ニンゲンのテンテキ
ニホンオオカミは100年以上前には絶滅したと言われている。
ということは、今現在日本各地に生息しているシカやサル、ウサギなどの被捕食者といわれる動物達は、オオカミになど出くわしたことは無いはずだ。
しかし、例えば動物園で飼育されている外国のオオカミの糞尿を線路の周りに撒くとその臭いを忌避して、シカは線路の近寄らなくなるという。オオカミに限らず、ライオンといったそもそも日本に生息していない肉食動物のそれでも効果は同じである。
つまり野生動物は経験に基づく危険回避だけでなく、遺伝子に刻み込まれた本能で近づくべきでは無いモノを感じ取っているのだ。
本能というものはまったく面白い。
人間はどうだろう?
人間にも本能は存在する。本能は生まれたての赤ん坊のときが一番顕著に表れているが、肉体・精神の成長とともに薄れ、あるいは理性で押さえ込むことができる。
故に人間は人間であるのだ。
太古の昔、人間だって野山をかけずり回る獣だった。しかし深い地層から見つかる化石を見ても、進化の先である今の人間の身体能力を見ても、人間が動物として絶対的な強者であるという根拠は無い。
しかし人間は他の獣を押しのけ、生息域を拡大し地上のほとんどを征服している。それはどうしてか。人間は肉体ではなく、知能を発達させ他を凌駕する力を得る事を選んだからだ。
脆弱な肉体を補うための武器を開発し、食われる立場から食う側へと成り代わったのだ。
武器・兵器を手にした人間は天敵など居なくなったと言っても良いだろう。皮肉を言えば人間の敵は人間である、ということか。
動物園でライオンやオオカミの排泄物その物でなくても、強者とされる肉食動物の臭いを嗅いだ事はあるだろう?でも不快に感じることはあっても、逃げ出したい衝動に駆られることは無いはずだ。
人間は遺伝子に刻まれた天敵を忘れてしまったのだろうか?それとも本能に刻むほどの強力な敵はいなかったのだろうか?
そんなはずはない。
人間にも天敵は存在するはずだ。人間は最強の肉食動物などでは無いのだから。
ではその本能に刻まれた敵はどこにいるのだろう?
ニホンオオカミのように駆逐され、現代には残っていないのだろうか?
もしも人間の天敵がいるのであれば。現在も生き残っているのなら。
表立って天敵が人間に認識されていないのであれば、どこかに隠れ棲んでいるに違いない。
武器を手に入れた人間を凌駕する力や多勢に無勢の人間を躱す知能を持っている可能性だって十分にある。
そんな天敵が生息している場所はどこか?
食料となる人間のほとんど野山を下り、町や村などのコミュニティーを作って生息している者がほとんどだ。
肉食動物は草食動物を追って移動する。ということは人間の天敵も人間を追って来ている。ということは天敵も私達人間のすぐ側にいるに違いない。
だから私はこの仮説を証明するため、人間の天敵を探すことにした。
シカやサルなどの野生動物を見習うなら、天敵の気配がする場へは好き好んで近づきはしない。その気配を察知するツールとして、動物は臭気を頼りにしているのだろう。
しかし野生を捨てた人間の嗅覚は野生動物のそれとは格段に性能が落ちている。
はっきりとした命の危機を感じる臭いを意識的に嗅ぎ取れることは難しい。経験・知識として、プロパンガスや硫化水素の毒物の臭いについては知っているが、本能による生命を脅かす臭いを嗅ぎ取ったことは無い。
だが人間の生息域の中にも、人間が無意識のうちに近寄らない場所があることは事実だ。
それは薄暗い路地裏であったり、人間が住まなくなって久しい廃墟であったり、あるいは人間が活動している同じ建物の中であっても避けられている部屋など、考えてみれば身近に多く存在する。
なぜ人間はそこに近づかないのか?
用が無いから?不気味だから?その場所があることを知らないから?
理由はいくらでもあるだろう。
しかし、もしもその理由の根底に本能が「行くべきでは無い」と訴えているのであれば?本能を刺激する、天敵の存在を感知させる「何か」が関係しているのなら、人間の危険回避の本能はまだ使えると言えよう。
だから私は行きたくない、近づきたくない、誰も知らない場所を手当たり次第に探し始めた。
他人の建造物や私有地であれば不法侵入になってしまうのでどうしても捜索箇所は限られてしまう。傍若無人に探しているようでも、私は無法者にはなりたくはない。ある程度の節度は保っているつもりだ。
仕事もあるから捜索は休日や退勤後に限られる。おかげで思い立ってから3年も経ってしまった。
しかし私の予測は間違っていなかったのだ。
私の住むマンションの近くに雑木林があるだろう?そこに朽ち果てた小さな社があるのだけど、そこは本当に近寄りがたい場所なんだ。子供達の肝試しにすら選ばれない場所だ。私もこの天敵の住処についての推測を思いつかなかったら、これまでは迂回して通り過ぎるほどだったのだから。
そこでアレを見つけた。
ある程度目星を付けたところは複数ある。ただし、頻繁に訪れて天敵に気付かれては私が食われてしまうかもしれない。殺されなかったとしても警戒されて逃げられてしまえば本末転倒だ。
一見対照的な推察だが、肉食動物というのは相手を食い殺す残虐性と、気付かれまいとする警戒心を併せ持つ生き物である。
数ヶ月ぶりに訪れたその雑木林は、これまでに感じた事が無い、異様な雰囲気を纏っていた。
体が竦む。回れ右をして来た道を戻りたい。目に映るのはいつも通りの木々なのに表現しがたい恐怖を覚える。
つまりそれらの情報が教えてくれることは、出くわしてはならない何かがこの中にいるということだ。
何も考えていなければ無意識に避けているところだ。
しかしこれは、ようやく巡ってきた千載一遇のチャンスでもある。体の震えは武者震いとも言えよう。
尋常じゃないくらいに全身から汗が流れる。感じるのは雰囲気だけ。五感からは何も情報が入らないのに、体の本能は何かを感じ取っていることをまざまざと見せつけている。
こんなに汗をかいては天敵に気が付かれてしまうかもしれない。だから風下に回り込み、私の臭いが目標地点に達しないようにして、音をたてないように雑木林の中に踏み込んだんだ。
この時が日没手前で本当に良かったと思う。もし完全な夜だったら、街灯など無いこの場所で雑木林の中を進む事は出来なかっただろうし、明るすぎたら天敵に気付かれる可能性がぐっと増してしまう。それにやや風があることにも感謝した。木々のさざめきは私が出す音を隠してくれた。ただ風は感知出来ない恐怖を風下にいる私に届けてしまいもするが。
慎重に、息を殺して、音を立てず、逃げだしたくなる感情を追い出し、逸る気持ちを押し殺して、一歩ずつ前へ。
朽ちた社の後ろ、きっと正面からは見えないだろう位置に何かが蠢いている。
薄暗いせいもあり、動きもわずかなので何をしているか目視は難しい。しかし耳を澄ませば堅いものを咀嚼する音が聞こえる。
ああ、間違い無い。これは獲物を食っている。
動物が無防備になる瞬間は眠っている時と食事をしている時だ。つまり今がアレを捕らえるチャンスなのだ。
用意していた薬がアレにも効くかどうかは分からない。しかし血の通う動物であれば、ひと呼吸するだけで昏倒してしまう劇薬でもある。
ん?もちろん殺して得るつもりなどなかったよ。生け捕りにしてこそ生き物の研究ははかどるのだから。最後には解剖する予定ではいたけれどね。
まあとにかく、もしも薬が効かず逃げられたり私が返り討ちに遭ってしまったりしたらそのときはそのときだ。運が無かっただけと諦めるさ。
そしてアレが食事を終える前に、私自身がうっかり薬を嗅いでしまわないように慎重に準備をして、ひときわ風が強く吹き私の音と臭いがアレに届かぬ瞬間を狙って、一気にアレのところに駆け寄って。
薬を染み込ませたガーゼを口と鼻に押し付けた。暗くて一か八かの賭けだったけれど、どうにか上手くいったようだ。アレはすぐに意識を失って倒れたよ。
アレを沈黙させてから食べ残しを観察したんだ。そしたら見事に大当たり!残っていたのは40代くらいの男の腕だった。間違い無くアレは人間を捕食する生き物だ。ようやく私は人間の天敵を捕らえることに成功したというわけだ。
そして私はアレを自宅に持って帰って観察することにした。人間の天敵であるからには人間より大きな生き物を想像していたのだけれど、そこは予想に反して小柄だったのは嬉しい誤算だったよ。私一人でも簡単に抱えて持つことが出来たからね。
でも大きかったら存在に気付かれやすいかな。
あ、あとアレの食べ残しも袋に包んで持って帰ったよ。主食が人間ならすぐに調達は難しいからね。せっかく捕獲したのに飢え死にさせては元も子もない。腕以外に食べ残しが無かったのは、他の部位は平らげたのか、元々腕しか無かったのかは分からなかった。
それにしても私の家の近くで捕獲できて本当に幸運だった。もし街中の路地裏なんかだったら、多くの人目と監視カメラをかいくぐって怪しまれずアレを運ぶことは至難の業だ。捕らえた場所によっては血液や体毛を採取するくらいで生体そのものを持ち帰ることは諦めるしかなかった。私に仲間がいれば良かったのだけど、きっと計画の同意を得られることは普通の人間では難しいだろうから。
アレを持って帰って、あらかじめ用意していた観察用の部屋にアレを繋いだ。人間を捕食するためにどんな手段を使うかはわからないからね。取りあえず、しばらくはしっかり鎖で拘束して様子をみることにした。
私の家はマンションだ。両隣にも入居者がいる。人間が食料の生き物を飼っていることがバレてはいけない。
もしもご近所さんが本能で天敵の存在を感じ取ってしまったら、正体不明の恐怖で精神を病んでしまうかもしれない。万が一にでもご近所トラブルが発生しないようにアレを飼育する部屋は窓にしっかり目張りをして、分厚いカーテンをかけた。室内のドアにも隙間が出来ないようにしたし、もしもアレが暴れたり鳴き声を上げたとしても周囲に聞こえないように壁にも床にも天井にも防音材を打ちつけている。
ここまで気密性を高めてしまうとアレが窒息してしまう可能性もあるから、室内のエアコンと換気は恐怖を感じさせる物質を外に漏らさないように清浄機を取付けた特別製だ。
準備は万端。あとはアレが目を覚ましたらその生態と恐怖を煽る物質の実態を追求しようではないか。
アレが目を覚ましたときやはり暴れたし、耳障りな鳴き声をあげた。厳重な防音対策と体を拘束していなければ近所に鳴り響いていたに違いない。暴れていては近づくことはできない。危険だからね。
しばらくそのままにしてアレが落ち着くまで待った。
暴れ疲れてすっかり大人しくなるまで丸3日かかったけど、落ち着いたようだから試しに少し話かけてみたんだ。そうしたら会話は可能だったので真っ先に餌について聞いた。アレを維持する為には人間の肉が必要かもしれないなら、どうにかしないといけないからね。
準備万端のはずなのに、何故人肉を手に入れるルートを考えていなかったかって?さすがの私でも同種同族を進んで殺す気にはならないさ。この時はね。
どうやらアレは人間と同じ食べ物でも生きていけるらしい。この事実には本当に胸をなで下ろしたよ。
でも定期的に人間を食べないと調子が狂うとか、食人本能が暴走して突発的に狩り行動を取るなどの問題行動が出てしまうらしい。もしそれが人混みの中で起きてしまえばあっという間に人間の天敵の存在は知れ渡ってしまうだろう。今や一人一人がスマホを持っていて、すぐに映像に残せて情報を発信するのも容易い時代だからね。アレらにとっては随分生きづらい世の中になったものだ。
しかしアレらは分かっている。人間に敵と認定されたら絶滅するまで殺され続けることを。
だから気付かれないように、こっそりと、人間が近づかない場所で人間を食べている。
アレらにもコミュニティーがあって、運良く身元不明で捜索願も出されない人間を入手することが出来たら仲間内で分け合っている。入手できた人肉は保存しておいて数回に分けて食べているそうだ。
ある程度腐っていても骨だけでも平気で食べられるらしいから、登山と称して人気の無い山に自ら命を絶った人間を探しに行く場合もあるみたいだ。ただその方法は、アレらにとっても効率的ではないからあまり取られない手段だそうだけど。
しばらくは持ち帰った食べ残しを冷凍保存しておいて、定期的に与えよう。でもアレから聞いた限りだとあの腕一本ではふた月くらいしか保たないらしいから、人肉の確保を考え無くては。
私自身を食べさせられれば問題は簡単に解決するのだけど、私だって痛いのは嫌だ。よっぽどプラナリアみたいな再生能力を持っていない限りはね。今のは笑うところだよ?
それにしても、アレが随分従順に受け答えしてくれたなと思うだろう?動物とは押し並べて強者に従う性質を持つ。アレを捕まえて3日間放っておいて精神を疲弊させたあと、私自身動物を虐待する趣味は持たないが、研究のため、最低限の躾けをしたのが効いたみたいだね。
さて、念願の人間の天敵を入手することが出来たし、アレも私に協力的であれば最悪のことはされないと理解したみたいだから、早速研究を始めよう。
まずは採血だ。腕…は拘束しているから今回は首の血管からかな。
危ないからじっとしているんだよ。
アレの研究を始めて半年が経った。
その間に分かったことは人間を寄せ付けない物質は仮想臭気として予測していたけど、やはり嗅覚が感じているらしい。
研究をしているのは私だけだから、仮想臭気を治験するのも私だけだ。検証数としては信用するに値しないが仕方が無い。私の本能が人間の平均であると信じよう。
アレと同じ部屋にいて、人肉を食べさせている時に、視覚的恐怖と聴覚が感じる不愉快な音を遮断したときは恐怖を感じたが、嗅覚を封じたら全く何も感じなかった。つまりアレらは臭気を利用して人間を寄せ付けないらしい。
それに加え分かったのは、人間に忌避行動を起こさせる仮想臭気は人間を捕食中に発生しているということだ。臭気と表現しているけれど、実際には何の臭いも感じないのだけどね。
とにかく人肉を食べている時に人間が近づかないよう、仮想臭気は人間が無意識のうちに忌避行動を取り、なおかつ存在に気付かれないように無臭の物質として進化をしてきたということか。
そしてその仮想臭気はアレらのどこから発せられているのか。血液に始まり、唾液、汗といった体液全般に排泄物まで調べた。
結果は体表面全般から、他の動物同様汗腺が人間が忌避する物質の主な発生源であることが分かった。
ああ、私は空間の物質を研究する仕事をしているから、そういった分析をするのに不自由はなかったんだ。それにそれなりの立場にいるしね。
アレを探したり仮想臭気の正体を探ったりしたのは、もちろん趣味、というわけでは無い。きちんとした理由がある。
野良猫やアライグマ、ネズミなどを寄せ付けないための忌避剤ってあるよね?その対人間用を作りたいと思ったんだ。
深夜の公園とか立ち入り禁止の場所とか機密情報を保管している場所とか、人に近づいてほしくない場所ってあるじゃないか。そういう所に需要があると考えてね。
いくら立入禁止の札を立てても、厳重な警備の下でも人間って入っちゃうじゃない。ダメって言われたら尚更さ。ふふ。
不愉快な音を気付かれない程度にスピーカーで響かせて、無意識のうちにその場に留まらせない手法と一緒さ。それを本能に働きかける物質でやろうというわけだ。
成分の分析を終えて、人工的にそれを再現することが出来れば、置き型の虫除けよろしく人間避けを作ることができるはずだ。電気を使わないし、大がかりな装置も必要ないから経済的で環境にもやさしい。次の商品開発の手立てとして個人的に研究を始めたってわけだ。
こんな突拍子もない人間の天敵なんて仮説、常識的な大人なら一蹴するし組織として予算は出ないだろうしまともに取り合って貰えないだろうからね。
さて、そろそろ避けてきた問題に直面した。冷凍保存していた誰かの腕をアレが食べきってしまったんだ。本当はふた月くらいで消費する量だったんだけど、進んで人肉を調達するわけにもいかなかったから切り詰めて半年なんとか保たせてきた。けれど、少ない人肉を食べている間だけ発せられる仮想臭気はなかなか採取が難しくて、もう少し高濃度に、あるいは長時間発せられないともっと踏み込んだ分析に掛けられないんだ。
仕方が無いのでアレに人間の捕まえ方を教わって餌の入手を始めた。餌になる人間の条件は天涯孤独であったり、勤めをしていなかったり、肉親と疎遠であったり、不法入国者であったり…。とにかく突然居なくなっても探されない人間だ。戸籍がないならなお良いそうだが、そういった人間を常に探しているというのだから本当にアレらは苦労している。
とは言っても、私一人で探すのは無理がある。他人と疎遠で探される心配が無い人間を見繕うのは、勤めと個人的な研究をしている私では時間的にも難しい。都会から離れた山の中で息を引き取っている人間を探しに行くのもまた然りだ。というか登山をするほどの体力・筋力は私には無いしね。
それでもアレも人肉を欲する頃も近づいているから、迅速にどうにかしないと。
それで、アレが所持していたスマホを利用することにしたんだ。アレを捕まえた当初、仲間内で人肉を分け合っていることは聞いていたから、何らかの連絡手段を持っていることは知っていた。だからうっかりアレのスマホから情報が漏れることが万が一無いように極力電源を切ったり、調べるのも最低限にしていた。
どうやらアレ自体、この国に戸籍を持っていて人間社会の中に紛れていたらしいから当然捜索願が出されていた。しかしアレは個体で生活していた。人間の天敵のコミュニティーへも最低限しか参加していなかったらしいから、単なる家出人として警察では処理されているみたいだったね。実に私は幸運だったよ。
ああ、アレのスマホの使用料金はアレの預金から自動引き落としになっていたから問題無く使えたよ。契約を停止するモノもナニもアレにはいなかったのが幸いだったね。アレの預金が尽きるまではこのスマホから人肉に関する情報を得ようじゃないか。
さて、スマホを調べると(もちろんGPS機能はアレを捕まえた時に切っていたよ)、人間の天敵の情報交換をするSNSがあった。そこでは捕獲しても問題の無い人間をリストアップして、捕獲したら分け合うなどの情報共有されていた。
その情報を頼りに、私は餌の候補に入れられていた人間を捕獲することにしたんだ。有り体にいえば、アレらから獲物を横取りすることになるのかな。捕獲した獲物を天敵から分けて貰うなんで人間の私にはで出来ない手段だからね。自分で調達するしかない。
で、どうにか孤立して河川敷で暮らしていた人間を、アレを捕獲していたときよろしく薬を吸わせて昏倒させた。そこそこ体高のある人間だったけど、痩せていたからどうにか今回も私一人で運ぶことができた。でも、河川敷から監視カメラがある、あるいはありそうな所を避けて帰って来たから結構疲れてしまったよね。でも可愛い実験動物のためには必要な労力だと、アレを飼っている部屋に辿り着いたときは達成感で気分は良かったね。
捕らえた人間をアレの前に出したらとても驚いてしたよ。そしてとても嬉しそうに笑ったんだ。人間の天敵だけど、とても可愛く見えて私も苦労した甲斐があったと充足感に包まれた。
とりあえず人間を絞めるのはアレに任せた。血の一滴、髪の毛一本でも残れば、遺留捜査の技術が発達した現代の警察だったら、ここに私達以外の人間がいたことがバレる可能性がある。万が一にも不自然な失踪者が出たことに気取られないように、アレらは人間の絞め方や解体の技術を発達させてきたそうだしね。
魚すらまともに捌けない私では、痕跡の心配をするどころかせっかく得られた餌が目も当てられない状態にしてしまうのは明らかだ。解体には解剖とはまた違う技術が必要だからね。
新しい餌になった人肉をアレが解体した後、ほとんどは保存用に購入しておいた冷凍庫につめておいた。これでしばらくは餌を気にする事無く研究を続けられるので、一先ずほっとしたね。
ああ、キレイに人間を解体したアレへのご褒美にまとめておきにくい髪の毛と血液、それと腐りやすい消化器系の内蔵は新鮮なうちに与えたよ。本当に何の痕跡を残さず平らげるのだから、人肉を食す作法を同族から叩き込まれているのだなぁと感心した。
ちなみに人毛も食べるけれど、食人衝動を抑える効果は無いそうだ。髪でも餌として十分なら人肉問題はもっと簡単だったのにね。
研究を始めて3年も経つと、アレの為の人肉の確保も随分なれたし、十分な仮想臭気のサンプリングを行うことができた。
お陰で人間が忌避する無臭の仮想臭気の物質、対人忌避物質をほぼほぼ特定することができたし、それを研究室で人工的に再現することにも成功した。
しかしアレが直接発生させる対人忌避物質のように完全に無臭化することは未だ叶わない。でも何とか開発した「合成」対人忌避物質を業界に発表したら国内外から想像以上の反応があって驚いたね。
私も随分私財を投じた甲斐があったと思うよ。
その評価があって漸く勤めていた研究所から十分な額の予算が下りることになったし、あとはこの資金を元にさらに「天然」対人忌避物質に「合成」を近づけて行くかを突き詰めて行けば、私の研究は完成する。
ここまで来ればもうアレは必要無いかな。でも、実験動物とは言え3年も一緒に暮らしていたし、一部の餌も手ずから私自身が苦労して調達していたと思うと随分愛着が湧いてしまった。
本当はある程度飼育したら解剖してみたかったのだけど、もうこのまま飼い続けてもいいかな。人肉の調達にも抵抗を感じなくなったしね。
たまに一緒に食べて、今回の人肉の歯触りはどうかとか旨味は十分かとか感想を言い合うのも、実に面白いしね。
でもそんな未来も露と消えた。
私の隠蔽工作は完璧だったし、普通の人間では私が自宅でアレを飼っているかなんて分からないはずだ。
しかし「合成」とは言え、対人忌避物質を世間に発表したことや、コミュニティーから消えた仲間の存在、食肉用にマークしていた人間が自分達ではない何者かに横取りされていることで、私がアレを捕まえていると人間の天敵が気付いたんじゃないかな。
人間の天敵は実に人間らしく「犯罪者」を始末しにかかったようだ。警察が来たのだからね。
そうだな。何も知らない人間からしたら私は見ず知らずの少女を浚い、監禁・拘束して生態を観察し、唾液・血液・排泄物を採取して、そこから人間の忌避成分を抽出しようとしていた変質者だ。
しかもソレを得るためにさらに他人を手にかけ、アレに餌として与え、興味本位で人間の肉を食ってみたサイコパスだよね。
一言で言えば私は監禁誘拐犯で大量殺人犯だ。おや、二言になってしまったね。
わかっているよ。私の頭は正常だ。人間を食う生物が存在すると信じているだけで。だから極刑は免れないだろうね。
でも人間の天敵はあの通り存在しているのだよ。上手く人間に擬態して社会の中に溶け込んでいるから知られていないだけだ。もしかしたら君たちの中にも紛れているんじゃないかな。
きっと数は多くないだろう。でも少なくも無いはずだ。
だから君たちに一つ警告しておくよ。
謎の失踪者が出たら、特にそれが他人との関係が希薄な人間だったとしたら、天敵に食われたということも可能性の一つに加えておくことを。
謎の失踪事件を増やしたくないなら天敵についてもっと研究するべきとね。アレはもう逃がしちゃったのかい?残念だ。ようやく捕まえられた貴重なサンプルだったのに。
でも裁判所で会えるかな。私に飼われていたトラウマで出廷しないかな。
次に天敵を捕獲する必要が出たら私の記録を参考にするといいよ。情報は秘匿するつもりはないからね。とは言っても、すでに犯罪者になってしまった私には隠しようもないか。
人間の天敵はニホンオオカミのように絶滅させることはできるだろうかね?
ああでも、人間の天敵がいなくなったらシカのように増えすぎてしまうかな。
いや、もう手遅れか。
それと私が開発した「合成」対人忌避物質。経緯が経緯だから表舞台から姿を消しただろうけれど、きっと必要な場所は多いはずだ。いつの日かきっと、誰かがより「天然」に近い無臭の忌避物質を完成させて陰ながら実用化されることを祈っているよ。私以外の人間がそれなりの人数関わっているしね。
ところで、君は聴取室に入ってから随分顔色が悪いようだけど大丈夫かい?安心してよ?私は人間で人間の天敵ではない。確かに人肉を食べてみたことはあるけれど、数回切りだし進んで食べたいとは思わない。それにこんな法に触れるかすれすれの拘束着を着ているし、もし手足が自由だったとしても君を傷付けるような爪も牙も持っていないのだから、そんなに怯える必要はないと思うんだけれどなあ。
もし気になるのなら臭気を遮断できるマスクを着用する事をお薦めするよ。君が私をアレと同じと思い込んでいるなら、少しは気休めになるんじゃないかな。私がアレを観察するときに使っていた高機能マスクの入手の仕方を教えてあげるよ。
だからもうちょっと近づいて欲しいな。私も久しぶりに人間と話す事ができて嬉しいんだ。少し気分が高揚しているのは否定できない。
―――――だから、ね?