1 踏切と涙
「せ、芹那?」
「そうよ? なに言ってるの?」
「僕……、まだ、夢……」と混乱した頭を必死に整理しようとしていると、起き上がった芹那が僕の後ろを見て「きゃあ!」と小さな悲鳴を上げた。
僕は振り向くと同時に飛び掛かってきた小さな化け物に、思わず左腕を出して顔をかばった。
「河童だ……」
「か、河童!? そ、それより早く何とかしなさいよ!」
「う、うん」と言いながらも、僕は自分の腕を噛む河童を怖いともなんとも思わなかったし、腕に食い込む鋭い歯に痛みを感じることもなかった。そうだ、僕の身体……。僕は山の中で盗賊に襲われた時のことを思い出した。盗賊に短刀で喉元を刺されたが、それで死ぬどころか僕の皮膚は短刀を弾き、痛くも痒くもなかった。いや、少し痒かったかな? 思い出せないや。
「ね、ねえ、痛くないの!? そいつなんなの!?」
「河童だよ。化け物だけど、弱い奴だから怖がることはない」
「じゅうぶん怖いわよ!」
確かに見た目は怖い。皮を剥がれてむき出しになった肉から血が滴っているような見た目だ。黄色い目は鋭く、顔が裂けたように大きな嘴には鋭い歯が並んでいる。けど……、けど僕が今まで戦ってきた化け物に比べれば、子犬のようなものだ。けどそう言えば、初めて河童に襲われた時には、僕も芹那と同じように腰を抜かしてたっけな。それを思い出すと、僕はなんだか笑ってしまった。
「ちょっと和也、なに笑ってるのよ! 変な趣味でもあるの!?」
「あ、いや、ごめん。ちょっと思い出し笑い」そう言うと僕は、河童の首根っこを掴んで無理やり噛みつく腕から引き離すと、向こうに放り投げた。
噛みつかれた左腕を見たけど、どこも怪我などしている様子もない。わずかに歯型が残ってはいたけれど。やっぱり少し痒い。僕はそう思ってポリポリと左腕を掻いた。
「ちょっと、びっくりさせないでよ」芹那がそう言って僕を咎めた。
「うん、ごめんごめん。それより……」と僕がここがどこかと芹那に尋ねようとした時、また「カーン、カーン、カーン……」と遠くに踏切の音がした。
「聞こえる?」僕は尋ねた。
「うん、聞こえる……」
「戻って……、きたのかな」
「うん……、でも……」
「どうして戻ってきたのに、化け物が出るんだろ……」
「なにか……、おかしいよね?」
僕は立ち上がり、芹那の手を引っ張って立たせた。
踏切の音、明滅する赤い光、僕は芹那の手を引き、背丈ほどもある深い雑草の中を前に進んだ。
懐かしい、と言っていいのかどうかわからないけれど、とにかく僕はここに戻ってきた。
あれから何か月たったのだろう。
二か月……、いや、三か月は向こうにいたはずだ。
目の前を電車が走り去ると、踏切の音はやみ、赤いランプも明滅をやめた。
ここからまた、あの世界に行くことができるのだろうか。
今すぐスサノオを助けに行きたい。そんなくすぶるような衝動がなかったわけではない。ただ今は、まるでその気持ちに水を注ぐように、目の前に現れた踏切が「今までのことはいっさい夢の中の出来事だったんだ」と混乱した僕の頭に現実を叩きつけてきたように思えたのだ。そしてその現実に、僕の思考はストップし、ただ静まり返った踏切を前に呆然と立ち尽くした。
「ねえ和也、これからどうする?」
そう言われて、僕は初めて芹那の顔を見た。いや、今までだって見てきたのだけれど、ずっと暗闇の中だったし、顔の輪郭や雰囲気なんかくらいしかわからなかったのだ。今は踏切の向こうに団地があり、そこからの明かりで芹那の顔を見ることができた。
芹那はくせっけのある髪を肩の辺りで切っていた。何か運動でもしているのか、少し日に焼けている。内気な美津子とは逆に、大きな二重の目や口の辺りの筋肉は、笑顔を作り慣れているように見えた。
「あ、和也って私より背低いんだ」そう言われて初めて、僕は芹那の目線がほんの少し僕より上にあることに気付いた。
「そ、そりゃだって、僕まだ中一だし……」
「ちゅ、ちゅういち? 中学一年生ってこと? ついこないだまで小学生!? えーーーっ!?」芹那のその言葉に、僕は急になんだか自分が幼くなったような気がした。
「言ったはずだよ。全部話した」
「でもなんだか、すごくたくましかったし、頼りになるって言うか、高校の友達なんかより……。って、ごめんなさい。和也のこと子ども扱いしたくて言ったんじゃなかったんだよ」芹那は僕の落ち込んだ様子が自分のせいだと思ったのか、急に謝ってきた。けれど僕が落ち込んでいる理由は、僕が背が低いからでもなく、中学一年生のガキだからでもなく、美津子を……、美津子を置いてきてしまったからなんだ。僕は助け出すことができなかった。僕は弱くて、弱すぎて、何もできなかった。
「ねえ和也、また行くんでしょ? あの世界に」
「うん……」行かなきゃ。また戻らなきゃ。美津子を、このままにはできない。
それに僕は、僕はスサノオの生まれ変わりなんだ。
「これからどうする?」芹那が聞いた。
「わからない」
「さっきの化け物……、私たち、もとの世界に戻ってきたなら、どうして化け物なんか出てきたんだろ」
「わからない……」
「ちょっと和也、ちゃんと考えてる? って、そうよね……、和也、私より三つも年下なんだ。それなのにあんなに戦って、私の手を引いて……。これからどうするかなんて考えられないよね」芹那はそう言うと、僕の肩を抱き寄せ頭を撫でた。その優しさに、なんだか僕は涙が出てきた。泣いてるとこなんて芹那に見られたくない。そう思えば思うほど、涙が止まらなくなってきた。そしてこの三か月に起きた辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったことばかりが頭をよぎり、その後にスサノオや八岐大蛇やコトネやみんなみんな、いろんな思い出が壊れたダムの水のようにどんどん溢れて、もうどうにも僕は隠しきれないほどに泣いていた。
そんな僕を見て芹那はガキ扱いなどせず、じっと何も言わず肩を抱き寄せたまま頭を撫でてくれた。
目の前の踏切が鳴り、何度か電車が行き過ぎた。
「そうだ。とにかく一度帰ろう。自分の家も気になるし」芹那は僕が落ち着くのを待つようにしてそう言った。