第八十二ノ夢 希望さえも失われた未来へと
嗚呼、これは呪いだ。神々が怒らせた『憤怒』の呪いなんだ。
瞳からローズ色の魂が消えるその瞬間、ラスはアダムとして、悪神・『憤怒』として和夜に呟いた。
「僕達に勝ったなんて思わないで?これは、道連れだよ」
ラスを引き剥がす明石の向こう側、背後では壁に寄りかかるようにしてアダムが座りこんでおり、そのこめかみからは赤い筋が流れている。赤い魂が茫然自失と云った様子で見開かれたまま、動きを止めている。もはやあの身体にラスがいないことは明らかで、嗚呼、それは明石に引き剥がされたラスと言う名のアダムも同様だ。
「(勝てるはずなんて……)」
虚ろな瞳へと変わっていくラスに和夜は悪態をつこうとするが容赦なく抜き放たれたガラスの破片が腹から大量の血を流せていく。ゴトリと鈍い音を立ててただの人形となったラスが床に倒れ伏す。人形のはずなのに露出した肌やヒビ割れた胸元を見なければ、殺したのは人間だと錯覚してしまう。けれど、ここにいるのは全員もれなく罪人なのだ。神からさえ見放された、『憤怒』が吠えたように。
和夜の体が痛みを伴って後方に倒れていく。今にも後方に倒れるという瞬間、和夜は無意識のうちに明石に手を伸ばしていた。そしてその手を明石は
「和夜っ!」
取ってくれた。和夜の手を強く自らの方へ引き寄せ、明石は彼を抱きしめながら座り込む。彼の腹に痛みが響かないように座り込むが、もはや和夜の体は限界だ。どう頑張ったって体中に稲妻のように痛みが駆け巡り、蜂蜜色の瞳が歪む。
「和夜、大丈夫?!」
「わる、い……油断し、た」
「和夜は悪くないよ!」
明石の無事を感じて和夜がほのかに微笑んだその時、微かに音がした。二人が音がした方を見るとラスが倒れるとその体からローズ色の仄かな光が放たれたところだった。それはリーラや茉昼の時にも見かけた色。彼らの魂だ。アダムの体からも同じように赤い色を放つ光が放たれる。と二つの光は触れ合いそうして混じり合う。まるで侵食しているようで喰らい合うーー共食いをしているようでもあった。一人と一体はおそらく死んだ。なのにまだとでも言うのか?もしそうだとしたら和夜と明石に勝ち目はない。ギュッと明石が警戒を込めて和夜を強く抱きしめる。次第に赤い光はローズ色の光に完全に飲み込まれ、アダムの体へと入っていく。悪神・『憤怒』であるアダムとラスの魂が本来の器へと戻ったのだ。虚ろだったアダムの瞳に一瞬光が戻る。来るか、そう思った二人だったが、ラスからアダムへと戻った彼は傷だらけの腕を上げた。ふるふると震える指先はアダムとしてラスが明石と戦った時についたのだろう赤く滲んでいる。アダムが指差す先にあるのは、いやいるのは和夜と彼を抱きしめる明石。もはや人形であるラスは心臓を貫かれたことにより死んだらしくーー人間のような人形に死ぬとは些か変な表現だろうかーー、身動さえしない。
「ウソでしょアイツ、心臓じゃないの!?」
「……いや、多分明石が合ってる」
驚く明石に和夜がポツリと呟き、落としてしまった刀を一瞥する。刀身には二つ頭の蛇と藤の花が咲き乱れている。しかし暫くすると蛇はスルスルと刀身内を蠢き、消えてしまった。そして
「っあ」
指を指したアダムを嘲笑うように再び二つ頭の蛇が彼の首に巻き付いた。だが首を絞め空気を与えないものではなく、ただ優しく添えるだけの生ぬるいものだった。アダムは首に巻き付いた蛇を一瞥し、クスリと敗者であるにも関わらず笑った。いや、本当に敗者なのかさえその時はわからなかった。ただアダムの左胸に咲いた真っ赤な花が証拠のような気がした。だからこそ和夜は「明石が合っている」と言ったのだ。それに明石も気づき、ニタリと何処か意地悪気な笑みを浮かべる。嗚呼、それでもアダムは微笑むのだ。悪神らしく、人間らしく。
「………良かったね碧藤」
アダムは首に巻き付いた二つ頭の蛇を真っ赤に染まった手で握り潰さんばかりの力で握り、嗤う。全く自分が今から死ぬことも神々へ怒りを与えるという所業が出来ないことへの怒りさえもない、ただただ静かな笑み。それがアダムの本性を知る二人からすれば、なんだか可笑しくていびつだった。
「死ね」
それは、もう一つの呪いだった。その一言を最後にアダムはゆっくりと腕を下ろし、目を閉じた。首に巻き付いた蛇はまるで冷たくなっていく彼を温めるように蠢いていたが次第に薄れて消えていく。二つ頭の蛇が消えた頃、アダムからローズ色の仄かな光が放たれた。その光を見てようやっと和夜は肩の力を抜いた。あれは、悪神と契約した者が死んだ時に現れるもの。つまりは。嗚呼、けれど、確かめる方法はないでしょう?視界は歪んできている。途端に濁流のような激痛が和夜を襲う。緊張と警戒が解けたせいで痛みがぶり返してたのだ。まだアダム、ラスがなにか隠し持っている気もしたが、痛みでそれどころではなかった。
「和夜……勝ったよ……勝ったよ……!」
明石は閉じられた目を弧を描いて呟くように笑う。そう、事実、和夜と明石はアダムとラスに勝ったのだ。アダムがなにか言葉を残したとしてもそれはそれだ。アダムの体から敗者の証であろう魂が抜けたのを見るに、そう思うしかない。明石が言っているのだから信じるに値した。つまり、最期の一人となったわけだ。嗚呼、生きて帰れる……しかし、その代償はあまりにも大きすぎた。きっとそれこそ、神が求めた償いという戯れであり偽善なのだろう。そしてアダムの呪い。所詮、アダムの言う通り全ては神から始まったのだ。感情、そして欲望、罪を模した悪神という人間の器。『神々が自分達の欲望を成就させるために選んだ犠牲者』でしかない。だからこそ管理者も人間らしかった。和夜は薄れ行く視界の中、真っ赤に染まった手を見る。明石がどうにか腹の出血を抑えうと和夜の腹に巻かれた帯と包帯をさらにきつく締めようとして駄目だと気づいたらしく、腹を抑える和夜の片手に自らの手を重ねた。手から伝わる温もりが心地よくて、和夜は思わず微睡んでしまう。
「明石……」
「和夜、死んじゃだめだからね!せっかく生き残ったんだから絶対に生き」
「ーーもう、疲れた」
和夜の言葉に明石の手が止まる。トクトクと小さく響く音が二人の間に流れ、時を告げる。今、彼はなんて言ったの?明石にはわからなかった、わからなかったけれど、自らの胸の中で涙を零す和夜を感じて、察してしまった。嗚呼、和夜は生きるのが疲れたんだと。明石は閉じられた目を、眉を何処までも哀しげに歪ませた。それは笑っているようでもあって泣いているようでもあった。
「……でも、和夜はそのためにやってきたんでしょ!?勝ち残ったんだよ!?自由に生きられる権利をカミサマから勝ち取ったんだよ!?」
「人の命を犠牲にしてまで?」
ヒュッと心臓を握りしめられたような気がした。もはや明石の心臓は動いていないのに、心臓が止まった気がした。確かに明石の手のひらでは和夜の心臓の鼓動が聞こえる。けれど、もはやそれは彼の意志が弱くなったことで聞こえづらくなっていた。明石だって分かっていた。ずっと、和夜と背中を合わせて、隣に立っていたんだから。悪神の一柱として絶望させて依存させて信頼させれて……愛していて。だからこそ、和夜の気持ちが痛いほどわかった。でも、二度と手放したくはなかった。明石の気持ちを和夜も分かっていた。わかっていたから、辛かった。
「……耐えてたつもりだった、わかってたつもりだった。でも俺は、そこまで強くないっ。生きるためとは言え、それが正義とはいえ……俺の手は真っ赤でしょう?……明石と、同じだな」
腹で感じる温もりを手放したくないというのに、生きたくなかった。「生きる」ためと自分に言い訳をしながらも、辛かった。それは明石が隣にいてくれたからこそこうして立っていられるわけで。でも、それさえも疲れてしまった。茉昼を手にかけてしまった時、俺の心はきっと死んでしまった!蜂蜜色の瞳がまるで熟した果実のように色を持てば、涙が零れ落ちる。アダムに勝利したのは嬉しかった。けれどそれ以上に疲れてしまった……嗚呼、これこそがアダムの呪いなのではないかと温もりの中で思ってしまう。滲む視界の中、和夜の意思を理解しようと、哀しみを露わにしないようにと懸命に涙を堪える明石の顔が映り込む。
「でも……ボクは和夜の想いを尊重したいのに、でも……ボクはまだ和夜といたい!だから!だから……」
分かっていた。それでも嘆かずにはいられない。堪えきれなかった涙が和夜の頬を濡らす。温かい涙はきっと和夜が感じていた明石への想いだ。認めたくない、でも、嗚呼、なんて辛いんでしょう!明石は涙を振り払うように首を振った。イヤ、嫌だと言っているようで自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「ごめん……貴女を、悲しませて」
和夜は真っ赤に染まった片手を明石の頬に伸ばした。頬に赤い筋が広がるのも気にも止めずに明石は伸ばされた和夜の手に頬ずりした。もう離したくないけれど、ボクは和夜を優先したいから、だから、あの日、手を差し伸べたみたいにボクは、和夜の手を取る。
「……いいんだよ和夜。それが和夜の意思でしょ」
この温もりをずっと守っていたかった、縋っていたかった。それはきっと和夜も明石も同じで。俺達は依存していたからこそ此処まで来れた。
「勝者が死ぬなんて……神はどうするかな?」
「和夜ったらぁ、カミサマへの意趣返しのつもり?」
クスクスと内緒話をするように二人は顔を近づけて笑い合う。もうそんな時間もないのにまるで永遠のようだった。だから、この時間の中で囚われていたかった。和夜は小さく微笑み、明石の閉じられた瞳に口を近づけた。気配で気づいた明石が身を引こうとするのを制し、和夜は掠れ出した声で告げた。
「明石の手で、終わらせてくれ……明石と、幸せになりたかった……」
だから、この死さえ明石にしか渡したくないんだ。
俺の死が明石以外の手であることさえ、嫉妬で狂いそうだった。
『**』『嫉妬』『**』『**』『**』『**』『**』
残り*人
来週はお休みさせていただきます!
さあ、まだまだ行きますよー!!
闘いが終わっても……また始まるんです……




