15.噂話
「ソルド先生、私のせいで不名誉な噂が立ってしまい、申し訳ありません」
ジュリアに付き合ってもらい、クリスティーナは担任のソルドの元を訪れていた。
「いえ、それはクリスティーナさんのせいではないでしょう」
ソルドは眼鏡の奥の茶色い瞳を瞬かせた。
ソルドはクリスティーナの26歳の魔術理論の担任教師だ。
「大体、学園長を始め先生方は皆、クリスティーナさんが優秀だと知っています。勿論、クラスメイトたちもね」
ここ最近、学園に妙な噂が広がっていた。
担任教師がクリスティーナ・ラグリー公爵令嬢に籠絡されて、成績を改竄している。公爵家と王家の威光を笠に着て入学試験でも、不正があったと。
「クリスティーナさんがあまりに優秀なので、妬んだ者が流した噂なのでしょうから、気にする必要ありませんよ。普通にしていれば、ちゃんと実力が分かるはずですから」
ソルドは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。また、妙な噂が立つといけないので、これで失礼します」
二人きりになると、また噂に尾鰭がつくことは容易に想像がつく為、ジュリアを伴って来たが、時間は短いに越したことはないだろう。
早々に部屋を退出した。
「はぁ〜」
クリスティーナは行儀悪くも生徒会の机に突っ伏して大きなため息を吐いた。
横に座ったジュリアが労うように頭を撫でた。
「それにしてもこんな根も葉もない噂を誰が流したのかしら」
ジュリアの声には穏やかな彼女に珍しく怒気をはらんでいた。
噂話とは厄介で本人や友人たちには届かないところで広がっていて、気づいた時には誰が最初に言い出したのか確認しようがない。
しかも、本人に面と向かって言うわけではないので、弁明の機会がない。
足を引っ張りたい人が適当な噂を流しただけだろうし、全く後ろ暗い所がない。だから、自分だけの噂話なら、放って置いても全然構わないんだけど、ソルド先生まで貶められるなんて、なんとも申し訳ない。
「小さな時から神童だと言われていた僕より年下のティーナの方が何倍も出来た。不正なんてする必要ある訳ないのにな」
サイオンは持っていた書類を机の上に投げ捨てるように放った。
え?
神童?
それより出来たって、私おかしいじゃん!
前回の記憶があるからってやり過ぎた?
「ティーナが始めた勉強会だって貴族の中では秀才の集まりだって有名でみんな参加したくってしょうがなかったくらいだ。義兄になったからってなんで参加できるんだって随分妬まれたもんだけどな」
レイモンドが顔を顰めた。
⁉︎
あの友達になろう計画で始めた勉強会がまさかそんなことに⁉︎
「本当のところはみんな分かってる。あんまり気にするな」
初めて知った話に呆然としていたクリスティーナの頭をいつの間にかジュリアの代わりに隣に座っていたジークハルトが優しく撫でた。
顔を上げれば、思った以上にジークハルトの顔が近くにあり、綺麗に晴れ渡った空のような瞳と目が合い、息を呑む。
美形の王子様の破壊力は思っていた以上で、思わず仰反ると椅子から転がり落ちそうになった。
すかさずジークハルトが手を伸ばしてクリスティーナを支えた。
「大丈夫か?」
肩を抱き込まれる体勢になって、先程より距離が近くなってしまった。
「もっ申し訳ありません。大丈夫です」
ジークハルトは真っ赤になってうつむいたクリスティーナを元の位置に戻した。
「俺の大切な婚約者を貶められたままにはしておけないから、一つ情報を開示するか」
何やらジークハルトが黒い感じの笑みを浮かべていたが、クリスティーナはそれどころじゃなかった。
大切な婚約者って!
最近、ジークハルト殿下の言動が甘い!
内心ワタワタしているのをなんとか平静を装って、冷め切ってしまっている紅茶を口に含んだ。
「あの算盤というのを発明したのはクリスティーナ様だったんですね。さすが天才と名高いクリスティーナ様です」
最近、そんなことを話しかけられることが増えた。
「算盤を発明したのは私じゃないんですけどね」
遠い目をして窓の外を眺める。
今日の生徒会室はまだクリスティーナとジークハルトしか来ていなかった。
「この世界にはなかったんだから、ティーナの発明ってことでいいんじゃないか」
ジークハルトはなんてことないといった感じだが、クリスティーナは人の功績を横取りしたような居心地の悪さを感じていた。
なんでそんな話になっているかと言うと、計算が大変そうだったお父様と家令の為に計算機は流石に作れなかったので、前世で使ったことのある算盤を職人に作らせてプレゼントしたのが、数年前。
どうやら知らない間に、算盤はこの国のあちこちに広まったらしい。
王宮や領地で重宝されているらしいのだが、最近まで、この算盤を作ったのは誰か公表されていなかった。
「なんで急に公表したんですか?」
クリスティーナがジークハルトを恨みがましそうな目で見た。
「勿論、噂を払拭する為だよ」
「あの噂ですか」
「噂なんて上書きすれば、あっという間に掻き消される。元々根も葉もないんだからな」
「確かに嫌な噂は一掃されたようですけど、それとは別の意味で少し居心地が悪いですよ」
「ティーナは謙虚だな。でも、ティーナがソルド先生を籠絡してるなんて噂、俺が放っておける訳ないだろう」
ジークハルトがクリスティーナの手を取った。
剣を握るちょっとゴツゴツの男の人の手を感じて、クリスティーナは一気に顔が熱くなった。
恋愛偏差値が低いクリスティーナはここのところ、甘い雰囲気を醸し出すジークハルトに翻弄され通しだ。
どうしたらいいのか分からず、俯くばかりだった。
ジークハルトは暫く、その初心な反応を楽しそうに見ていた。