What a wonderful world
由紀子の言うバーは、家から徒歩十分で着くところだった。駅から少し離れた閑静な住宅街の中に、ポツンと佇む小さなバーだった。店名が書かれた看板はなく、扉に小さくBARと書かれたプレートがぶら下がっているだけだった。
由紀子を待つ間、店の前を不要なほどウロウロしてみた。重く閉ざされた黒い扉。花が植えられていない小さな花壇。スモークガラスの窓からは人のいる気配があまり感じ取れない。初見の人はまず立ち寄らないだろう。実際、何人か人が目の前を歩いていったが、誰一人として入ろうとしなかった。塔子が怪しげに見えただけかもしれないが。
「おまたせー!」
「遅いよ由紀子!」
「ごめんごめん、旦那がどうしてもって言うからさー。」
ケラケラ笑う由紀子の後ろには、遠慮がちに笑う旦那さんの姿があった。
「お久しぶりです、塔子さん。」
「お久しぶりです。二人の結婚式以来かしら。」
「そうですそうです!相変わらずお綺麗ですね!」
「こら、浮気か!?」
「ばっか、変なこと言うなよ!」
冗談を言い合う二人は本当に仲睦まじく思う。
「塔子さん、バイト探しているんですよね。ここのマスターは僕の友達だから、頼み込めばきっとOKしてもらえますよ!」
「いえ、まだここにするとは決めてなくて。」
「今日は下見よ!ま、私はオススメしてるんだけどね!」
「なるほど、でも本当にいいお店ですよ。さ、入りましょう。」
由紀子の旦那が重々しそうな扉を開く。同時に静かなジャズが流れてくる。
「いらっしゃいませ…って雄一か。」
「よっ!」
「こんばんはー!」
「わあ、由紀子さんも!どうぞどうぞ!」
「俺との態度が違いすぎないかい?」
「お前の顔なんぞ見ても何も嬉しくないからね。おや?」
「今日は私のお友達も連れてきたんです!」
「ど、どうも。」
「いらっしゃいませ。竹口です。どうぞよろしく。」
「カウンターがいいんだけど、大丈夫?」
「ああ、構わないよ。」
入ってすぐに一枚板のカウンターがあり、八席のゆったりとしたキャスター付きのソファーが並んでいる。反対側にはテーブル席が三つ。そして思ったよりも奥行きがあり、奥にはアップライトピアノと簡単なドラムセットと大きなウッドベースが乗ったステージがあった。
「ライブが出来るんですか?」
ステージに並ぶ楽器たちに目を奪われ、思わず尋ねてしまった。
「滅多にありませんよ。ほとんどインテリアに近い。」
「マスターはトランペットですよね!カッコイイなあ!」
「雄一だってピアノできるじゃない。」
竹口はおしぼりを渡しながら会話に参加している。
「最近ろくに練習してないから無理に決まってるでしょー。」
「そんなことないよ!まだきっと指が覚えてる!」
「ほー、言うわね。じゃあ後でやってよね!」
「お、久しぶりにやるか!」
「ほ、他にお客が来なければな…。」
由紀子が雄一に挑発的に吹っかければ、竹口も乗っかって雄一を挑発した。堪らず雄一はお茶を濁している。その様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。
「さて、ご注文は?」
竹口は、三人の注文を聞くと慣れた手つきでカクテルを作っていく。由紀子の旦那と友達と言うことは、恐らく塔子とあまり歳は違わないはずだ。それなのに実年齢以上の大人びた雰囲気と、どことなく色気も感じる。
「ね、マスターかっこいいでしょ!」
「そ、そうね。お店も素敵だし。」
「ありがとうございます。」
竹口はカクテルを作りながら会釈で返す。
「このお店は何年目なんですか?」
「えーっと、三年目かな?」
「すごい!私たちとあまり変わらなさそうに、独立して三年なんて。」
「結構歳いってますよ。雄一の二つ上だから、三十一?」
「何で疑問系なんだよ。合ってるよ。」
「てことは雄くんももうすぐ三十か。おっさんだねぇ。」
「由紀子もすぐおばさんになるよ。あと二年だ、楽しみだなあ!」
「女は簡単にはおばさんにならないのよ!ねー塔子!」
「やめて、現実を突きつけないで!」
ケラケラと笑い合える雰囲気がとても良い。初めて来たところなのに、とてもアットホームだ。由紀子と雄一がマスターと知り合いだからかもしれないが、それ以前に店の空気がとてもいい。何故なのだろう。
「しかし、相変わらず人が少ないねえ。」
「うるせえな、こっから増えるんだよ。お前はいつも増える前に帰るからそう思うんだよ。」
「でも、本当にいいお店。思ったよりも落ち着くというか、安心するというか。」
塔子の話を聞いて、カクテルを作る竹口の手が一瞬止まり、にやりと笑った。
「やっぱ分かる人には分かるんだねえ!」
竹口の言葉に三人ともキョトンとする。
「はい、マティーニとキューバリブレと、アメリカンレモネードです。」
大小様々なグラスに色とりどりのカクテルが並ぶ。塔子の目の前に出されたワイングラスは美しいグラデーションに満たされている。
「アメリカンレモネード?」
「はい。レモネードに赤ワインを加えただけ。混ぜないでそのままお飲みください。」
じわじわと赤ワインがレモネードに溶け込んでいく。じっと見つめていると同じようにするりと溶け込んでしまいそうだ。
「なーんか塔子にだけ特別感出してる気がする。塔子もなんだかぼーっとしちゃってさ。」
由紀子の言葉で我に帰る。
「そ、そんなことないわよ。」
「仕方ない。塔子さん、綺麗だから。」
「ちょっと私はー!」
ああ、楽しい。こんな素敵なところを知れて良かった。
「おや、いらっしゃいませ。」
四人で楽しく談笑していると、新たに客がやってきた。初老の夫婦だろうか。まるでいつもそこに座っているかのように、ステージ前の小さなテーブル席に座る。
「今日はやりますかねえ。」
「やるとも。そんな気がする。」
夫婦はライブを楽しみにしているようだ。ビールを頼んだ二人は、ミックスナッツをつまみながら、BGMを聞いている。
「そういや、バイトはどうなったんだ?前の子辞めてから探してるって言ってただろ。」
ふと思い出したかのように雄一が竹口に尋ねる。
「ああ、まだ探してるよ。でも中々良い人がいなくてね。」
「どうせカクテル作れなんて言わないんだから、誰でもいいだろ。」
「そういうわけにはいかないよ。まあ元々一人でやってたから、確かに仕事量は大したことないんだけど、一人じゃやっぱりしんどい時はしんどいよ。休み無くお客さんの相手しなきゃだから。」
「ずばり求めるものは?」
「トーク力。あと、気の利く人。」
「やっぱり女性がいいんですか?」
由紀子が塔子をチラリと見ながら質問をする。塔子は、余計なことはしなくていいと、由紀子を牽制した。
「別に性別は関係ないんだけど、やっぱり飲食業…特にバーみたいなお客さんとお話しする機会が多い業種は女性が好まれるね。」
「ま、エロ親父とか喜びそうだな。」
「うちをそんな店と同じように見てもらっては困るね!うちは一応、バーはバーでもジャズバーなんだからねっ!」
声高らかに話す竹口は、どこか自慢げであった。
「そう言えば、さっき『分かる人には分かる』って言ってましたけど、どういう意味なんですか?」
塔子は思っていた疑問をぶつけてみた。
「塔子さん、この店に入る前どう思った?」
質問に質問を返されてしまった。
「うーん、入りづらそうなイメージはありました。看板とかないし、人がいる気配も無かったし、一人とか一見さんならまず入らなそう。」
「その通り。扉は黒く重たい印象。だが勇気を出して入ってみると、中は広々としていて奥には目を引く楽器たち。座席はソファのように座り心地よく、棚一面に並ぶボトルたちが圧倒的な酒の量を教えてくれる。極めつけは思ったより若い店主。」
「それです!もっと渋いお爺さんがやってて、気難しそうなイメージがありました。」
「外面だけが厳ついけれど、中身はとってもフランクで居心地が良い。そういったギャップを狙ってるんだ。」
楽しそうに話す竹口を見ると、本当にこの仕事が好きなんだなと思う。同時にこんな仕事があるんだなとも思う。居心地の良い空間を作り、それを提供する仕事。
「実を言うと、一見さんも入りやすくする仕掛けもある。もう少ししたら…ほら来た。」
扉が開くと二人組の男がやってきた。
「おばんです!」
「おばんですー。ナイスタイミングだよ。」
どうやら二人とも常連のようだ。
「今日はピアノがいないからちょっと待つ感じなんだよね。」
「それなら問題ない。彼がやるから。」
竹口は、二人に雄一を紹介する。雄一は慌ててやらないやらないと断っているが「後でやるんでしょ?」という由紀子の言葉で観念したかのように項垂れた。
「よっしゃ、早速やるかー。」
二人は空いているテーブル席に荷物を置くと、まっすぐステージに向かって歩き始める。雄一も「出来るかな」と自信なさげに呟いて後に続く。さらに「一曲だけね」と竹口も加わった。ピアノ、ドラム、ベース、トランペットの即席バンドの完成だ。
老夫婦が待ってましたとばかりに拍手をする。簡単な打ち合わせをしてライブが始まる。
ドラムが軽快なビートを刻むとウッドベースが軽やかに鳴り響く。雄一のピアノが伴奏を務め、竹口のトランペットがメロディーラインを走る。
「なんだっけ、これ。聞いたことある。」
「『枯葉』だよ。よく雄一が聞いてる。」
ゆったりとしたリズムで音が流れていく。時の流れも穏やかに過ぎるように。しかし、これのどこが仕掛けなのだろう。
『枯葉』が終わると、小さな店内に拍手が起こる。あとは勝手にどうぞと言わんばかりに竹口がステージに降りてカウンターに返ってきた。
「すごくかっこよかったです!」
「ありがとう。雄一も褒めてやってね。」
「まだまだですよ。昔はもっと出来てたもの。」
「厳しいなあ、由紀子。」
トランペットが抜け、トリオになって演奏が始まる。今度は聞いたことのない曲だ。
「すごいですね。練習してないのにあんな簡単に揃うなんて。」
「今のはスタンダード・ナンバーだからね。」
塔子がわからなそうな顔をすると竹口は、嬉しそうに説明しだした。
「所謂、定番の曲だよ。みんなが聞いたことがあるし、ジャズやってる人ならたぶんほとんど出来る。『枯葉』とか、『My Favorite things』とか。」
「そうだ、京都行こう。の曲ですよね。」
「CMでも使われるくらいメジャーなのね。」
「で、仕掛けとはなんぞやっていう話なんだけど。実はこの店は話し声は外には聞こえないが、演奏曲は外に漏れ出すような仕掛けになってる。ステージの天井には通風口があって、屋根裏伝いに扉の前に流れる仕組みになってるんだ。どこからともなく音楽が聞こえてきて、フラフラっと寄ってみれば分厚い扉。意を決して開ければ、バンドがセッションをしている。ハマる人はハマる仕掛け。」
「なるほど。」
竹口の説明を聞いていると、早速次の客がやってきた。
「あれ、知らん人がピアノ弾いとる。」
「彼は俺の友達。次変わる?」
「うん。スコッチをロックで。」
カウンターに座り、竹口と話す彼はどうやら常連で、ピアノを演奏するらしい。
「ね、素敵なお店でしょ?」
「うん。生演奏のジャズなんて初めて。」
「ま、私も初めて聞いたんだけど。」
「雄一さん、上手だねえ。」
「本人に言ってあげて、喜ぶから。」
「由紀子もちゃんと言うのよ。」
「二人きりのときにね。人前なんて恥ずかしい。」
「照れちゃって。」
演奏を終えて雄一が戻ってくる。
「ああ、緊張した。」
「すごく上手でした!」
「そ、そうかな。ありがとう。」
雄一は困ったような嬉しそうな顔をして笑う。気がつけばカウンターに座っていたピアノマンは、ドラムとベースの席に移って話し込んでいる。あの三人は知り合いなのだろう。
その後、テーブル席の三人組の演奏が始まり、雄一よりも上手いピアノの演奏に肩を落とす雄一の反応に笑い、満席になった店の邪魔にならないように後にした。
「忙しい時は本当に忙しいんだなあ。」
「そうだね。あれは一人では大変だわ。」
帰り道、三人並んで駅まで歩く。久しぶりに知人と酒を飲んだからか、あるいはとてもいいお店を知れたからか、塔子の気分はとても良かった。
「で、塔子どうする?あそこでバイトする?」
「するんなら、俺から竹口に伝えておきますよ!」
「ええ、そんな簡単に決められないよ。…でも、雰囲気はとても好き。あんなところで働いたことも無いし。」
「竹口さんは格好いいしね!」
由紀子が茶化すように口を挟む。
「格好いいけど、別に惚れてないわよ。」
「ほんと?たまに見惚れてたときがあったけど。」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて否定するが、間違ってはいない。実際、流れるような竹口の腕前は見惚れる程のものであったし、実は自分がここで働いていたらと妄想していたのである。
「でも、塔子さん。」
雄一が、申し訳なさそうに口を挟む。
「あいつの彼女にはなれませんよ。」
「どうして?塔子はタイプじゃないの?」
「いや、あいつは、ゲイだから。」
「「え゛っ…」」
思わず由紀子と二人して顔を見合わせてしまった。
「ああ、別に公表しちゃっても怒られませんよ。本人は隠す気サラサラないし。」
「だったら男のアルバイトの方を欲しがるかな…。」
「いや、それも無いと思いますよ。変に好みのやつを入れちゃうと仕事にならないかもだからって。」
「ああ。」
何故かつい納得してしまった。
「じゃあ、バイトするなら教えてね!遊びに行くから!」
「今日はありがとうございました。今度は家に遊びに来てください。」
「こちらこそありがとう。雄一さん。」
雄一と由紀子に別れを告げ、夜の街を一人歩く。頭の中はさっき聞いたジャズが流れている。気怠げで、軽やかで、ロマンティックで、哀愁漂う…。
「ふう…。」
家に着いてため息とともに壁に背を預ける。まだあの店の事を考えていた。私があそこで働いたら、私はどう変わるのだろう。
脳内の音楽は鳴り止まない。だが、ほんの少し異変を感じた。リズムが狂っている。
トントントントン。ジャズのリズムではない。正確に一定の速度で鳴り続けている。
ひどく気分を害された。素敵な高揚感を阻害するこの音はなんだ!
壁に耳を押し当ててみる。トントントントン。確かに聞こえる。集中しないと聞き逃すほどだ。確かにこのアパートは防音対策がきちんとなされてはいないが、今まで気になったことなどなかった。酔っているからか、それとも向こうがいつもより大きな音を立てているのか。
注意深く耳を傾ける。トントントントン。ジュワー。ジャッ、ジャッ。カチャカチャカチャ。
料理だ。
ああ、気分が悪い。気持ち良く酔ってたのに。何とも言えない高揚感に包まれていたのに。それが料理なんかで。苦手なものの音を聞いただけで台無しになるなんて。
思わず外へ飛び出し、隣の部屋の前に陣取ってしまった。酔っているとは言え、考え無しに行動を取る自分が恐ろしい。だが、それほどにも気分を害されたのが腹立たしかった。
呼び鈴を鳴らそうと指を伸ばしたとき、ふと、鼻腔に漂ってきた。
いい匂い。何を作っているのだろう。
あんなに怒っていたのに、そんな気持ちはどこかへ行ってしまった。外に面した通風口から漂ってくる匂いが、考えることを辞めさせていた。
はっと正気に戻り、そそくさと自室に戻る。顔は火が出るほど熱くなっていた。
「なんであんなことしたの私!何かしでかす前で良かった。危うくヤバイやつだって思われるところだった。」
その後、どんなに耳を澄ましても調理音は聞こえなかった。塔子の頭の中には、もはやジャズは流れていなかった。