30.前世の記憶って
「ジークハルト様に怪我がなさそうでよかったです」
クリスティーナはジークハルトを繁々と見て、ほっと息を吐いた。
疲れていそうだけど、ジークハルト様に怪我などはなさそうでよかったわ。
「あの後、どうなったのか訊いてもいいですか」
マーマリード公爵とニコラスがどうなったのか。気にはなっていたものの、もしかしたら外交問題にまで発展しかねないだけに、内々に処理された可能性を考えて他の人には訊けなかったのだ。
「それは構わないけど、クリスティーナは大丈夫?」
ジークハルトが心配そうに顔を覗き込むように見る碧の瞳と目が合った。
頷く瞳に迷いがないのを確認すると、ふっと笑った。
「クリスティーナは強いな」
本当のことを言えば、あの時のことは思い出したくはない。だけど、それ以上にどうなったのかは知りたい。
それにどうしてこうなったのか、それでこれからどうなるのか、ちゃんと知っておかないと、いつまでも気持ちの整理がつかないだろう。
「マーマリード公爵とメジリアの王子のニコラスはクリスティーナの誘拐の現行犯で捕らえたよ。でも、余罪も色々あるから、判決が出るのはもう少しかかる。それにニコラスが訳の分からないことを言うから、なかなか取り調べが進まないんだ」
ジークハルトはその時の様子を思ってか、遠い目をした。
「あ…やっぱりですか」
「ん?クリスティーナには分かるのか?」
「何となく…前世の話ですよね」
窺うようにジークハルトを見ると、眉間に皺を寄せている。
「クリスティーナはあいつと何か因縁があるのか」
「え!?違いますよ!偶々同じ世界に生きていただけですから。知り合いでもなんでもないです」
ニコラスと前世からの何か特別な関係だと誤解されたら堪らない。
「ふーん。まぁ、いいや。前世なんて今は関係ないし」
ジークハルトはクリスティーナの焦った様子を冷めた顔で見て、サクッと話を変えた。
「それより、あいつの言っているゲームって何?クリスティーナを悪役令嬢だって言ってたけど」
「あ…それですか。うーん。私は前世の記憶がそこまではっきりしてる訳ではないんですけど、前世でやっていたゲーム、まぁ、物語の世界と同じなんです。ジークハルト様も出てくるし、お兄様もサイオン様もネイト様もシリウスも出てきます。主人公は男爵令嬢のローラ。簡単に言うと、ローラのジークハルト様たちとの恋愛物語なんです」
ジークハルトの眉間の皺が不快そうにどんどん深くなっていく。
「クリスティーナ・ラグリーはジークハルト様の婚約者で、ジークハルト様とローラの恋の邪魔をする悪役ってことです」
「は?婚約者が他の女と仲良くしてれば邪魔するのは当然だろ。悪いのは浮気する男と婚約者のいる男に粉をかける女だろう。なんで、クリスティーナが悪役なんだ」
「ローラを虐めるからですかね?持ち物を隠したり壊したり池に突き落としたり。とにかく、ローラを虐めたことで、断罪されて、婚約破棄された後、修道院や国外に追放されるんです」
「公爵令嬢が男爵令嬢をちょっと虐めたからって罪には問われないだろう。身分が違いすぎるし、断罪されるのはローラである方が自然だ。大体、何人もの男と恋愛をするなんて淫乱なんじゃないか」
確かに!ゲームだからそういうものだと深く考えてなかったけど、この世界では身分が重要視されてるし、幼い頃から婚約者がいるのが割と普通で、慎み深い女性をよしとする貴族社会ではあちらこちらの男性と恋愛しまくる女は淫乱だと軽蔑される。しかも途中までは同時進行だ。
たとえ最終的に一人に絞ったとしても、社交界では生きていけない。
現実はゲームよりシビアだ。
「それは…物語なんで。えーと、ニコラスはクリスティーナがメジリアに国外追放されるようにして、それを助けて囲おうとしてたみたいです」
「それが物語通りにいかないから、こんな暴挙にでたのか。馬鹿なんじゃないか、あいつ」
信じられないとばかりに呆れた顔をするジークハルトに、クリスティーナは力なく、ははっと乾いた笑い声をあげてがっくりと肩を落とした。
その馬鹿げた妄想に取り憑かれていたのはニコラスだけじゃない。私も心の奥底ではそうなるんじゃないかとずっと恐れていた。
「それから、ローラ・パティーニも禁術の使用の罪で捕らえられてる。あいつもおかしなことを言ってたから、同じように前世の記憶っていうのがあるのかもな」
ジークハルトはいかにもついでという感じで、ヒロインローラの近況を付け足した。
「やっぱりですか。前世の記憶があるなら、尚更魅了の魔法を使う意味が分からないですけど」
ゲームとはあまりに違う結末に、ついついため息がこぼれる。
前世の記憶って何の為にあるんだろう。こうなってくると、前世の記憶があったばっかりに、ゲームのシナリオにこだわって馬鹿げたことをしでかしたってことになる。
ここはゲームの世界と同じだけど、みんなちゃんと心があったし、この世界に生きている。
怪我をすれば痛いし、死ぬことだってある。
クリスティーナは時を戻す魔法を使ったけど、その魂はもうこの身体には戻れない。
本当の意味でのやり直しはできないのだ。
それぞれみんなに選択肢があって、決まった未来なんてない。
今まで心の底にあったわだかまりがすっとなくなった気がした。
「なんだかすっきりした顔になったな」
顔を覗き込むように見てくるジークハルトの顔があまりに近くにあったのに驚いて、思わず仰け反って、そのまま横に倒れそうになったところを抱き止められた。
「ひぇっ」
およそ淑女らしくない声が漏れる。
ジークハルトは顔を真っ赤にして、目を丸くしているクリスティーナを見て、可笑そうに笑った。
「そう言えば、助けに行った時にはジーク様って愛称で呼んでくれてたのに戻っちゃったな」
「え?えー?そっそうでしたか?」
あの時は助かったっていう安堵で、何をどう言ったかなんて覚えてない。
焦って目線をキョロキョロさせていると、両手でクリスティーナの頬を押さえて、覗き込むように目線を合わせた。
「これからはジークって呼んでほしいな」
「えっ、でっでも」
言いかけるクリスティーナの口を人差し指で押さえる。
「でもは無し。大体、メジリアの王子はニコラスって呼び捨てなのに、なんで婚約者の俺はいつまでも敬称呼びなんだ」
あんなことしてきたニコラスに様付けなんておかしいからだとか色々言いたいことはあるけど、ジークハルトの言いたいことは分かっている。
いつまた婚約破棄を言い出すのか、心のどこかで怯えていた。
好きになってから、そうなるのは、クリスティーナになって最初に感じたあの寂しさ悲しさ辛さをまた感じることになる。
それがずっと怖かった。
だから、一歩引く為に敬称呼びだったし、言葉遣いも崩さないようにしていた。
でも、そんなこと関係なかった。好きになる時には好きになってしまう。
「ジーク」
小さな声で呼べば、満足そうに笑うジークハルトと目が合った。




