画を見る時は、おとなしく予告編を何本も見て、関係ないCMも挟まっていて目的の本編でない部分を結構な量を見せられるけれども、映画館らしく好ましくさえ思える。私は本編の前のCM部分から見るのが好きだ。そして、エンディングロールも終わって場内が明るくなるまで立たない。
小説を読むと言うのは、こういう楽しみ方をするものだったのではないか。
ライトノベルというジャンルは、短時間で隙間時間で楽しめるのが魅力ではあるけれども、小説は映画のように楽しむジャンルではないのかとの考えに至った。
要するに、私は文章を読む時に、AVのラストシーン付近だけをリピートするように、面白いシーンだけを先読みしたいと思って読み始めてしまっている。でも、本当の感動シーンは前段階が幾重にも重なっているからこそ感動できるものであって、その世界を受け入れる脳内環境も整えなければ、せっかく用意されているクライマックスも薄っぺらなものになってしまう。
インスタントに感動したい、短時間で気分を上げたい、まるでAVのように小説を読むなら、そりゃ読めなくなる。小説を読む態度ができていない。
さらに考えると、例えばクラシックコンサートなどは好例。曲自体はもちろん知っている前提。映像的な演出も最近は増えているようだけれども、基本的には音を楽しむためだけに会場に足を運ぶ。その間、本を読んだりスマホを見てたりする人はいない。目の前の演奏者は演奏をしているだけでダンスを披露するわけでもない。目は暇だ。でもスマホを見ながら聞くような人はいない。
そこにはある程度の集中力と表現者を受け止めようとする姿勢が求められる。それが出来ない人にはクラシックコンサートは退屈でしょうがない。受け止められる人には感動の連続なのに、もう途中で席を立ちたくなる。AV症候群はそんなところに現れる。
楽しみたい、感動したい、そんな欲求を深く満たしたいなら、それなりの姿勢が必要なのだと思う。インスタントな快感が手に入る時代になり、AV症候群をこじらせていると自覚するなら、今一度自分自身の作品に対する態度を改めようと考える。それが結果として自分自身に深い感動を与えてくれるはずだ。
着眼点としてアタリじゃないかと思っています。
深呼吸をして、邪魔が入らない環境で静かに本を手に取る。これが贅沢なはず。
今はスマホなりPCなりでチャチャっと読める反面、構えて読まないしすぐ邪魔が入る。
だから長い文章が読めない。
逆に読ませる方は、そこを意識すれば読み進めてくれる小説になるんじゃないだろうかとも。