不安とコーヒー
「ただーいまー。」
酔っ払って顔を赤くした彼が帰ってきた。
「おかえり。」
笑顔で彼を迎えるが、心の中では不安感が募っている。酔っている彼に、真面目な話なんてするんもんじゃない。不安を心に留め、彼のためにコーヒーを淹れる。
「やっぱり締めはコーヒーだねぇ。」
芳醇なコーヒーの香りを楽しみながら、彼はソファに沈みこんだ。
「飲み会、楽しかった?」
「すげー楽しかった。」
「それは良かった。」
コーヒーを彼の目の前に運ぶ。一つ大きく鼻で息を吸い、はぁ、と溜め息をつく。
「ああ、落ち着くな。」
目を細めカップを口に運ぶ。カップを持ち上げる細く長い指が、私は好きだ。
「賢人、明日休みだっけ?」
「うん。昼までゴロゴロするよ。」
「じゃあ、デートしよ。午後から。」
「いいよ。どっか行きたいとこでもあるの?」
「水族館。」
「オッケー。」
彼の隣に座り、頭を彼の肩に乗せる。
「どうした?甘えん坊か?」
「うん、ちょっとね。」
「なんかあったの?」
「…ううん、何も。なんとなく。ただなんとなく、こうしていたいだけ。」
ふーん、と彼は呟き、コーヒーを啜る。言えない。結婚したいの、など彼に言う事はできない。この何でもない幸せな時が壊れてしまいそうで怖いのだ。この恐怖は一人で抱え込もう。この瞬間の幸せを存分に味わおう。未来の幸せなんていらない。ただ、この一時を。カップのコーヒーが冷めるほど短い、この一時を。私は、壊したくない。いつからこんな風に考えるようになってしまったのだろう。
「煮え切らないねぇ、あんたも。」
由紀子はアイスコーヒーが入っていたグラスをストローで鳴らす。平日の昼時のカフェテラスに人はまばらだ。
「だって、怖いんだもの。」
「そりゃ怖いわよ。女からプロポーズして振られてみなさいよ。世間から見られる目は痛いわよー。」
「何その言い方。」
「だってそうじゃない?男から来ないからこっちから言ってやる、って気になってあえなく玉砕。悩みを打ち明けていた人から周りに噂が伝わり『そう言えば彼とはどうなった?』なーんて聞かれてさ。誤魔化すにも誤魔化せず、仕方なく別れたことを話せば、『あ、この女捨てられたのね。可哀想。』って思われて。挙句その話を飲み会のツマミにされて、噂を聞いた男性からも可哀想な女と見られ…。」
「もうやめて〜。これ以上不安にさせないで〜。」
「だから女はプロポーズされたがるの。こっちが傷つかないようにって保身もあるけど、一番は彼に求められているという優越感とか満足感を得たいが為なのよ。」
「そこまで言っときながら、よく私から行動を起こせなんてアドバイスするわね。」
「だって、あんたの彼があまりにも行動しないからじゃない。そもそも結婚したいのかすらわからないなら、せめてそこだけでもハッキリさせとかないと、行き遅れるわよ。」
「はあ、憂鬱。」
「そんなときは飲んで飲んで、酔った勢いで言っちゃいなさい!」
「醒めたときが怖いわよ。」
「ていうか、塔子最近飲み会してる?」
「ううん。元の職場とも関わりないし、こうして連絡取ってるの由紀子だけだし。ほとんど家飲みで、彼と一緒に飲んでるから。」
「一人で飲みに行けば?気分転換にもなるし。」
「彼になんて言って家を出ればいいの?」
「あれ?そういうの厳しかったっけ?」
「いや、そんな事はないけど。彼氏のいる女が気分転換に一人で飲みたいとか言い出したら、浮気とか疑われない?」
「なにその考え方。たまには一人で静かに飲みたい時だってあるじゃない。時間決めて、二時間だけ飲みに行くとか言ってさ、あとでレシートなり領収書なり持っていけばいいんじゃない?」
「そうかなぁ。」
「とにかく一度話してみたら?彼だってそのくらい許してくれるんじゃない?」
「…と、言うことで、明日飲みに行こうと思って。」
「いいんじゃない?たまには。」
賢人はテレビのお笑い番組を見ながら無関心そうに答えた。
「不安じゃない?」
「何が?」
「いや、別に何も。」
「それじゃ俺も明日は適当に飲みにでも行こっかな。」
「サークルの人と?」
「いや、会社の同僚。」
「どこで?」
「さあね。まあ会社の近くじゃないかな。」
「そう。」
「塔子は?どこで飲むつもり?」
「うーん、久しく行ってなかったバーに行こうかなって。」
「♯b?そこ、もう潰れてるよ。」
「え?そうなの?そっか、そこに行こうと思ってたのに。」
「なんかオススメ教えてやろうか?」
「ううん。大丈夫。」
「そっか、決めたら教えてよ。行くからさ。」
「わかった。合流するのね。」
いやにあっさりと飲みの予定が決まってしまった。嫉妬して欲しいわけではなかったが、無関心にあしらわれると、少し傷つく。
(贅沢な女)
自分のことをいつの間にかそんなふうに考えていたかもしれない。求めすぎているのだろうか。だから、彼は結婚という文字を出してくれないのか。