妖精達が集い渡る、嵐の闇夜に。
王国の西、夏でも雪をまとった険しい山々の、更に先。道のない峰を下りた、海を臨む崖の上。
妖精に祝福されたその地に、ぽつりと小さな館がある。
巨大な切り株そのままのような形。二階建て位の高さで、透明なガラスを貼った窓がいくつも見える。
どこまでも高く青い空に浮かぶ真っ白の雲を、ふわりと風に乗って人陰が横切ってゆく。
天気のよい日の午後のお茶の時間だった。
大きく風が吹いてカーテンを揺らすと、窓辺に白い鳥がとまった。
「あれ、誰か来たみたいだよ。」
赤銅色の小さな猫‥‥ニコが鳥に目をやって告げた。
「ノカの客だな。」
少し顔を上げて目に見えないものを見るように、黒髪の青年‥‥ルーシェが呟く。
ショコラとアーモンドのクッキーをほおばってもぐもぐしている少女‥‥ノカはあわてて紅茶を手にとって、口のなかに流し込む。
トントン、と玄関の扉がノックされると、ノカが赤銅色のおさげを揺らして飛んでいった。
がちゃりと扉を開けると、どう、と大きく風が入ってきてノカの服をふくらませる。
「こんにちわ、姫様、天空の神龍様。」
薄金色の髪を肩の上でさらさらとなびかせて、濃緑色の目でにっこりと笑う。そこにいたのは壮年の紳士だった。
シルクハットを手に優雅に頭を下げると、小さな風がノカの前髪を跳ね上げる。
「こんにちわ、エアル様」
ノカがにっこりと挨拶を返して頭を下げる。
「大きくなりましたね。けど、ただ一人の姫様、私に“様”はいりません。」
きっぱりと言って、ノカに手を伸ばすと、軽々と抱き上げる。
「エアル、私もう12歳ですよ!子供じゃありません。簡単に持ち上げないでくださいな。」
ノカが膨れながら文句を言う。
「私から見れば向こう100年は可愛らしい生まれたてのようなものです。」
抱き上げたノカの髪を愛おしそうに撫でながらにこやかに告げると、ノカが絶句する。
「ノカ、妖精に年の話はナンセンスだよ。」
妖精の見た目は全く参考にならないし、そもそもはっきりとした寿命もない。ニコが呆れ顔で呟いた。
「神龍様もお元気そうで何よりです。」
エアルが顔を向けて挨拶をすると、ルーシェが苦笑しながらひらひらと手を振って見せた。
エアルがようやく満足してノカを腕から下ろすと、合わせた手のひらを広げる。
手の上でふわりと風が巻いて、封筒の形をとった。
「本日は招待状をお持ちしました」
ノカが訝しげな顔をして受け取る。
エアルは姿勢を正して、真剣な瞳でノカに向き直った。
「三日後、大陸を渡る嵐になります。」
ノカが顔を上げてエアルをまっすぐに見つめた。
「私は代表で参りました。風、水、雷などの一族が一同に集まります。」
ノカが小さく首を傾げた。ニコがじっとエアルの顔を伺っている。
「招待ということは‥‥私も渡るのですか?」
「ぜひ。」
言って、エアルはにっこりと笑う。
「姫様が来てくださると、恵みは増し、すべてはあるべき様に治まります。」
ノカが初めての申し出に戸惑いながらルーシェを向いた。
「お兄ちゃんも一緒に?」
「いや、俺は嵐と一緒に渡ったりしない。龍が一緒に飛んでたら見た奴も混乱するだろ。」
当然、というようにルーシェが綺麗な顔を傾ける。ノカが不安でいっぱいになってエアルを振り返った。
「私、空を飛べないですよ?すごく早く走ったりとか、高く跳んだりとかもできないし。」
「存じております。眷属様とご一緒でしたら大丈夫でしょう?」
エアルが首を傾げてニコに目をやる。
「ノカはボクに乗っていればいい。‥‥ボクがいなくてもみんな喜んでノカを引っ張っていくと思うけどね。」
ニコが淡々と告げると、ノカがニコをじーっと見た。
見つめられたニコが何?と言うように首を傾げる。小さい猫の仕草は、大変可愛らしい。
「‥‥やっぱり私よりニコの方がすごいよね‥‥」
ノカが小さくため息をついた。
「何言ってるの‥‥ノカがいなきゃボクがいる意味がないじゃないか。」
ニコが話にならない、と呆れて目を細める。
「姫様はそのままで良いのですよ。姫様がここにいるということに、何事にも代えがたい価値があります。」
エアルがにこにこと笑っていた。
「当日はレインを迎えにやります。皆も姫様と共にあれることを、楽しみにしておりますよ。」
「‥‥がんばりますね。」
ノカがぎゅっと手を握った。
***
「フォノルーシュカ!逢いたかった!!」
バーン!!とドアが勢いよく開いて、青い人影が飛び込んできたかと思うとノカの体が抱えられて宙に浮いていた。
「ビックリしたー‥‥レインちゃん?」
ノカが目をぱちぱちさせて自分を持ち上げている人を見る。
透明に輝く水色の髪、長い睫毛に囲まれたふちが垂れた菫色の優しげな瞳、白くて綺麗な顔の右目の端に小さな青い雫。
「この間まで一緒にいただろうが!」
ニコが毛を逆立ててシャーっと威嚇しながら怒鳴り付ける。
「この間ってもう2ヶ月も前だし。眷属様相変わらず無駄に元気そうですね。」
ノカを持ち上げたままぎゅーっと抱き締めつつも、覚めた目でニコに返事をする。
地に足がつかないノカがジタバタしている。
「姫様、眷属様、はじめまして。ウルと申します。いつもレイン兄さんがご迷惑をかけてすいません」
レインの後ろから同じ水色の髪の青年が必死で頭を下げている。
「レイン、弟が困ってるぞ。もうちょっと自重しろ!」
ニコがレインの足にバリバリと爪を立てているが、全く気にしないレインは思う存分ノカを抱き締めて、頬にキスをして、ようやくノカを地上に返した。
「レインちゃん今日はでっかい!」
ノカがレインを見上げて驚きの声を上げる。
雨の月に一緒にいた時はノカと双子のようだったレインの頭が、ノカの頭2つ分上にある。
見た目にも20台後半の青年、といった感じだ。
「ぼくはノカとお揃いでいたいんだけどね、融通がきかないウルが絶対に駄目だって言うんだ」
レインがわかってない、というように頭を横に振る。
「当たり前でしょう!仮にも水の一族の長が子供の姿で姫様に貼り付いてたら渡りどころじゃなくなっちゃいますよ!」
ウルの髪は兄と同じ水色で、肩の下から斜めに短くなっていって後ろは首がはっきり見える長さに揃っている。すっと切れ長の瞳は濃い紫紺色で、しかめられた眉と相まって真面目で神経質そうな顔を形作っていた。
「ウル、はじめまして。今日はよろしくお願いします」
ノカがにっこり笑って頭を下げると、ウルは慌てて跪いて手を伸ばした。
「姫様、もったいない!私などに頭を下げてはいけません。」
頭を上げたノカを下から見上げて、ウルがほっとした様に笑った。
そうすると、ウルは一変して可愛らしい印象になる。
「今日は姫様にお会いできるのを楽しみにしていました。兄は姫様を独り占めにして誰にも会わせてくれませんからね。」
ウルが不満気に兄を流し見るとレインは鼻で笑って見せる。
「ノカのことはぼくが何でもするから必要ない。今日だってぼく一人でよかったんだ」
「お迎えに上がるのに兄様一人では他の一族の者の不興を買うでしょう?いい年して聞き分けのないことばかり言わないでくださいよ」
ノカは代わる代わるにレインとウルを見ながらクスクスと笑っていた。
「もういいから早く行こうよ。ここからしばらくかかるんだろう?はい、ノカはボクに乗って。」
いつの間にか豹の姿になっているニコが呆れて水属性の兄弟に宣言した。
ノカが豹の背に跨がると、ニコはすたすたとドアに向かう。
後ろからレインとウルがバタバタとついてきた。
***
真っ暗な曇り空を南へ進むこと数刻。
広がる雲はどんどん厚みを増していて、夕方なのに夜のようだ。
雨も降っているけれど赤銅色の豹としがみつく少女を避けて流れてゆく。先導するレインと後に従うウルは降られているように見えるが、体と交わって通り抜けてゆく。
辺りには濃密な雨の気配と牙を隠した雷の気配が満ちていて、流線型の風の塊が吹き付けてくる。
「こんなに妖精が沢山いるの初めて見たわ」
ノカがニコに聞こえるように小さく呟いた。
「中心に向かってるからね、あのレインみたいなのがいっぱい集まってるんだ。息苦しいくらいみっしりだと思うよ。」
ノカはまだ妖精の一族が集まっている所に行ったことがない。
沢山の妖精の気配に煽られて、感じたことのない熱いものが体の中で膨らんでいく高揚感とともに、強い不安も感じていた。
太い豹の首を捉えたノカの両腕がぎゅっと強くなる。
ニコが少し振り返ってノカの頭に顔を擦り付けた。
「レインほど遠慮なくノカに巻き付いてくるやつはいないから安心しなよ。普通はもっと敬して大事に扱われるはずなんだ。」
続けて本当にレインはあり得ない、と呟く。
忌々しそうなニコの呟きに思わずノカが小さく笑う。
「仮にいてもボクが全力で蹴っ飛ばすし」
「‥‥そんなことしたら吹っ飛んじゃうでしょ?‥‥そういう心配をしてる訳じゃなくて‥‥」
ノカがニコのふわふわの首に顔を埋める。
「なんだか体がおかしい。楽しくて嬉しいんだけれど‥‥胸が苦しい。自分が違ってしまいそうで、恐い。」
ゆっくりと言葉を選んで、吐き出す。
ニコの脚が宙を蹴って進む。規則的な振動がノカの体を揺らす。
くっつけた耳からは微かにニコの心音が伝わってきた。
「大丈夫。‥‥ノカはそういう風にできている。」
ニコが静かな声で告げる。
「沢山の妖精も、一族も、ボクも。全部ノカの一部だから、何も変わらない。」
ノカにその言葉の真意はわからなかったけれど、ニコの落ち着いた声はノカの不安を和らげてくれた。
***
「本当にみっしりだわ」
密度の濃い妖精の気配にノカの体が微かに震えている。
風、水、雷の一族は数が多い。人の形を取る妖精だけでも数十人はいる。
辺りは嵐と言うにふさわしい暴風と叩きつけるような雨、伏してのたうち回る雷に囲まれているようだが、一族の集まるここはぽっかりと空いている。
「姫様、お待ちしていました。」
エアルがノカの前まで進み出て礼をとる。
「こちらが雷の一族の長のイッセンと弟のライメイです。」
イッセンは派手な顔の長身の女性で、黄金色に輝く髪がふわふわと背中をおおっている。橙色に輝く瞳は綺麗につり上がっていて、目力がすごい。
「イッセンです。姫様にお目通りが叶って感無量ですわ。以後お見知りおきを。」
20台前半の見た目の美しい盛りの美女は優雅に頭を下げて礼をとると、にっこりと華やかに微笑んで見せた。
「ライメイです。姫様ちっこくて可愛いですね。」
「あんたがでかすぎるのよ!!初対面の挨拶ぐらいちゃんとしなさいよ!」
言った瞬間バシッといい音で姉に頭を叩かれたライメイはイッセンより頭ひとつ大きい大男で、顔のパーツが大きめのハッキリとした顔をしている。姉と同じ黄金色の髪は短く刈られていて、ツンツンと刺さりそうに天を向いていた。
「ねーちゃん痛いよ、突っ込みが激しすぎる。」
「うちの愚弟が姫様に不敬を申し訳ありません。お気に触るようでしたらどこか目につかないところに放り投げて来ますので」
イッセンがライメイの言葉を完全にスルーして力ずくでライメイの頭を下げる。
「フォノルーシュカです。今日は初めて来たのでついていけるかわからないですけど、よろしくお願いします」
荒っぽいやり取りをする雷姉弟に笑いながらノカも挨拶をした。
「おお、中身まで可愛い。いい子だなあ」
ライメイが姉に言われたことに全く構わず楽しそうに笑うと、ノカの頭をわしわしと撫でる。
「やめなさいって言ってるでしょうが!」
「ノカに気安く触るんじゃない!」
「ぼくのノカにベタベタしないで!」
姉とニコとレインと三方向から強烈な突っ込みが入るけれど、やっぱり全然堪えていない。
こほん、と空咳が聞こえた。
「挨拶も済みましたし、そろそろ行きましょうか。」
エアルの一言に皆が振りかえって、頷きあった。
エアルがすっと手を伸ばして行く先を示す。
人の姿の妖精達が一度に散会して、思い思いの方へ飛んでゆく。
その場にはエアルと、ニコに乗ったノカだけが残った。
「私は嵐を導くのでこのままゆっくり進みますが、姫様も他の者達と回ってきて構いませんよ。」
エアルの言葉にノカが辺りを見回す。
周囲に満ちた人型ではない妖精達も、忙しなく動いているのがわかる。
右前からイッセンが髪を靡かせて飛んできて、ノカの頭上を通り抜けて後へ遠ざかってゆく。
かと思うと後ろからレインが突っ込んできて、横からノカの頬を撫でて前方へ去っていった。
「どうしよう、みんなめっちゃ速いんだけど‥‥」
ノカが呆然としながらニコに助けを求める。
「ボクなら追いつけるよ、しっかり掴まって?」
ノカが慌ててニコにしがみつく。後を見ていたニコが、タイミングを合わせて勢いよく駆け出した。
「いってらっしゃい」
エアルがこちらへ手を振ってくれているのを視界の端で捉えながら頭を巡らすと、右横を雨を纏ったウルが飛んでいる。
「姫様」
ウルは嬉しそうに笑って、くるくると旋回すると、勢いよく地面の近くまで降りていって、そこから急上昇で上空へ離脱する。
ウルの横を赤銅色の豹がぴったりと寄り添うように宙を駆ける。
「すごーい!」
目が回るようなスピードで風を切って、木々の間を駆け抜ける初めての経験に、ノカの胸が熱くなる。
後ろからライメイが飛んできて、ウルの横を飛び去ると、ニコが翻ってそちらを追ってゆく。
すぐに横につけると、ライメイが気づいてにっかりと笑った。
「姫さん雷怖くないですか?」
ライメイの回りはかなりの範囲で光が無数に明滅している。
「急に落ちたらびっくりするけど、わかってれば大丈夫!」
わくわくしながら告げると、ライメイは親指をたてて答えた。
ライメイが口を大きく開けて思い切りよく息を吹き出した。
辺りの光が集まって、派手な閃光に包まれる。
耳をつんざく轟音と共に光の帯が空にぶつかりながら地に降りていった。
「音が体に響いてビリビリする~!」
ノカがけたけたと笑いながら叫んだ。
自分の声と風の音、雨が地面を叩きつける音に全身が包まれる。
みっしりと密度の濃い妖精の気配に意識が膨張して酔いが廻る。
体を駆け巡る快感で、頭の中が空っぽになる。
風にたなびくフォノルーシュカの赤銅色の髪がほどけると、きらきらと金色の光を纏って、みるみる拡がってゆく。
何度目かの旋回と急降下、急上昇。
輝く緑色の瞳から白銀の光の粒が迸って後へ流れてゆく。
ーーそして、新たな雷鳴と閃光とともにノカは意識を手放した。
背にしがみついている暖かい重みが、ノカの明るい笑い声と一緒に少しずつ失われてゆく様に感じて、ニコがチラリと後に目をやる。
ニコの体毛と同じ赤銅色のおさげが解けて、金色に輝いて闇夜に拡がっているのが見えた。
首を捉えた白い腕もますます透明に白く輝き初めている。
(覚醒する、か?)
ニコが心の中で呟く。
ふわりとフォノルーシュカの体がニコの背から解き放たれた。
首を捉えた両腕はそのままに、横からニコの顔を覗き込む。
輝きを放つ緑色の瞳は綺麗な虚ろで、ほの光る白い顔の上で薔薇色の唇が弧を描いた。
「うわっ」
見慣れた顔の別人にニコが思わず声を上げると、フォノルーシュカがくすくす、と笑った。
ライメイと並走して疾走しているニコの隣を風に煽られることもなく自然体で浮かんでいる。
表情だけではなく大人のように手足が伸びて、顔の丸みが削られている。
「これが覚醒、か‥‥」
ライメイが内側から光り続ける美しいフォノルーシュカを見て呆けたように呟く。
「フォノルーシュカ?」
ニコがフォノルーシュカの意識を確認する様にすぐ横の顔に声をかける。
フォノルーシュカはニコの首を抱き寄せて、その長く輝く睫毛を伏せると、薔薇色の唇をニコのふかふかの頬に押し当てた。
ニコが虚を突かれて駆ける脚が鈍ると、フォノルーシュカは腕を解いてニコの前をすり抜けてゆく。
「ーーしまった!」
赤銅色の豹が体を捻って全力で宙を蹴って駆ける。
その先には輝く人影が自然体で飛んでいるけれど、必死で駆けてもその距離は縮まらない。
恍惚の表情で宙を舞う輝く人型は、妖精と交わっては火花のように光を振り撒いてゆく。
旋回、上昇。雲を突き破って、下降して、身を返した所で、前方を飛んでいたレインがすれ違い様にフォノルーシュカの腕を取った。
「‥‥姫様?」
レインが囁いて顔を寄せると、フォノルーシュカの体がふわりと翻ってレインの正面を向いた。
その顔はうっそりとした笑みを浮かべて、その向こうを見ている。
繋いだ手から濃ゆい金色の光が流れてゆく。
レインの顔から感情が抜け落ちて妖精らしい硬質の美貌で覆われてゆくと、速度を増してフォノルーシュカに並んだ。
すぐ後を赤銅色の豹が顔をしかめて疾走してゆく。
どれくらい時が過ぎただろう。
視界の光を追って駆け続けて、感覚が鈍ってゆく。
レインはとおに手を放たれている。
辺りの妖精たちは解放されて、みっしりと濃かった密度もだいぶ儚くなってきていた。
そろそろ失速するか?と伺ったニコを嘲笑うようにフォノルーシュカの放つ光が増して、加速する。
「ああ、もう、とんでもないなあ!!」
ニコが思わず叫ぶ。
赤銅色の豹が膨張して、収縮すると同時に人の形を取った。
赤銅色の髪、緑色の瞳。フォノルーシュカとそっくり同じ顔の青年の、少し細くて冷たい瞳が強い輝きを宿す。
一気に加速したニコの腕がフォノルーシュカを捉える。
後ろから抱え込むと、ニコの体も金色の光に包まれる。
「やっと捕まえた‥‥」
かすれた声で呟く。
フォノルーシュカの温度のない頬に唇を押し当てると、その緑色の瞳が動いてニコの同じ色の瞳と絡み合った。
‥‥ふ、とフォノルーシュカの体から力が抜ける。
するすると光が吸い込まれていって、辺りに暗闇が戻る。
ニコの腕の中に、小さな赤銅色の髪の少女が目を閉じていた。
***
微かに揺れるような心地よい疾走感にうっすらと目を開けると、すぐ目の前にどこかで見たような綺麗な顔があった。
赤銅色の髪、緑色の瞳。
これは誰だっただろう?
暖かいような、嬉しいような、高揚感の残滓が体の中で疼いている。
けれど瞼が重たくて、逆らえない。
ーあと少し、見ていたいのに。
頬に触れて、手を添えて引き寄せて、もっと近くで見たい。
けれどゆるゆると眠りに侵食されて、ゆっくりと意識を手放した。
再び目を覚ますと、草の濃い匂いのする地面の上に寝転がっていた。
「おや、起きたのか。」
降ってくる聞き慣れた声に顔を向けると、ルーシェの顔がある。
ルーシェの頭の向こうには紺碧の空が広がっていて、無数の星がきらきらと輝いている。
胡座をかいたルーシェの膝の上に頭があって、その向こうの膝の上には小さな赤銅色のネコがちんまりと丸まって目を閉じていた。
目を擦って体を起こそうとするが、ずいぶん自分の体が重いように感じる。
「まだそのままにしてていいよ。かなり疲れているはずだからね」
ルーシェの声がいつもより優しい。
「嵐の途中からよく覚えてない‥‥」
ノカがぼんやりと呟いた。
ルーシェは華奢で透明な杯に口を着けると、赤い酒精を飲み干す。
「外で待っていたらニコが抱えて帰ってきたよ。ニコも限界だったみたいで即こんな感じだね。」
ルーシェが杯を持った手でニコの腹をツンツンとつついてみせる。
フギャ、とニコが小さく鳴いて手を払った。
ノカが手を伸ばしてニコの体を持ち上げると、うにゃうにゃ言いながら顔を手に擦り付けてきた。
ニコを自分の胸の上に乗っけてしっとりとした毛並みを撫でる。
ひんやりとした乾いた風がノカの頬を撫でてゆく。
ぼんやりと空を見上げていると、キィン、と澄んだ硬質な音が聞こえてきて星が流れた。
キン‥‥キィン‥‥
視界いっぱいの紺碧の空を、次々に星が流れてゆく。
近くにに落ちてきた星は小さな鳥の形をしていた。
「綺麗‥‥」
ノカの口から呟きが零れる。
ささやかな風が草の間を渡る音。空から降る星の音。
永遠に続く優しい静寂の闇夜の中で、ルーシェが杯を傾ける。
頭を揺らしたニコの毛並みがノカの手のひらをくすぐって。
ーー夢の中のニコの小さな舌が、ノカの手首をぺろりと舐めた。
つたない文章を読んでくださってありがとうございます。