第十八ノ夢 望んでいた平穏は
その日、枕元、というか目元が濡れている感覚に和夜はゆっくりと目を開けた。そうしていつもと違うーー窓も時計もない部屋を見て全てを思い出す。いや、その日なんて曖昧な表現だ。時間さえもわからないと言うのに。片腕を使って起き上がれば、どうやら自分は図書室から拝借してきた本『華姫様の物語』を読んだまま眠ってしまったらしく、枕元には本が開かれた状態のまま置かれていた。辛うじてベッドに横になっていたことはわかるが……体を起こした和夜の体から布団が雪崩のように落ちていく。掛け布団を手に取り、誰がかけてくれたものか分かり、思わず笑みを溢してしまう。そうしてその人物が、明石が寝ているであろうベッドを振り向けば、そこに目当ての人物はいなかった。どうやら先に起床しているらしい。耳をすませばバスルームの方から微かに音が聞こえる。和夜は軽く伸びをすると右耳にかかる髪を房飾りごと払いのけ、ベッドを降りた。ベッド脇のサイドテーブルに刀があることを確認して、自分も顔を洗おうとバスルームに向かう。ロイとどのくらいの時間前かは熾烈な殺し合いを展開していたというのに体は怪我をしたとは云えないほど痛みはなかった。悪神と、儀式の最中だからだろうか。なんというか好都合よりの相手に配慮されている。朝早くーー時計がないので分からないがーーから明石がシャワーを使うことはない。使うのは悪夢を見た和夜だけと言っても過言ではない。だからこそ、和夜は明石が顔を洗っているのだろうと推測した。バスルームの扉をトントンと控えめに叩けば「いいよー!」と威勢の良い声が扉の向こう側から響き、バスルームに反響する。元気が良いなと和夜は微笑をもらしながらバスルームのドアノブを捻り、中に入った。中では案の定、明石が鏡の前で水を使っていた。顔を洗っていたのかそれとも洗うつもりだったのか、近くにはふわふわのタオルが置かれている。
「おはよ和夜!」
「おはよう明石。次、使っても?」
「うん!良いよ!和夜のために用意したようなもんだもん!」
目元に巻く包帯を両手に万歳をしながら明石が言う。その優しさに和夜は小さく微笑み、「ありがとう」と明石が差し出したタオルを受け取る。が、差し出したわりにすぐさま手を離さない明石に和夜は不思議に思い、明石の顔を覗き込む。包帯が巻かれていない顔、目を閉じた顔が和夜を見上げている。
「大丈夫だよ和夜」
声が少し震えていた。それで和夜は明石も怖かったのだと実感した。拒絶される、そう思ったのだろうと。けれど明石が死人であろうと悪神だろうと関係ない。裏切られてなんか、決していない。
「……嗚呼、分かってる。本当は明石が封印された悪人だとしても今は俺の隣にいてくれる。それで良いよ。それにまるで守護霊みたいじゃないか」
クスクスと子供のように笑う和夜に明石は一瞬キョトンとしたあと、ハハッと楽しげに笑った。
「ハハッ!さっすが和夜!良い表現してる!うん、そうだね、それで良いよね!ボクはずっと和夜の隣で味方でいるっ!」
「嗚呼、そうしてくれ」
二人で嬉しそうに笑う合って、二人の絆はさらに強固となる。向き合っていた手も背もきっと大丈夫だと二人を押してくれる。だから、相棒が友人が何者であろうとも二人の目的は変わらない。言わなくても分かる目的に向かって二人は互いに頷き合うだけなのだ。クスクスと楽しげに安心したように笑い合って、明石は「準備してくるね!」と先にバスルームを出ていこうとし、止まった。どうしたと和夜が首を傾げると明石はニヤァと意地悪げに笑った。
「泣いちゃったんならまた朝風呂しても良いんだよ!」
明石が悪戯っ子のように笑うので和夜はハッと目元に指先を当てた。そこはまだ湿っていたが何度も泣いているのを見られているものの、ニヤニヤと明石が笑うのでなんだか恥ずかしくなった和夜である。行け、と顔を隠すようにして手を振れば明石がケラケラと笑いながらバスルームから出ていく。顔に集まった熱を追い出すために和夜は出しっぱなしの水に手を入れた。水は恐ろしいくらいに冷たくて頬の熱を冷ましてくれそうだった。
……*……
準備を済ませた二人は朝食を求めて広間へと赴いていた。明石にアダムとの共犯協定についても話した。恐らくアダムは和夜と明石二人と共犯になろうとしたのだろう。けれどそこに悪神の『嫉妬』はいなかったし、確実に和夜も決めたわけでは多分なかった。今はもう決心したし覚悟した。だからこそアダムとまた会えたら共犯者にはならないことを言おうと考えていた。同じ悪神を使役するはめになっているとはいえ、復讐相手が同じとはいえ、全てが同じ先の未来とは限らない。アダムと俺が見る、見ている未来は違う。だから共に殺し合いを潜り抜けるのは無理だ。
朝食に行く、ということは今は朝方ということになるが窓も時計もないので朝食と言って良いのか分からない。分からないが腹が減ったので腹ごしらえをしようという魂胆だ。ロイを殺して何日、何時間経ったかなんてそれすらも分からない。
広間に二人が入ると鼻腔を擽るように美味しそうな匂いが通り抜けて行った。広間に置かれた各テーブルにはそれぞれの好みが反映されているのか和食もあれば洋食も用意されていた。やはり勝手に出され、食事をしているということで攻撃される可能性が低いため、全員がそこにいた。全員というのは少し語弊がある。ロイ以外がいた。全員、この間まではいたはずのロイがいないことに薄々気づいているようで何人かの瞳が探るように周囲を見渡している。ロイと直接会ったことがあるのが和夜以外にいるのかは分からないが直感的に分かるのだろう。何故なら此処にいるのは全員生け贄という悪神の宿り主なのだから。
いつも食べているパンケーキを見つけて明石が嬉しそうに席に駆けていく。そのあとを和夜も追い、いつも食べている和食を見る。アダムの言う通り勝手に用意されている。管理者が用意しているとも捉えることができ、あの時のように危険を感じる。だが此処は神様が儀式をするために作ったような場所だ。もしかして神様が用意していたりして。そう思うと何処か和夜は可笑しかった。クスリと笑ってまだかなまだかなと和夜を待つ明石のために席に座り、「いただきます」と言ってから箸を持つ。ふと視線を感じて右を向けばそこには朝食後の紅茶を楽しんでいるアダムがいた。彼の傍らにはラスが無感情で佇んでいた。気配もなかったのは此処では警戒する必要もないと無意識に両者共に思っていたからだろう。チラリとアダムを和夜がチラ見すると彼はニコッと笑みを返した。まるであの時のようにすぐに答えを出さなくても良いよと言っているような気がして、心の内を見透かされているような気がして、和夜は豆腐が浮かぶ味噌汁を啜った。
朝食が終わり、さてアダムに明石でも紹介しつつ断るかと和夜が腰を上げた次の瞬間
「返しなさいよっ!!」
「……っ、なにー?」
広間に大声が響き渡った。残ったジュースをストローで飲んでいた明石が驚いたように耳を塞ぎ、隣の席に立つラスががらんどうの瞳の上の眉を不機嫌そうに動かす。アダムも驚いたのかソーサーに乗せようとしたカップがカカンッと微かに音を鳴らしていた。なんだと和夜は声がした方を見る。するとそこには親の仇を見るような鋭い目付きで相手を睨み付ける少女と、その少女の背後を守るようにニヤニヤと笑う人物ーー恐らく女性ーーがいた。一方その反対側には棺を愛おしそうに撫でる人物ーー男性と黒いローブに身を包み顔を隠した人物が困惑に顔を歪めていた。そんな二人の表情が少女の怒りをまた逆撫でしたらしく、「あのねぇ」と何処までも見下したような傲慢な態度で二人を頭から爪先まで値定めるように眺める。
「アンタ、アタシのモノ盗ったでしょぉお?返しなさいよ!!」
「……………はぁあああ?」
一拍の沈黙のあと、青年よりの男性の口から漏れたのは盛大なため息だった。呆れたという気持ち半分、ふざけんなという怒り半分のため息に少女は臆することなく続ける。
「言い逃れはしないで、いえ、させないわよ?だってそれは全てアタシのなんだから。だから、アンタは返す義務があるの。返すしかないの。だって、アタシのだから」
「意味分かんない。勝手にすればぁ?」
少女のよくわからない主張に男性は愛おしげに棺を一撫して傍らのテーブルから食べ残していた小さく切られたパンを手に取ると、馬鹿らしいと云わんばかりに広間を出ようとする。あまりの怒号の展開に明石が「なにあれ」と呆然と一行をユルユルと指差せば、瞬時に復活した上で状況を正確に理解したアダムがラスに紅茶とミルクを付け足してもらいながら言う。
「『暴食』と『強欲』が結託して他の相手を囲い込もうってことだろうね。窃盗だと意味も分からず疑っておけば疑心暗鬼が生まれ、殺意が違う方向へ向く。もし嘘でも殺し合いでなにか疚しいことをしたなら、良心の呵責に耐えきれず手中に落ちる……そんなところかな」
「……それ、誰を見て言っているんだ?アダム」
耐えきれずに和夜が箸をカチッと音を立てながら、下からアダムを睨み付けるように視線を注ぐ。気づいてる、俺達が『怠惰』を殺したことに。アダムは和夜の鋭い視線を介することもなく紅茶を一口。そうしてローズ色の瞳を三日月の形に歪ませた。
「さぁ?誰だろうね、碧藤」
猫のように笑うその表情が誰を指し示しているかなんて、わかるわけないでしょう?本人達以外は。明石もなにか察したらしくアダムを振り返るが、ラスの無感情の瞳を受け、固まってしまった。氷の冷気でも放っているのかあの女性は。するとアダムが立ち上がり、ラスを従えて歩き始める。此処にいれば巻き込まれる可能性もある。それを感じ取った和夜は明石に視線を向けてアイコンタクトーー明石はほぼ気配で察し、頷く。そんな二人を見てか、アダムはクスリと先程までの鋭くからかうような目付きをやめて、優しく微笑む。その笑みは何処か中性的で何故か慈悲を纏っていた。
「まぁ良いよ。そのうちちゃんと分かる」
「?なにそれどういうーー」
アダムの意味深げな言葉に明石が問いを投げ掛けようとした途端、甲高い音が広間に響き渡った。
結構ゆっくりだと思ったのは、年末年始書きすぎたからです……めちゃくちゃ話数が溜まってきました……




