コーヒーとクッキー
結局、一日中昨日のことを考えていたせいで、仕事に全く身が入らなかった。上司にも注意を受け、挙句には心配までされる。
「一日中ため息ばかりついてしまった。」
休憩室で項垂れてイスに座り、ポツリと言葉をこぼす。仕事を終えてもこうして帰らないのは、まるで親に怒られるのを恐れる子供のようだ。
「せーんぱい。サボりですかー?」
突如首筋に冷たい感覚がして驚いて振り返る。そこには缶コーヒーを手にする後輩の美雪がいた。
「サボってないよ。ていうかもう業務は終わってるから。」
「そうですか-。頑張ってる先輩は残業多いイメージでしたからー。」
語尾を伸ばす独特な話し方は、自然と賢人の緊張感をほぐしてくれる。
「お仕事終わったなら帰らないんですかー?」
「ちょっと帰りたくないんだよ。」
「何ですかー、良い歳して家に帰りたくないなんてー。」
美雪はケタケタ笑って、手にした缶コーヒーを開けて、グビグビ飲み干した。
「お前、それ俺のために用意したものじゃないのかよ。」
「えー?そんなこと言いましたっけー?」
「いや、言ってないけど…。」
「欲しかったなら言ってくださいよー。先輩、項垂れてて元気なさそうだから、私の豪快な飲みっぷりを見せて元気付けようとしただけですから、先輩のコーヒーは用意してませんでしたよー。」
「お前、俺が元気ないこと知っててそういう事するのな。だいたい、酒も飲めないくせに飲みっぷりなんか見せるな。」
「お酒の代わりにコーヒーなんですよー。」
「はぁ。」
ため息と共に、さっきまで考えてた悩みもスゥっと消えていくように感じた。美雪の言動はよくわからないが、それでも自分を元気付けようとしてくれていることは感じる。
「いい後輩を持ったよ、俺は。」
「じゃあお礼にご飯行きましょうー。ついでにお悩み相談もしますよー。」
「お前に話してもなんも解決できん。…ていうかお前、酒飲めんだろ。」
「お酒は飲みませんよー。食事だけですー。どうせ、すぐに帰りたくはないんでしょー?」
苦笑いして美雪の提案に応じる。どうせ、誘われなくても一軒寄ってから帰るつもりだったのだ。
七つの子が聞こえる。賢人のために夕食の食材を買いに出た塔子は、ふとオレンジに染まる空を眺めた。もはや日課となってしまった買い出しも、今日で最後かもしれないという恐ろしい考えが脳裏に浮かぶ。慌てて違う考え事をして、恐れをなくす。話し合わなければ何も解決しない。だが何を話せばいいのか。結局いい考えは何も浮かばず、ただただ日課を繰り返すだけだった。
帰り道をトボトボと歩く姿は、まるで幼い子どものようだ。友達と大喧嘩したあの日も、同じように帰っていた。あの子とはどうやって仲直りしたのだろう。母の腕の中で泣きながら「謝りたい」と呟いた自分に、母は優しく頭を撫でてくれた。
「お母さんが手伝ってあげる。」
そう言って母はクッキーを作ってくれた。
「これを明日持っていって、渡してあげて。」
私は小さく頷くと、可愛らしいラッピングを施されたクッキーを受け取った。
次の日、あの子の前に立ち、恐る恐るクッキーを手渡した。何を喋ったのかわからない。でも一緒に食べたクッキーの味は覚えてる。暖かくて、美味しくて、幸せの味がした。
「あら、塔子ちゃん。」
聞き馴染みのある声に呼び止められ、振り返る。
「宮下さん。」
宮下さんは賢人とよく行くイタリアンレストランの女将さんだ。
「買い物の帰り?」
「ええ、まあ。」
「最近来てくれないから寂しいわ。主人も会いたがっているから、また二人で来てねー。」
「あ、ありがとうございます。」
二人で食べたイタリアンは、美味しかったな。あんな幸せだった時間を私は過ごしてたんだな。
「塔子ちゃん?暗い顔してどうしたの?」
宮下さんに指摘されて、咄嗟にニコリとした表情を見せる。
「いえ、別に、なんでもないですよ。」
(私、今、懐かしがってた?まるでもう行けないみたいに。)
「そうそう、出かけ先でお菓子もらったんだけど、たくさんあるからあげるわ。二人で食べなさい。」
そう言って宮下さんは、私にお菓子の入った小袋を持たせてくれた。
「どんな時でも、甘い物は大切よ。」
意味有りげに耳元で囁き、彼女は去っていった。手に残った小袋を少し開けてみると、中身はクッキーだった。
自然に頬が緩む。大丈夫。きっと大丈夫。あの時みたいに仲直りできる。
自分自身に言い聞かせて、塔子は下り坂を歩く。夕焼けで伸びる自分の影を見つめながら、しっかりとした足取りで帰路に着く。
(今日は賢人の好きな物を作ろう。そして私から謝ろう。二人の間で、きっと価値観がズレただけ。もう一度やり直せるはずだから。)
だが、その日賢人は帰ってこなかった。