第2話「doctor」
こんにちは、はやぶさ7ごうです。
轢かれた後です。
俺は、気づくと病院にいた。
意識が開いてからすぐに、腕と足の鋭い痛覚、それと全身のまったりとした痛覚を感じた。
俺に何が起こったのか?
記憶を引き出そうとしていると、一人の白衣の男がやってきた。
「よかった、目が覚めたようだね」
「あなたは……?」
「ああ、自己紹介がまだだったね。私は藤岡、君の担当医さ」
その藤岡と名乗る男は、背丈は180くらいで、見たところ30代後半といった年齢で、太ってはいなかった。医者だといえば医者らしい、健康的な感じだ。
「君は、一昨々日の夜、相模原の町外れの道でトラックにはねられて瀕死の重体だったのさ。まあ、私が既に手術したから、目覚めた以上命に別状はないがね。」
「はあ……まあ、ありがとうございます」
「む……?どうしたんだい、疑問点があるような表情をしている。はねられた記憶はないのかい?」
そう訊かれて再び俺は考えるが、俺がトラックにはねられた記憶がまるでない。
「はい……不思議と、トラックの記憶がないんです。」
「そうか……まあ、事故によって事故直前の記憶を失うというのは、よくある話だ。それに、思い出して面白い話でもない。これからは、気楽に生きて消えるのを待つんだね」
そう言われて、俺はぎょっとする。
「消える……先生は、消えること、どう思ってるんですか?」
「私?私は、これは救いだと思うね。」
「救い……?」
「ああ。医者といういち科学者としてこういう意見は良くないが、神様っていうのがいるなら、これは神様の救いみたいなものさ。全ての人間に施されつつある。ノアの方舟の神話があるだろう?あんなものさ。そのうち大洪水が起こったりするのかな」
藤岡医師は、くすっと笑ってそう言った。
「知っているかい?かつての日本の総人口は1億2000万人、それが今この世界の日本にいる日本人の総人口は1万人程度だそうだ。」
「えっ!?」
「消えた先で生きている、ということを無視すれば、恐ろしいペースで日本の国力は失われている。いやそれだけじゃない。世界各国も、ほぼ等分に消えていっているようだ。バチカンとモンテネグロ、あとエスワティニは絶滅したそうだ。早いものだ。」
「むしろ、消えてない方が不思議っすね」
「ああ、これから出会う人、それらはほぼ全て、二度とこの世界で会うことはないだろう。私も含めてね。」
「えっ?」
「当然だ。君は1週間後には退院するかもしれないが、それまでに私がこの世界にいる確証はない。逆に、君はその満身創痍の状態で消えるかもしれない。つまり、君の怪我を1週間私が見ていられる可能性は極めて低いのだよ。」
言われればそうだ。人口の減るペースを考えても、1週間あればこの2人のどちらかが消えるのは当然だ。もちろん、両方消える可能性も十分にある。
「まあ深く考える必要はない。端末は持ってきたから、100円払って向こうの親類を覗けるが、嫌なら、何か本でも持ってこようか?」
「……そうですね、ちょっと、適当な本をお願いします。」
俺は藤岡医師に持ってきてもらった司馬遼太郎の本を読んで時間を過ごし、寝た。
ノイズは走らない。
翌朝。
人は消えていっても、相変わらず朝日は昇る。
俺が朝日を眺めていると、藤岡医師がやってきた。
「おはよう、大河くん」
「先生……早いっすね」
「ああ、というか、もうずっとこの病院で寝泊まりしてるからなあ」
「えっ、家に帰ってないんですか?」
「うん。もう私は妻も息子も光で消えてしまってね。当然、例のサービスで毎日見ているが、何ぶん一人身というわけだ、わざわざ家に帰る必要もない。今は患者がいるしね。」
ははっ、と当たり障りのない笑みを浮かべて、俺ははっとする。
「そういえば、瀕死の俺を、どうしてこの病院に?」
「ん?ああ、たまたま君を見かけたっていうおばさんが、病院まで運んできたんだよ。この世界じゃ救急車もまともに走らせられない。その点はラッキーだったね」
「そうですか……えっと、そのおばさんの名前、聞いてますか?」
「ああ、聞いている。吉川って人だったね。でも、会うのは諦めなさい。運んでいって、私の前で消えた。」
「き……そうですか。」
「まるで、天命を果たしていったようだね。救いの連鎖だ。」
「っすね。」
今日も空虚に時間が過ぎた。
病院食は、覚悟していたのだが、藤岡医師が作る料理は病院食のそれより格段においしかった。患者の健康管理ずさんだろとツッコみたくなる。
そうしてまた、食事→惰眠のサイクルの先のこと、藤岡医師が唐突に話しかけてきた。
「そういえば君のカルテを見たんだけれど、前に解離性同一性障害の診断をされていたね」
「ああ、そういえば……」
言われて思い出した。ここ数日全く考えていなかった。
「病院で君と会話していても全くその傾向が見られないから少々不思議でね。私はこういうの医療的に専門外だからよく知らないんだけれど、治ったものなの?」
「いや、治ってはないです。ただここ数日全く現れていなかったというか」
「ああ~、そういうことか。いやね、君のはねられた記憶がないのは、君の解離性同一性障害によるんじゃないかと思っていてね」
「……なるほど、否定はできないです」
解離性同一性障害。前は多重人格障害とかいったそうだが、ようは二重人格だ。人によって対応を変えるとか、内弁慶外地蔵といったものとは次元を異にする。不定期で別の人間になってしまうと言っていい。
俺のそれは、俺と共存する場合もあるし、しばらく別人格が現れないこともあるし、別人格が完全に支配して記憶がないこともある。だから、俺じゃない時にはねられていたのなら、俺が覚えていないのも納得がいく。もっとも、その人格が現れないために確認できないのだが。
「……まあいい。前も言ったが、覚えていなくてもいいことさ。ただなんとなく……………」
藤岡医師は言葉を詰まらせた。
「……なんとなく?」
「……ああ、なんとなく、解離性同一性障害の人に会ったことはなかったもので、なんとなくわくわくしていたのさ。」
「……そ、そうっすか…そりゃまあ、期待に沿えなくてごめんなさい」
「はっは、いやいいんだよそれくらい。さあ、今日も料理作らねばね。」
そう言って、藤岡医師は病室を去った。
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手違いだろうか?否、私の知る限り、そのような事例はない。
だが、かといってこれは本物に相違ない。本人との会話を通しても、彼は嘘をつく人間ではない。
ならば、やはり本物なのか…?彼は結城大河、コートの左内ポケットの財布の中にあった保険証と合致している。本人だ。一体どういうことなのだ……?
まさか。
いや、ありえなくはない。原理は疑問符を掲げていても、現象がそれを示している。もしそうならば……もし、各人は一人一人が転送されるのなら、彼は、結城大河は恐ろしい生涯を送ることになるのかもしれない。
私は、机の上の二枚の書き置きを前に恐怖した。
一つは、目の前で消えた、吉川さん。
もう一つは、結城大河。
吉川おばさんは今は異世界で野菜作ってます
昔は相模原の暴走族ゆえの爆走で爆速病院搬送し結城大河を救う